07
雨は数日の間、止むことが無かった。
ようやく、太陽が顔を出した頃には、ロランとフランシーヌは随分と憔悴していた。
クリストフだけが、呑気に鞄から取り出した酒を煽ったり、鼻歌を歌ったりしている。
「随分と足止めを食ったな」
「えぇ…。こんなに長く、1つのところに泊まってて、大丈夫だったかしら」
「問題ねぇよ。女将さんも、ご主人も、あんたのことを少年だと思ってっから」
何気なく零されたクリストフの言葉に、ロランとフランシーヌは目を剥いて振り返る。
「バレてないの?!」
「まぁな。日中はほとんど3人で部屋に篭ってたし、顔合わせるのは食事の時くれぇだろ?食堂は薄暗いし、よく分かんなかったみたいだな」
「運が良かった…」
ロランは、長い溜息を吐くと、その顔に微笑を浮かべる。
フランシーヌがそれを見て、釣られるように笑った。
「それなら、問題ないわね」
「だな。で、今日はどうすんだ?」
馬に手綱を付け、身体を撫でてやっているクリストフに声を掛ける。
手を止めて、振り返ったクリストフは右斜め上を見ながら答えた。
「馬で行きたいとこだが、このぬかるんだ道じゃぁな…。2人乗りならまだしも、3人乗りなんかした暁には、良くて落馬で骨折、最悪の場合、待っているのは死だな」
「歩きましょう」
躊躇うこと無く言い放ったフランシーヌに、クリストフは笑う。
「思い切りがいいねぇ。まぁ、俺が手綱を引くから、あんただけでも馬に乗ればいいさ」
「なるほど。それがいいな」
同意したロランに、フランシーヌは信じられないと言いたげな目を向ける。
「嫌よ。ロランが歩くなら、私も歩くわ」
「我儘言うなよ。乗せてもらえって」
「みんなで歩きましょう。泥だらけになるのも、良い思い出よ」
戸惑う男2人を尻目に、フランシーヌはさっさと歩き出す。
ぬかるんだ土にブーツが沈み込み、思うように足が上がらない。
悪戦苦闘している姫君を見て、ロランとクリストフは顔を見合わせた。
「お前、将来尻に敷かれるぞ」
「うるさいよ」
にやりと笑ったクリストフに言い返し、ロランもフランシーヌの後に続く。
馬の準備をしていたクリストフは、少し遅れてから2人の後を追いかけた。
追いついた頃には、フランシーヌもロランも足元が泥だらけになっていた。
それは、馬を引いているクリストフも例外ではなく、むしろ、馬にはね掛けられた分、2人よりも悲惨だった。
道に沿うように川が流れており、普段は澄み切った水が穏やかに通っているのだが、目に映るのは濁流が勢い良く流れていく様だった。
「とんでもねぇ雨量だったみたいだな」
「クリスの言う通り、宿で待機してて正解だったよ」
ロランは宿に篭っていた数日で仲良くなった年上の友人を愛称で呼ぶ。
クリストフもまた、フランシーヌと同じくらい、ロランのことを気に入っていた。
「だろ?風邪でも引いてみろ、こんな辺鄙な場所に医者なんぞいないからな。余計、手間がかかることになる」
「お医者さんがいない?」
前を先導していたフランシーヌが、半分だけ振り返る。
その顔には驚きの表情が浮かんでいた。
「この辺の人たちは、病気になったとき、どうしてるの?」
「そこらに生えてる薬草を煎じて飲むことが多いな。後は、年長者は大抵の症状に効くもんを知ってるから、どうすりゃいいか聞きに行く。少なくとも、俺の村ではそうだった。あとは、自分でなんとかするかだな」
「クリスの村にも、お医者さんはいないのね」
再び、ぬかるんだ道と格闘しながら、フランシーヌは歩みを進める。
ロランも泥が跳ねないように、ゆっくりと足を前に出しながら、進んでいく。
