二十二 頼政 ――弓置いて聞く五月雨の声いくつ
戸を、叩く音がした。
間の正しい、ゆっくりした音である。
急がぬ音であった。急げぬ音でも、あった。
白髪の老武士が、立っていた。
背筋は立っているが、立てるのに、それなりの支度が要る立ち方である。腰に太刀、背に弓——弓には、弦が、張られていなかった。
弦を外した弓を負うて歩く老人、というものの意味を、座はそれぞれに測り、それぞれに、黙った。
円座に着いて、燗を受けて、老武士は、うまそうに、ゆっくり飲んだ。
「歌の座と伺うて。……老骨に、歌は、ありがたい。弓より、ずっと、長く持てますのでな」
話の分かる客であった。センセが、さっそく身を乗り出した。
「歌と申せば。恐れながら、あなた様の——椎の実の歌。歌一首で、位階の動いた、あの」
「ああ」老武士は、苦笑した。「あれは、愚痴です。愚痴が、たまたま、上手に詠めた。……歌詠みの誉れと言われると、面映ゆい。愚痴の誉れです」
愚痴で三位まで上がった人は、後にも先にも、この人だけである。愚痴の誉れも、誉れである。
文台の巻を、老武士は読んだ。
発句と、脇のところで、目が、止まった。
やれ打つな、蠅が手をすり足をする。
打たぬと決めた、庵の夕凪。
老武士は、長いこと、その二句を見ていた。
「……よい掟の家だ」
と言うた。言うてから、ぽつりと、続けた。
「わたしは、射た側でしてな。……化生を、一匹。宮中で。夜の雲の中の、姿も見えぬものを、声だけを頼りに」
鵺の話である。座の誰もが、知っている武勇である。
老武士は、その武勇を、手柄の顔では、しなかった。
「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎——落ちてきたものは、いろいろなものを、無理に一つに継いだような、哀れな姿をしておりました。……この巻と、すこし、似ておりますな。いろいろな世を、継いで、継いで」
巻を化生に例えられて、怒る者は、この座にいなかった。むしろ、うまいことを言う、という顔が、並んだ。
「……あの晩、闇の中で。あれも、ひょっとすると」
老武士は、発句を、もう一度、見た。
「——手をすって、おったのかも、しれませぬなあ。夜目には、見えなんだが」
座が、静かになった。
生涯でただ一つの誉れの底を、この人は、五百年、覗き続けてきたのである。
「二十一句目を、お願いいたす」とセンセが、頃合いを計って言うた。
老武士は、頷いて、詠んだ。
「——化生も手をすりし夜や五月闇」
執筆の筆は——下りなかった。
老武士が、筆を見た。座が、センセを見た。センセが、腹を決めた。
「……恐れながら。打越に、ございます。手をすり、は、発句の詞。前々句より前とは申せ、発句に戻るは、輪廻と申して、巻のご法度で。……二つ前より先には、戻れませぬ」
老武士は、しばらく、黙った。
それから、ふ、と息を吐いて、笑うた。
「戻れませぬか」
「戻れませぬ」
「……生涯、戻りたい場所ほど、戻れぬものです。巻も、同じと見える」
式目を、身の上で受け取る客ばかりの巻である。
老武士は、目を閉じ、句を、組み直した。
「——弓置いて聞く五月雨の声いくつ」
筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
射た人が、弓を置いた。
置いて、雨夜の声を、数えている。あの晩は射た声を、いまは、聞いている。声の主が何であれ、聞くだけなら、誰も落ちてこない。
センセが、それから、そっと、言うた。
「……ときに。あなた様の、辞世に。埋もれ木の、と」
「ああ」老武士は、盃を置いた。「花咲くことも、なかりしに——と、詠みました。……花の字は、定座とか。好都合です。わたしの花の話は、暗うて、いかん」
「恐れながら」
センセは、書物の山から、一冊も出さずに、言うた。今夜は、出さずに言えたのである。
「この巻の、冬の折に。……あなた様の挙兵を発句として、付けて、付けて、付け続けた者たちの——その付合の、果ての果ての御方が、座って、おられました」
老武士の手が、止まった。
センセは、文台の巻を、冬の折まで、繰った。
三句目である。
——大船の朽ちし渚も雪降りて
「鎌倉の、三代目の将軍にあらせられます。歌の道の、お人でした。……御血筋は、あなた様とは、遠く分かれておりますが——」
センセは、めずらしく、きっぱりと言うた。
「——歌仙に、血は、要りませぬ。前句と付句が、親子にございますれば。付けの系図では、直系と、心得ます」
老武士は、その一句を、長いこと、長いこと、見ていた。
埋もれ木の、と詠んで果てた人である。おのれの挙兵は、負けて、燃えて、何も咲かせなかったと、五百年、思うてきた人である。
その挙兵を発句に、次の者が付け、また次の者が付け——巻の果ての果てに、居たのは。
「……歌人で、あったか」
と、老武士は言うた。
「わたしの挙兵の、果ての果ては。……武人でも、将軍でもなく。……歌人で、あったか」
埋もれ木は、咲かなかったのではない。
咲くのに、三代、かかったのである。花の色が、歌であっただけである。
老武士は、盃を、干した。
立ち上がるとき、弦のない弓を、負い直した。捨てないのである。射るためではなく、置いたことを忘れぬために、負うて歩くのである。
「宇治へ、戻ります。……螢の、頃ですので」
戸口で、一度だけ振り返って、文台の——冬の折の一句に、目礼をした。
夏の宵闇へ、ゆっくりした足音が、遠ざかった。
文台の上に、句が、二十一。
——弓置いて聞く五月雨の声いくつ
声を数える夜は、長い。
長いが、射る夜より、よほど、よい。
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