09
一方、フランシーヌとロランは、クリストフに言われた通り、2つ目の宿を目指していた。
何故、2つ目なのかと疑問に思っていたが、少し馬を走らせたところで1つ目の宿に差し掛かったので、彼がその次の宿で待つように指示したのに納得がいった。
1つ目の宿は、先程の場所から近すぎる。
馬で進む旅路は、決して快適とは言えなかった。
2人で乗っているせいもあったが、それ以上に、道が良くない。
ぬかるみに足を取られるのは、人間だけではなく、馬も同じだった。
時々、滑って転ぶのではないかと思われる不安定さに、ロランもフランシーヌも気が気じゃなかった。
「速度を緩めても大丈夫かしら?」
「あんまり急ぎすぎて、落馬で骨折なんてしても、困るしな」
「お医者様がいないのだものね」
フランシーヌは手綱を握り直し、軽く引く。
代理の主人の命令を正確に汲み取った馬は、進む速度を緩めた。
「歩きましょうか?」
速度を緩めていたとしても、ぬかるんだ道を馬に乗って行くのは不安だとフランシーヌの顔に書いてある。
それに関しては、ロランも同様の感想を持っていたので、危険が無いのであれば、喜んで賛同する。
気持ち程度の確認にしかならないが、ロランは来た道を振り返った。
視界には、轟々と飛沫を上げて流れる川、背の低い小麦が一面に生えそろった畑、ぬかるんだ道、そして、こちらに疾走してくる一頭の馬が飛び込んでくる。
見間違いかと思ったロランは、その目を細めて、道の先を睨む。
けれども、近づいてくる影の輪郭がはっきりしただけで、それが実体のあるものだという確信が強まっただけだった。
それが単に急いでいる旅人なのか、はたまた追いかけてきた野盗なのか、ロランには見当がつかない。
「馬だ」
「え?」
「後ろから、誰かが馬で追ってきてる…ような気がする」
「気がする?」
手綱を持ちながら、フランシーヌも小さく振り返る。
曖昧なロランの言い方に怪訝に眉を潜めたが、その姿を確認するなり、驚愕の表情を浮かべた。
「フラン?」
「ロラン、しっかり捕まって」
「は?」
「いいから!」
訳も分からないまま、ロランは言われたとおり、フランシーヌの腰に手を回す。
それを確認した途端、フランシーヌは馬の腹に踵を入れ、出来る限りの速さで走らせた。
フランシーヌの急な意思変更に、ロランは疑問符しか浮かばない。
彼女にどんな心境の変化が訪れたのか、是非とも問いただしたかったが、上下に激しく揺れる馬上で舌を噛む可能性を考えて、口を開くのは我慢した。
背後から聞こえる音が、大きくなる。
こちらも馬を走らせているにも関わらず、後ろから来ている馬はそれを上回る速さで走っているようだ。
追いつかれるのは時間の問題だった。
馬を走らせているフランシーヌの表情はどこか固く、顔色も悪いように見える。
それでも、懸命に手綱を取り、泥を跳ね上げながら、しっかりと前だけを見つめていた。
追ってくる人物に捕まることは、この旅の終わりを示唆していることに、フランシーヌは気付いていた。
ロランと一緒にいることが出来なくなる。
この数日間、毎日のようにロランと笑い合い、触れ合ってきたフランシーヌにとって、それは耐え難いことだった。
奥歯を噛み締め、祈るように手綱を握りしめる。
けれども、それを嘲笑うかのように、追手はついにフランシーヌたちを追い抜くと、道を塞ぐように馬の向きを横に変えた。
道の脇は荒れ狂う川と、小麦畑。
フランシーヌは小麦畑へと馬を進めることで障害物を回避しようかと手綱を取りかけるが、すぐにその考えを否定する。
道から畑へは段差がある上に、連日の雨で土が柔らかくなっている。
不用意に飛び込めば、馬が転んでしまい、無事では済まないだろう。
悔しいが、足を止める他無かった。
「随分、馬術が上達したようですね」
冷たい、エメラルドグリーンの瞳がフランシーヌとロランを見据える。
その顔に表情というものは浮かんでおらず、何を考えているのか、腹の内を探ることは難しかった。
ロランは片手で数える程しか顔を見たことが無いものの、相手が誰だか理解し、息を呑む。
野盗だと思っていた相手は、国からの追手だったようだ。
「…やっぱり、あなたには勝てないのね、セルジュ」
フランシーヌは悔しそうに口元を歪めるが、手綱を握った手を下ろしはしない。
機があれば、例え良き理解者であった教育係を怪我をさせてでも逃げ切るつもりだった。
「お願い、私達をこのまま行かせて」
だからと言って、最初から暴力的手段に訴える必要もない。
フランシーヌはセルジュなら願いを聞いてくれるのではないかと、若干の期待を抱きながら懇願する。
けれども、教育係は表情を崩すこと無く、首を横に振っただけだった。
「なりません」
「どうして?!」
「どうして?」
ここに来て、初めてセルジュの瞳に剣呑な色が宿る。
表情こそ動かないものの、鋭く細められた双眸は、はっきりとフランシーヌを責めていた。
「あなたは、この国の王女なのですよ?ご自身の私利私欲のために、その地位を蹴ることが許されるとでも?」
「私は!王女である前に、一人の女よ!」
珍しく、フランシーヌが声を荒げる。
言葉を挟むことが出来ないロランは、目の前の小刻みに震える肩を宥めるように、そっと腰を抱く手に力を込めた。
それに気付いたフランシーヌが、気を落ち着かせるように深呼吸をする。
そして、今まで見せたことの無いような毅然とした態度でセルジュと相対した。
「命令よ。そこを退きなさい」
セルジュが教育係として接してきた時間の中で、フランシーヌがこのような物言いをしたことはない。
今、この場で命令を下したその態度、そして、このような口を利かせる原因に、セルジュは苛立ちを覚えた。
「退きなさい」
フランシーヌは繰り返す。
けれども、セルジュも譲らなかった。
「一時の気の迷いで、お手持ちのもの全てを無に返すつもりですか?」
「気の迷い…?!」
フランシーヌは、嘲笑するように、片方の口の端を上げて笑う。
その笑い方が、あまりにもオーギュストのものにそっくりなことに、セルジュは気が付いた。
「あなたは、私のロランへの気持ちを、気の迷いだと言うの?」
「おい、フラン…」
今までに無いくらい、怒りで身体を震わせているフランシーヌに、ロランは我慢できなくなり、声を上げる。
けれども、すぐ側にいるにも関わらず、その声は届いていなかった。
「私がこの十数年間、どれだけ我慢してきたと思うの?!ロランのためなら、この命すら惜しくないのに!訂正して頂戴!」
轟々と流れる川の音に負けないくらいの叫び声が、響き渡る。
ロランは今度こそ、かける言葉が見つからなかった。
固唾を呑んで、息を潜めていることしかできない。
一方、セルジュは眉ひとつ動かすことなく、フランシーヌの叫びを受け止める。
「姫様のお考えは良く分かりました」
淡々とした声が、告げる。
あまりにも感情の起伏の無い声音に、何を考えているのか察することができない。
「残念ですが、お時間です」
エメラルドグリーンの瞳が、フランシーヌたちの乗っている馬を通り越し、更に奥を見つめる。
それに気付いたロランが振り返った先には、濃紺の騎士団服を纏った数人がこちらへ馬を走らせている姿があった。
前進することは愚か、後退することすら許されない。
最早、勝ち目は無かった。
「帰りましょう、フランシーヌ様」
相対してから初めて、セルジュの顔に薄っすらとした笑みが浮かんだ。