「フランに、海が見えて、羊が飼えて、星がたくさん見える場所だったって聞いたけど、そうなのか?」
「間違っちゃいねぇよ。むしろ、それしか無いな、うん。王都に比べたら、つまらねぇ場所かもしれねぇ」
「そんなことないわ!素敵な場所じゃない!」
興奮して声を上げたフランシーヌに、クリストフは苦笑する。
都会の者が田舎に憧れることは良くある話だが、実際に住むとなると勝手が違ってくる。
「大変ですぜ。朝は日が昇る前に起きて、羊たちを追い立てる。昼間は家畜どもの世話をして、気がつきゃ夜だ。毎日、何の変化も無く、だらだら過ぎてくってのは、案外つまらんもんですよ」
「あなた、王都にいたって、地下牢番をしているだけだったじゃない」
フランシーヌの鋭い指摘に、クリストフは困ったように右斜め上を見る。
あー、と曖昧な音を発して黙り込んだ。
ロランはその様子に苦笑して、助け舟を出してやる。
「なぁ、クリスの家族はどんな人たちなんだ?お世話になるなら、知っておきたいんだけど」
「お袋は怖い奴だよ。親父なんか、毎日怒られてるからな。あとは、弟が3人に、妹が2人。つっても、妹の1人は結婚してるから、家を出てるな」
「クリスが兄弟の中で、一番の年長者なのね」
「まぁな。騎士団になるって、家を飛び出したときゃぁ、そりゃ猛反対されたね。田舎者に騎士なんぞ務まるもんか、とか、家業を継げ、とか。しかも、隣国の騎士団と来たもんだから、一筋縄じゃぁいかなかったな」
「騎士団って、貴族の人間が多いんだろ?よく、試験に受かったな」
ロランが素直に賞賛の声を上げる。
クリストフは得意気に胸を反らした。
「俺は、やるときゃ、やる男なんだよ。ちょちょっと本気を出しゃ、ちょろいもんよ」
「実技は得意そうだけど、筆記はダメそうなのにな。そもそも、あんた、字の読み書きとか出来るのか?」
「羊番だからって舐めんなよ。どんな田舎にも、博識な奴ってのが1人や2人、いるもんさ」
ロランの失礼な物言いに、クリストフは気を悪くすることなく答える。
実際、自分の見た目がそれほど賢そうに見えないことは、当の昔に自覚していた。
「騎士団クビになって、帰って来たっつったら、村の連中は大喜びだろうな」
「どうして?仕事がなくなっちゃったのよ?」
「何言ってんだ。村に帰りゃ、仕事は山ほどある。騎士団に勤めてた人間がいりゃ、用心棒にもなるだろうし、こりゃ、休む暇は無さそうだな」
「用心棒って…治安が悪いのか?」
「人間じゃなくて、獣が相手だよ。そうだ、村に着いたら、ロランに銃を教えてやろう」
「は?!」
突拍子もない提案に、ロランはぽかんと口を開けてクリストフを見つめる。
あまりにも間抜けな表情に、クリストフは吹き出した。
「なんて顔してんだ。俺なんかより、ずっと若いんだから、身体を動かすのは得意だろ?」
「いや、っていうか、銃ってなんだよ?」
「あー、この国ではあんまメジャーじゃなかったな。獣相手に剣なんか振り回しても意味ねぇからな。引き金をこう、チョン、と引いてバーン!よ」
「全然想像つかない…。そんな見たことも聞いたこともない武器…」
「誰だって、最初は使ったことなんかねぇよ。若いんだ、やりゃぁ出来るだろ」
楽観的に述べたクリストフとは対照に、ロランは不安でいっぱいになる。
今まで生きてきて、多少の喧嘩沙汰くらいの経験はあったが、腕っぷしが強い方ではない。
宿で帳簿をつけて、フランシーヌにこっそり会いに行き、シリルの相手をし、アンセルムに付き合わされる。
思えば、なんて平和な日々を送っていたのだろうか、とロランは改めて気付かされた。
