見守る日々の中で
子どもは、気づかないうちに少しずつ変わっていく。
昨日まで出来なかったことが出来るようになって、
昨日まで気にしていなかったことに、立ち止まるようになる。
その変化のすべてを、そばで見ていられるわけではない。
それでも——
大切なところだけは、見落とさないように。
今日も、少し離れた場所から見ている。
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
広場には、すでに子どもたちの声が響いている。
走り回る足音。笑い声。
その中に、セナの姿もあった。
まだ少し小さな背中が、他の子どもたちに混じっている。
ナナは洗濯物の入った籠を抱えながら、
その様子を少し離れた場所から見ていた。
「最近、よく遊ぶようになったねえ」
隣で声がする。
振り向くと、ハンナが立っていた。
「ええ」
ナナは短く答える。
視線は広場のまま。
「前は、ずっとくっついていたのに」
「そうね」
少しだけ間を置いてから、
「でも、あれでいいと思うわ」
ハンナは、ふっと笑う。
「そうさ、今の時期に遊ばせないのはもったいないからねえ」
ナナは微笑んで、もう一度セナの背中を見た。
*
広場の端では、老夫婦が畑をいじっている。
その周りには、何人かの子どもが集まっていた。
「それ、どうやって植えるの?」
「根をこうしてな——」
ゆっくりとした声。
子どもたちは真剣に見ている。
興味を持った子だけが、自然と集まる。
無理に教えない。
でも、聞かれれば答える。
そんな距離感だった。
*
「ちょっとトト、どこ行くの!」
少し離れたところで、サラの声が響く。
トトが、広場の外へ出ようとしていた。
サラと同い年の、ミリアの息子だ。
最近は一人で動き回ることも増えて、よくこうして広場の外へ行こうとする。
「もう、勝手に行かないでって言ってるでしょ!」
サラは後を追いながら言う。
「朝のお手伝い、まだ終わってないでしょ!」
「だって、あっちのほうが面白そうだし!」
「面白そうでもダメなの!」
サラは腕を引いて引き戻す。
「やることやってから!」
ナナはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
さすがハンナの子だ。
同い年なのに、まるで小さなお母さんみたいだ。
*
日々は、静かに積み重なっていく。
ナナは薬を作り、納品し、また材料を集める。
ギルドでは、いつものように受付が行われていた。
「今日も安定していますね」
穏やかな声。
リオルドだった。
糸目のまま、書類に目を落としている。
「ええ」
ナナは短く答える。
「品質も、納品量も問題ありません」
「ありがとうございます」
「仕事ですから」
リオルドはわずかに口元を緩めた。
「その通りです」
それ以上は踏み込まない。
必要なことだけを、正確に。
*
ある日。
仕事の帰りだった。
広場に差しかかったところで、少し強い声が響いた。
「やめろって言ってるだろ!」
セナだった。
向かい合っているのは、見慣れない少年。
「ありゃ、カイルだね」
いつのまにか横に来ていたハンナが言った。
「別の広場の子だよ」
「止めるかい?」
ナナはしばらく考えた。
けれど——
そっと、首を振る。
ハンナはそれ以上何も言わない。
ただ、同じように見守った。
「なんだよ」
「ほんとのことだろ」
「母親しかいないんだって?」
空気が変わる。
セナの顔が、強張る。
「……言うなって言った」
「なんで?」
「恥ずかしいからか?」
拳が震える。
そして——
*
帰ってきたセナの頬は、少し赤くなっていた。
服にも、土がついている。
ナナはそれを見て——
すぐには何も言わなかった。
「……手と顔、洗っておいで」
いつも通りの声だった。
セナは小さく頷いて、奥へ行く。
水の音がする。
その間、ナナは何も聞かない。
*
戻ってきたセナは、少しだけ俯いていた。
ナナは椅子を引く。
「座りましょうか」
向かい合う。
ナナはそっと手を伸ばし、セナの頬に触れる。
濡らした布を、優しくあてる。
少しだけ腫れている。
薬を薄く塗る。
その手つきは、いつもと変わらない。
静かな時間。
ナナが口を開く。
「……どうしたの?」
責める声ではない。
ただ、聞いているだけの声。
セナは少しだけ迷ってから口を開く。
「……言われたの」
「お母さんのこと」
ナナは何も言わない。
続きを待つ。
「……へんだって」
「父親もいないって」
小さく息を吸う。
「……言うなって言ったのに」
