二十五 狂言「二十四句目」 ――垣の外にも一人居たのに
文台の上に、句が、二十三。
恋の座の、二句目である。
順は——また、爺であった。
冬の折でも、恋の二句目は爺に回った。回り合わせというものは、ときどき、洒落が利いている。
「爺様。恋じゃぞ。二句目じゃ」
「ん」
爺は、湯呑みを抱えたまま、文台の前句を、遠目に見た。
名を問へば咲かぬ夕顔、垣の内。
爺は、しばらく、黙っていた。
それから、思い出話の調子で、ぽつりと言うた。
「……夕顔の垣ってのはね、いいもんだよ。夕方んなると、白いのが、ぽつぽつ咲いて。……あたしゃ、ああいう垣の外に、よく、座ってたからね。往来の隅っこに」
「ほう」
「そうするとね、垣の内で、逢うんだよ、人が。こっそりね。……こっそりのつもりなんだが、みんな、あたしの前じゃ、隠さないんだよ」
「……なぜじゃ」
「居ないことに、なってるからね、あたしは」
爺は、湯呑みをすすった。
「垣の外の乞食なんぞ、石ころとおんなじさ。石ころの前でなら、人は、なんでもする。泣くのも、口説くのも、別れるのも。……だからね、忍ぶ恋ってのは、あたしの前でだけは、いっぺんも、忍ばれたことがない」
座が、静かになった。
世界中の忍ぶ恋の、ただ一人の目撃者が、囲炉裏の端で湯呑みを抱えている、という話である。
「……見たのを、覚えてるんですか」と女が、静かに聞いた。
「覚えてないねえ」
と爺は、こともなげに言うた。
「山ほど見たはずなんだが。……ぜんぶ、どこかへ行っちまった。景色の下だよ」
見られたが、覚えられていない。
忍んだ恋にとって、これ以上あんばいのよい目撃者は、天下に、いない。世界中の秘めごとは、いちばん安全な蔵にしまわれているのである。鍵は、忘却であった。
爺は、湯呑みの底を覗いて、続きのように、言うた。
「——垣の外にも一人居たのに」
執筆の筆が、下りた。
センセが、文台に飛びついて、指を折った。
「……七七。……また、ぴったり七七じゃ! 二度続けてじゃぞ! 爺様、そなた——まさか、上達しておるのか!」
「なにがだい」
上達は、しておらぬのである。ぼやきの寸法が、たまたま二度、器に合うただけである。だがセンセは、この晩から、妙な癖がついた。爺のぼやきを、いちいち、指を折って数えるのである。
「(……腰が痛いねえ……五、七、いや、六音……ならぬか……)」
「(……燗がぬるいよ……七……お、七……続きを言え、続きを……)」
続きは、出ないのである。句になる時と、ならぬ時の差は、爺にも、センセにも、たぶん天地の間の誰にも、分からない。
女が、書かれた七七を、見た。
垣の外にも、一人居たのに——。
垣の内の忍ぶ恋の、垣の外に、もう一人。恋の句として読めば、想いを寄せて入れずにいる者の句である。切ない、良い恋の句である。
ほんとうに立っていたのが誰かは、いま、湯呑みの底を覗いている。
「……その一人は、黙ってたんでしょうね」
「ん? ああ、黙ってたねえ。……何をだったか」
何をだったかも、忘れているのである。
黙っていたことだけが、忘れずに、句になった。
文台の上に、句が、二十四。
——垣の外にも一人居たのに
恋の座に、居ないことになっている者の席が、ひとつ、増えた。
増えたことに、気づく者は、垣の内には、いない。
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