武器が必要になる場面など、今までは無かったのだ。
「大丈夫かなぁ…」
「平気よ、ロラン。私だって、剣くらいなら少しは扱えるもの」
「フランが出来るのか?!」
「シシィよ、ロラン!」
鋭く窘められて、悪い、と素直に謝る。
3人しかいない、という安心で、うっかり愛称を呼んでしまった。
「この中で、武器を触ったことが無いのは、俺だけか」
その時、3人の耳に馬の嘶きが飛び込んでくる。
つい、クリストフが手綱を引いている馬を見るが、こちらは大人しく歩みを進めていた。
後ろを振り返ってみると、数人の集団が馬に乗って道を走っているようだ。
あまりに遠すぎて、それが何者なのかは目視できなかったが、急いでいるらしいことだけは確認できた。
「あんなに飛ばしてるなんざ、旅人じゃぁねぇだろうな。野盗か?」
「野盗?!」
フランシーヌは足を止めて、不安そうにロランの側へと寄る。
それに気付いたロランは、手を握ってやった。
「こんな見晴らしの良いところで盗みを働くとはな。まぁ、誰もいないから仕方ないか」
「どうすんだよ」
「うーむ、剣は置いてきちまったし…」
クリストフは素早くフランシーヌと、自分が手綱を引いている馬に目を走らせる。
そして、右斜め上に視線をやると、一瞬の内に考え、手に持っていた手綱をフランシーヌに渡した。
ロランとは繋いでいない方の手で、フランシーヌは受け取る。
「姫さん、馬には乗れたよな?」
「えぇ、まぁ…。走らせるくらいなら」
「セルジュの野郎に教えてもらってたんだろ?その辺の野盗よりは、上手いはずだ。2人乗りはできるか?」
「やったことないけど…たぶん」
「ロランと一緒に、先に行っといてくれ。この道は一本道だから、迷うことはないだろ。こっから先の、2つ目の宿で落ち合おう」
「3人で乗って行けばいいじゃない!」
受け取った手綱をフランシーヌはクリストフに押し返す。
けれども、頑として彼は受け取らなかった。
「速度が落ちる。こん中じゃ、俺が一番重いだろうしな」
「でも…」
「いいから、早く行け」
クリストフはいつもよりも冷たい声音で言い切る。
その調子に萎縮したフランシーヌは、眉尻を下げながら、小さく頷いた。
クリストフの助けを借りて、2人は馬の背に乗り上がる。
「頼んだぞ」
馬の首をひと撫でし、クリストフはその背を叩く。
了解した、とばかりに馬は一声鳴き、ゆっくりと歩みだした。
「クリス!待ってるからね!」
「無理すんなよ!」
フランシーヌとロランの声援に、クリストフは軽く右手を上げて答える。
フランシーヌが馬を操り、しっかりと走りだしたのを見届けてから、クリストフは視線を遠くの集団へと戻した。
「これで、ただ急いでいるだけの配達人だったら笑えるけどな」
それはそれで、今夜の夕食時の笑い話になるだろう、とクリストフは肩を竦める。
道のど真ん中に突っ立ったまま、目を凝らして、疾走してくる集団を見つめた時、先頭を切って走っている人物の服の色に見覚えがあることに気付いた。
あまりに遠すぎて、確信は持てない。
けれども、想像通りだった時のことを考えて、背筋に冷や汗が伝った。
「おいおい…こりゃぁ、無理せざるを得ないんじゃねぇか?」
輪郭がはっきりと浮かんでくる。
紅茶のように明るい茶色の髪に、濃紺の騎士服。
つい先日まで、自分が袖を通していたものと同じだが、肩に着いた肩章はおそらく、騎士団長を現したものだろう。
「あいつら、先に逃して正解だったな」
視界に飛び込んで来たのは、間違いなく、騎士団長フェルナン・カスタニエ、その人だった。




