第85話 ニコ
夜のうちに、ブルーノさんに送る手紙を書き直し、首都へ行く途中に屋敷に寄ってもらうよう頼む。
マルコさんとエミルさんには、ブルーノさんがやってきたら、地下室のワインを二十本載せてもらうようお願いする。
キースさんとブルーノさんがやってくるまですることがなくなった。
次の日、朝早く散歩に出かけた。フェリルを連れ、オットーさんも、少し離れてついてくる。
城の裏手、石壁に囲まれた小さな一角にたどり着く。
春、僕がこの世界で初めてブドウの匂いをかいだ場所だ。
ただ、残念なことにブドウ畑は荒れていた。
つるは伸び放題で、葉も生い茂り、実は無残に干からびているか、軸があらわになっている。
「夏以降、面倒が見られなかったからな」
声がするほうを向くと、作業着のヴィリーさんが立っていた。
「手伝ってくれるか?」
ヴィリーさんに言われ、
「ええ、いいですよ」
ヴィリーさんに剪定ばさみを渡される。
ラチェット式だった。
「これが便利で使い勝手がいいんだ」
「そうですか?」
「ハルさんが考えたんだろ?」
――さすが、ヴィリーさんってところか。
二人で、房や増えすぎた葉、伸びすぎたつるを切り落としていく。
ゆっくりとした時間が過ぎていく。流れる汗もわずかな疲労も心地よい。
フェリルも畑の中を跳びはねている。
「そういえば、ヴィリーさん、元勇者だったんですか?」
ヴィリーさんが吹き出した。
「ああ、あれね。冒険者していたころ、大した技量もスキルもないのに持ち上げられたんだ。今の勇者の足元に及ばない勇者だったよ。でも、なぜか、みな、私を慕ってくれてね。今の勇者もそうだ」
ヴィリーさんの言っていることが、真実か、謙遜かわからない。でも、人に慕われる魅力があるのは間違いない。
◇
昼前には終わった。
ヴィルフリート様は、昼から宰相として仕事があるということだった。
僕は昼食をとって、城の外にくりだした。
フェリルは目立つので、勇者様が預かることになった。
どうも、フェリルのやつ、勇者様になついているみたいだ。
オットーさんも目立つので、少し離れて歩いてもらった。
市場の前を通りかかったときだった。
「もしかして、ニコかい!?」
女の人の声に引き留められる。
振り返ると、野菜の籠を抱えた中年の女性が、僕の顔を見て立ちすくんでいた。
「ニコ……だよね?」
その名前は覚えている。僕がこの世界に来たときに、ドルン伯爵が僕のことをそう呼んでいた。
――そうだ。心は柚木晴彦でも、体はニコのものだった。
女性は、僕の顔をじっと見て、しばらくして、ため息をつくように言った。
「……ごめんなさい。人違いね。あまりにも似ていたから。ニコは、そんな穏やかな顔はしていなかったわ」
僕は、何も言えなかった。
女性は、ニコの叔母だと言った。
ニコは早くに両親を亡くし、ドルン家に奉公に出された。ひどい扱いを受けていたようだ。
「ドルン家がなくなって、ニコも行方不明さ。生きてりゃ、顔を見せに来るだろうと、待っているんだけどね」
――ドルン家がなくなった? 伯爵はどうしたんだろ?
叔母さんは、籠を抱え直した。
「ニコには弟がいてね、少し前にやってきて、仕事で首都を出ていくって言ってたよ。エミルっていうんだけど」
――エミル? まさか……
「引き止めてごめんなさいね。あまりに似ていたから、つい、思い出して話してしまったわ」
叔母さんは、人ごみの中へ消えていった。
僕は、しばらくその場から動けなかった。
「大丈夫ですか?」
オットーさんが、心配になって近づいて、声をかけてくれた。
「ええ、大丈夫です」
「顔が真っ青ですよ」
「いや、大丈夫。なんでもないです」
城への帰り道、オットーさんは心配して、僕の横を歩いてくれた。
城門をくぐった直後。
ドカーン!
地響きを立てて、轟音が鳴った。
そのあと、城に雷が落ち、竜巻が起こり、火柱が上がった。
「様子を見てきます」
オットーさんが、城の奥へ向かった。
後できいたのだが、どうやら、勇者様とフェリルが力比べで戦ったらしい。
最初の爆発音は、近衛兵の訓練所がぶっ飛んだ音だそうだ。
一人と一匹は、ヴィルフリート様に、こっぴどくしかられたらしい。




