十五 和泉式部 ――後朝の文の遅さよ朧月
戸を、叩く音がした。
忍びやかな、音である。
夜更けに、音を立てずに叩く稽古を、生涯ぶん積んだ者の音であった。聞いたこちらが、なぜだか、すこし、恥ずかしくなる叩き方である。
女が、立って、開けた。
女が戸を開けたのは、この座で、初めてのことである。開けるべき者が開けた、という顔で、開けた。
春雨に、袿の肩を濡らした女人が、立っていた。
女房装束の、雅な人である。歳の頃は、分からない。分からない、という歳の取り方をした人である。
敷居をまたぐと、座に、ふわりと、薫物の香が満ちた。
「恋の句が要る、と聞いたものだから」
と女人は言うた。
「どこでお聞きに」とセンセ。
「風の噂よ」
女が、燗を注ぎながら、あたしは言ってませんよ、という顔をした。誰も、それ以上は追わなかった。恋の座が開くとき、恋の人に知れるのは、道理のような気もするのである。
「よくぞ、おいでくださいました」とセンセが、講釈の顔になった。「十四句目より、恋の座でございます。恋の句は、二句三句と続けてよろしい。よろしいが、必ず、離れねばなりません。恋に、居続けは、ご法度で」
「あら」と女人は、目を細めた。「よく、ご存じ」
「し、式目ですので」
「式目で、ご存じなのね」
センセが、返答に窮した。恋の句の規則には精通し、恋には精通しておらぬ男の窮し方であった。女人は、それ以上はいじめず、燗を、おいしそうに含んだ。
女人は、酌の女を、しげしげと見た。
「……あなた。恋の話を、ずいぶん、たくさん、御存じね」
「聞くだけですけどね」
「聞くだけで」と女人は言うた。「その注ぎ方ができるなら——したのと、同じよ」
女は、何も言わずに、徳利を置いた。
置き方が、いつもより、すこし、丁寧であった。
文台の巻を、女人は読んだ。
読みながら、指先で、一句ずつ、なぞった。歌を、目でなく、肌で読む人である。
「……跡より届く、春の便りも。——便りの句で、あたくしを呼んだのね、この巻は」
女人は、盃を置いた。
「便りで、泣いたり笑ったりした夜の数なら、誰にも、負けないもの」
問われもせぬのに、女人は、ぽつぽつと話した。
待った文のこと。来なかった文のこと。来たけれど、待った長さのぶんだけ、短かった文のこと。
亡くした人に、百二十首、歌を書いたこと。届く宛てのない歌ほど、たくさん書けるものだ、ということ。
「あの世の外の思い出に、いまひとたび、と詠んだこともあるわ」
と、女人は、こともなげに言うた。
「叶ったのですか」とセンセが、うっかり、聞いた。
女人は、笑うた。
「願いはね、叶うと、終わるの。——あたくし、まだ、終わっていないでしょう? ……お察しなさいな」
察せられた者は、いなかった。察せられない、ということだけが、察せられた。
「十四句目を」と、女が、静かに促した。
女人は、目を閉じもしなかった。
恋の句は、探しに行くものではなく、袂に入っているものらしい。
「——後朝の文の遅さよ朧月」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
後朝の文は、早いほど、情が深いとされる。
その遅さよ、と詠んだ。恨みの句の顔をして、待つ間の朧月をひとりで眺めている、贅沢な句である。待たされる甘さを知っている者にしか、詠めない遅さである。
「恋の句はね」と女人は、書かれた句を見ながら言うた。「遅れて来るものを詠めば、たいてい、恋の句になるの。文でも、人でも、春でも。——恋はぜんぶ、待つ側の言い分だから」
女人は、立った。
戸口で、濡れた袿の肩を直し、振り返って、座を見た。
「よい座ね。……また、どこかの恋の座で」
朧月の下へ、出ていった。
足音は、来た時と同じに、忍びやかで、すぐに、しなくなった。
香だけが、しばらく、座に残った。
体より、想いのほうが、長居する人なのである。
文台の上に、句が、十四。
——後朝の文の遅さよ朧月
恋の座が、開いた。
離れるまでの、二句か三句。
巻でいちばん、火の近い場所である。
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