*
沈黙。
ナナは、ゆっくりと頷いた。
「そう」
それだけだった。
*
少ししてから、ナナは言う。
「……それで?セナはどう思ったの?」
セナは言葉に詰まる。
「……いやだった」
ナナは頷く。
「そうね」
「……はらがたった」
「……ゆるせないって思った」
ナナは、否定しない。
「……それで、どうしたの?」
「……たたいた」
「そしたら、たたかれた……」
ナナは少しだけ目を伏せる。
でも、怒らない。
「……どうしたらよかったと思う?」
セナは答えない。
長い沈黙。
セナは、自分の手を見る。
「……わかんない」
「手……いたい……」
少し間を置いて
「……でも」
「心のほうが、いたい……」
ナナは、少しだけ微笑んだ。
「そう」
それから、静かに続ける。
「すぐに答えが出なくてもいいわ」
「でもね」
セナは顔を上げる。
ナナは、まっすぐ見る。
「あなたが、どうしたいのか」
「どうしたらよかったのか」
「それを、ちゃんと考えられるようになってほしいの」
「今は……しっかり悩んだらいいわ」
ナナは微笑んでセナに言った。
セナは、小さく頷いた。
「……うん」
ナナはそれ以上、何も言わなかった。
「ご飯にしましょうか」
いつも通りの声。
その日も、変わらない食卓だった。
*
翌日
広場には、いつも通り子どもたちの声が響いていた。
走り回る足音。笑い声。
その中で、セナは一人、少し離れた場所に座っていた。
膝を抱えて、地面を見ている。
「どうした」
少ししわ枯れた低い声が、頭の上から落ちてきた。
顔を上げると、ガルドが立っていた。
いつものように、ゆっくりとした動きで、隣に腰を下ろす。
「……なんでもない」
セナは小さく言う。
ガルドはそれ以上、すぐには聞かない。
しばらく、子どもたちの様子を一緒に眺める。
風が、少しだけ草を揺らした。
「……昨日、けんかした」
ぽつりと、セナが言った。
ガルドは視線を前に向けたまま、頷く。
「そうか」
「お母さんに、聞かれた」
「どう思ったのか、って」
「どうしたらよかったのか、って」
セナは少しだけ唇を噛む。
「……自分で考えなきゃいけないって思って」
ガルドは、少しだけ目を細める。
「そうだな」
少し間が空く。
「でもな」
ガルドは、ゆっくりと続ける。
「一人で考えることだけが、答えじゃない」
セナが顔を上げる。
「大人を頼るのは、弱さじゃない」
「ズルでもない」
風が吹く。
遠くで、誰かが笑った。
「話してみると、頭の中が整理されることもある」
「それで、答えが見つかることもある」
セナは何も言わない。
でも、少しだけ視線が揺れる。
「……でも」
セナが小さく言う。
「悩みなさい、って」
ガルドは、少しだけ笑った。
「悩むのは、お前だ」
「だがな」
「……一人で、悩みなさいと言われたか?」
セナは、ぽかんとガルドを見る。
ゆっくりとした声。
「頼るのも、選び方の一つだ」
セナは、膝の上の手を見つめる。
ぎゅっと握っていた指が、少しだけ緩む。
「……そっか」
小さな声。
でも、昨日より少し軽い。
ガルドはそれ以上何も言わず、ゆっくりと立ち上がる。
「話したくなったら来い」
それだけ言って、畑の方へ歩いていった。
セナは、その背中を少しだけ見ていた。
それから、広場の方に目を向ける。
胸の中が、少しだけ軽くなっていた。
*
季節が、少しだけ進む。
変わらないようで、少しずつ変わっていく日々。
ナナは今日も薬を作り、
セナは今日も広場で過ごす。
積み重ねた時間は、目には見えない。
けれど、確かにそこにある。
*
ある日。
一通の手紙が届いた。
ナナは封を切る。
静かに読み進める。
「……」
わずかに口元が緩む。
セナが覗き込む。
「アルスから?」
「そうよ」
セナの目が少しだけ輝く。
「なんて?」
ナナは、手紙を軽く畳む。
「金等級に上がったそうよ」
セナはぱっと顔を上げる。
「すごい!」
ナナは小さく頷いた。
「ええ」
その声は、どこか柔らかかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
子どもの成長は早く、嬉しいものでもあり、少しだけ寂しいものでもあります。
子どもが悩んでいるとき、
すぐに答えを出してあげたくなることもあります。
見守るということは、何もしないことではなく、
手を出さないと決めることなのかもしれません。
ナナのように向き合えたらと、思いながら書いていました。
後編もお付き合いいただけたら嬉しいです。




