伊能&鳥井
鳥井は伊能を空いている商談室に誘った。
「あれは俳優だ。松下君をみてわかった。それも舞台俳優だ」
「桜木君の腕を掴まえた男か」
「そうだ。常に観客席を意識する体の置き方、動かし方。表情の作り方。そいつを徹底的に体に馴染ませている男だ。あの男は陽子さんの腕を掴んだ時は見掛けどおりの実直そうなサラリーマンだった。だが人違いとわかった時に、客商売らしい雰囲気にがらりと変わってしまった。恐らくびっくりした拍子に素顔が出てしまったのだろう。どうしてそんなことをやっていたのかはわからないが、あの日の事件と関係があるのかもしれん」
「そうか」
伊能はうなずいた。そんなことがわかるのかとは思わなかった。鳥井の鑑別力は天与の資質を更に磨き上げたものだ。絵画・骨董などの真贋の鑑定能力はむろんのこと、依頼人やタレントたちのわずかな声音のニュアンスや身振りから、相手の魂胆の内を透かし見る眼力がなければ一流の斡旋人は勤まらない。まあ、すでに斡旋人職を辞したのだが・・・
伊能もその能力においては、方向性にちがいはあるが鳥井と同じレベルにあった。『僕の目は鷹と交換したんだ。だから雀の兄妹もわかる』とは、かつて同じ団地に住む少女に冗談として語った言葉だが、そうあるべく常に五感を磨いていた。その必要が厳然とあった。
「しか、したいした眼力だな」
「冷やかすな。俺の叔父と従姉にそれをやっているのがいたんだ。関西では結構名の売れた役者だったのだが、それを今、思い出したというわけだ」
「待てよ・・・鳥井がそういうのなら・・・・」
伊能は何かを思いだしたようにそういって口を閉じた。
「どうした」
「ちょっと待ってくれ。座っていいか」
伊能はそこのソファに腰をおろした。鳥井は黙って向かいに腰をおろした。伊能は半眼になると彫像のように動かなくなった。顔からは見る間に血の気が退き呼吸もあるかなしかになった。常人なら驚いて肩を掴んで揺すぶるところである。しかし伊能をよく知る鳥井はそれを耐えた。やがて、少しずつ血の色がもどり始め、さらに三分もすると伊能の顔はすっかりもとにもどった。
「みつけたよ。じつは俺にも気になっていたことがあったのだ」
青山での食事会の日のことである。
「あれから銀座線に乗って赤坂見附の駅でおりた。そこで丸の内線に乗り換えようとしたのだが、その時だ」
赤坂見附駅での乗り換えは同じホームで出来る。人波を横切って反対側のホームに行けばいい。しかしその時、伊能は異様なものの存在を全身で感じ取った。
「渋谷方面に向かって三々五々人波の中を歩く人間たちがいた。それが明らかに仲間どうしなのに、どういうわけか皆他人を装って歩いて行くのだ。その不自然さが俺のアンテナにひっかかった。始めは俺がターゲットかと思って緊張した。例の連中がそろそろやってくる頃だからな。でも俺ではなかった。あのあとは俺の気のせいかと思っていたのだが、あれはやはり偽装だ。偽装集団だ」
鳥井は膝を叩いた。
「それだ。そちらの方向に歩いてゆけば半蔵門線のホームを通って永田町駅までゆける。つまり有楽町線に乗れるのだ。彼女の腕を掴んだ人間もその中にいた可能性がある。とすれば」
「暗殺者の群れか」
「そうなるな・・・ざっと見には何人だ?」
「七、八人かな」
「しかし、殺しは永田町に来る前で行われた・・・やつらの任務はなんだ・・・重要な証拠品を受け取って処分か、永田町から銀座一丁目まで行き、乗り換えて先頭電車にのり、異物が混じってないかを確認するか。考えると六十から八十人はいなければならない。どうりで目撃者が現れないわけだ。頭のいいやつがいたもんだな・・・プロの演劇集団ならできるのかもしれん」
「ミスターバードの血が騒ぐか」
「えっ、馬鹿をいえ」
ふたりが声もなく笑い合ったそのとき、ドアがノックされ、よろしいでしょうか、と陽子が顔を出した。
「お話、長くなりそうですか。松下さんを余りお待たせしてもと思って」
「あ、そうだな」
鳥井に続いて伊能が部屋を出ると、陽子は子どものように両手を合わせて甘えるようにいった。
「私、松下さんの奥様から、女優におなりなさいなっていわれちゃった」
「おおお。それはいいですねえ」
鳥井は頬を崩した。
「いや本当だ。表情もいいし声も響く」
松下が真顔でいい添えた。
「ほら、あなた、あそこの木山さんにとっても感じが似てると思いません? 私ひと目見た時にそう思ったわ。こちらの方がずっとお綺麗でいらっしゃるけど」
「だれです。その木山さんというのは」
聞き返した鳥井の表情は真剣なものだった。
「劇団アルテナの女優さんですわ」
「山崎栄介の主宰する劇団ですね」
「そうです。ああ、そういえば最近、山崎さん、お友だちが殺されたとかで新聞に出てましたわね」
鳥井は伊能の腕を掴むとくるりと向きを変え、小声でいった。
「伊能。これは佐野さんに一報だな」
「うん。佐野さんには俺から話をさせてくれるか。この前のお詫びもいいたいし」




