4章7話:だから、首を絞める
甘い、猛毒のような声。その声で、
『アイリス』
いつも、頭の中で名前を呼ばれている。
『アイリス』
無視しようとすればするほどに強くなるものだから、受け入れるようになった声。
受け入れると、次は姿がチラつくようになる。思わず目を惹く明るい黄緑色の長い髪、ゾクリとするほどに白い瞳。
その姿が見えると、何もかも捧げたくなる。それが自分の役割なのだと、何を犠牲にしても、彼女の役に立って尽くすのだと、そんな錯覚をいつもしていた。錯覚だと自覚したまま。
——
強烈な血の匂いにアイリスの眉間は皺を刻む。木々や花々、そういう自然の香りが一番好きな彼女にとって、何回嗅いでも受け入れ難い匂いだ。
しかし、血を吹き出させたのはアイリス自身だ。
「仕方がないどすえ」
目の前にいる黒髪の女は、膝と片肘を地につけてなんとか倒れないよう体を支えている。地面へ倒れ込む寸前、というより半分倒れている。なんと情けない姿だ。
所詮は若い小娘。
悪運でしぶとく生き残ってきただけのか弱い普通の人間。
エルフとして長年生きてきたアイリスに敵うわけがない。
多少時間はかかったが、力量差は圧倒的で一方的にリーゼは惨たらしい姿にした。
「なんか、前にもここで、ボロボロになったきがするぜ……」
「無理して立ち上がることないんどすよ」
苦しそうに顔を歪め、フラフラとよろめきながら立ち上がろうとするリーゼの体を掌で軽く押す。
「——っうあ!」
魔法などわざわざ使わずとも、容易に彼女は後ろへ倒れ、鳴き声を上げながら地面に仰向けになった。
「言い残すことはありまへんか?」
リーゼが悪い。研究所から出てきて弱い魔法で土煙を上げさせながら攻撃してきたと思えば、研究所へ入るための鍵を掲げてそれを自分の口へ入れて呑み込んだのだから。
厄介な付与魔法で建物の破壊は不可能であることを悟った。なのにそんなことをされては、リーゼの腹の中を裂いて鍵を取り出すしかないではないか。
しかし、生きたまま腹を裂く猟奇的な趣味はない。ちゃんと、殺してから引き裂くつもりだ。
「……鍵をウチから取り出して中に入っても、槍なんて見つからないかもしれないぜ? 知ってるだろ、フミーは召喚術が使えるんだ。そして今頃フミーは『ノーマル王国』。……わかるだろ?」
「あら〜、ぼくを心配してくれるん? でも安心してな。それならそれでログライフ様や銀黒の魔女さんが回収するやろし」
「チッ……」
負け惜しみのような最後の言葉でしかない。それを憐れみながらリーゼを見下ろす。
千切れかけの片腕は相当腕の良い回復魔法の使い手でなければ治せないだろう。赤黒い血が流れる膝の傷口には砂が混じっていて痛々しい。
「はぁ……」
リーゼをそうしたのはやっぱりアイリス自身で、その事実が重くのしかかりため息を吐く。
『アイリス』
アイリスを咎めるように気高く氷のような声が聞こえてくる。これは幻聴だと理解していても、逆らうべきではないと感じるのだ。しかし、どこかでそれに抗おうとする自分もいるものだから、懐から能面を取り出す。
「これ被ってるとな、心空っぽなって、人を軽々殺せるようになるんどす」
内側から響く声に、抗おうとしたこともあったけれど、無理だった。自力で抑え込めるものではなかった。
気づけば振り払おうとするのをやめて、面を被るようになっていた。人の死を見るのは何度目でも辛い。殺すのも辛い。ずっと苦しい。しかし、ログライフのためだから止められない。だから、楽になるために能面へ『重み』を預けるのだ。
「……」
「……」
痛そうに口で息をしながらコチラを見上げるリーゼと目が合う。
このまま能面を被って彼女の首でも絞めようかと思ったが、一言、言いたくなった。
「——リーゼさんは、望んで組織に入ったやんな。誰かを見殺しにする仕事に、自分から」
「そう、だな」
「ぼくみたいに魅了されたわけでもあらへんし、碌でもない人間思うんやけど、——どうしてそんな幸せそうなん?」
能面を見つめながら、重々しげに問いかけた。
「……ぁ?」
「里で見とった時、ほんまに何見せられてるんやろうって感じやった」
望まず最悪な組織にいた自分は未だに心を縛られログライフに囚われたままだった。一方、望んで最悪な組織にいて平然と仕事をしていた彼女は居場所を作り幸せそうに日々を過ごしていた。
「なんでどすか?」
ログライフが封印されている間も、ずっと
ログライフのことを考え続けていた。好きでもない、本来なら嫌いなはずな相手。それでも自分の頭の中をずっと彼女がへばりついている。落ちない汚れだ。
「なんでどすか?」
本来なら長寿の実験動物として死ぬまで使い潰されるはずだった。けれど、抗って暴れて脱走しようとして、すんでのところでログライフに見つかり、戦闘能力を買われて魅了をかけられた。
「なんでどすか?」
ログライフが封印された後も、本当の心は戻ってこなかった。自死すらも許されなかった。
「なん、で……」
ボロボロになりながら故郷に帰った。シュージと出会い傷を治してもらった。心も治して欲しかった。心が温かくなって欲しかった。
「……」
ぽろぽろと頬に冷たいものが流れる。
止まらない。
『アイリス』
さっきよりも強く、呼ぶ声が聞こえて、
——そこでようやく、能面を被った。
「アイリスさん」
リーゼが小さく呼びかけるが、気にせず馬乗りになる。すると、傷に響いたのだろう。リーゼは低く唸り声を上げた。
「ウチ、お礼……言いたかったん、すよ」
呻きながら言葉を作るが、それを封じるべく、細い首へ手を伸ばす。
「あの時、後悔のないようにって言ってくれてありがとうございます」
——エルフの里での話か。一瞬何のことだかわからなかったが、すぐ思い出した。
何か悩んでいるようだったから背中を押しただけだ。それだけのこと。
感謝するくらいなら謝って欲しいし、鍵なんて飲み込まないで欲しかった。
一瞬、動きを止めてしまったが、指を萎め押し潰すように首へ力を入れる。アイリスの細長い指がリーゼの首へ沈み込む。
痛みで指一本動かせないのかリーゼが抵抗する様子はなかった。
「さようなら。リーゼさ——」
別れの挨拶をしようとした時、血液が火花のように飛び散った。
リーゼの、ではない。自分の両腕の複数箇所から出血したものだ。
「これじゃあ、首、絞めれへんなぁ」
ポツリとアイリスは呟く。
じくじくと両腕全体が痛みを訴えていた。
氷の杭が両腕へ、肩から指先までびっしり打ち付けられている。おかげで痛みで全く力が入らない。
滴る自分の血を見て、アイリスは何が起こったのか瞬時に理解した。
首を絞められていると見るや咄嗟にコントロール良くこんなことが出来る人間は限られている。
リーゼへ馬乗りになったまま首を動かし振り返った。
雪のように白い髪に黄橙の瞳。背の高い中年の男性だ。しかし、実際の年齢は中年どころじゃないのは言うまでもない。
「アヤートさん」
「タイミング、いいっすね……」
アイリスが能面の底で暗い瞳を細め、満身創痍でアイリスの血がかかったリーゼが薄く笑みを浮かべる。
当のアヤートは、傷だらけのリーゼへ馬乗りになるアイリスを目にし、どこか悲しげな冷めた視線を向けていた。




