匿名の手紙
フェルナンは廊下の窓に容赦無く打ち付ける雨を見つめながら、大きなため息を零した。冷やりとした冷気が身を包み、湿った空気のせいで、頭が重く感じる。
立て続けに起こる問題に、さすがの騎士団長も疲労を隠し切れなかった。部下の失踪に続き、オーギュストへの政権交代、そして、徐々に酷くなる市民への圧力。
それらを目の当たりにする日々は辛く、耐え難かった。だからと言って、フェルナンはオーギュストのやることに、口を出すことも出来ない。黙って目を瞑るしかなかった。
自分の信念に従い、地位も名誉も全てを捨てて出奔した兄とは違い、フェルナンはある意味で臆病だった。
例えどんなに倫理観に欠けた行為をしている人間に出会おうとも、己の地位や、将来を考えて、口を閉ざし、見て見ぬふりをする。団長をやっていると言えど、そこまで、正義感の強い人間では無かった。
非情な訳ではないが、他人と自己の保身を天秤に掛けた時に、後者に軍配があがるのだ。
「団長」
「どうした」
前方から急ぎ足でこちらに向かってきた部下に、フェルナンは顔を向ける。廊下で騎士団員とすれ違うことは、特に珍しいことでもなかった。
「こちらの手紙を預かったのですが……」
部下は周囲を見回すと、誰もいないにも関わらず声を潜めた。
「フランシーヌ様の居場所に関する、匿名のものでした」
「なに?」
「持ってきたのは、貧民街に住んでいると思われる少女でしたが、人に頼まれた、と」
「頼んだ人間の特徴は?」
「帽子を目深に被っており、顔は分からないが、声は男だったと申しておりました」
「見せてくれ」
フェルナンは手紙を受け取ると、目を走らせる。そこには、間違いなくフランシーヌを見かけた場所が証言してあった。加えて、ロランという男の名前も記してある。
世間で騒がれている駆け落ちによる出奔を裏付けるような内容だ。悪戯の可能性は捨てきれない。だからと言って、このまま情報を無駄にすることも出来なかった。
「こちらで預かろう」
「団長の指示があれば、今からでも捜索に出向きますが」
「いや、私の独断では指示は出せない。捜索に関しては、必ずオーギュスト様を通さねばならないのだ」
部下の男は、不愉快だと言わんばかりに、眉を吊り上げる。
フランシーヌの捜索隊が結成されたと言っても、それは形ばかりだった。実際に指揮権を握っているのは、オーギュストだ。
彼が独裁者になる日はそう遠くないだろう。
「とりあえず、相談してくる」
「オーギュスト様にですか?」
あぁ、そうだ。と言いかけて、フェルナンは喉元で言葉を引っ込める。もう1人、姫の帰還を待ちわびて、気が狂わんばかりの青年がいたのを思い出したのだ。
「いや、ラファラン殿に、だ」
部下の表情は和らぐどころか、眉間の皺が、もう1本増えただけだった。
セルジュが城の者にあまり良く思われなくなったのは、フランシーヌが失踪してからだ。
最初は落ち込み、気が沈んでいる様子に同情する者も多かったが、そこからの彼の対応が良くなかった。目を合わせれば、八つ当たりとばかりに冷たい言葉を浴びせかけ、嫌味をぶつけてくる。
セルジュのことを気の毒に思っていた者も、関わるのはごめんだ、とばかりに今では接触を避けていた。元から良く思っていなかった者は、機を逃すまいとばかりに、盛んに悪口を囁き合っている。
そんな中、フェルナンは未だにセルジュに対して同情の念を持っていた。親しい者の失踪は、他者には分からない程の傷跡を残すものだと知っていたからだった。
幼い日の兄の失踪は、未だにフェルナンの中で癒えない傷として存在し続けている。
辿り着いた部屋は、セルジュの私室だ。この時間であれば、オーギュストの元にいる可能性もあったが、いきなり敵陣に飛び込むのは頂けない。
軽く咳払いをし、扉をノックする。短い沈黙のあと、不機嫌そうな声で「どうぞ」と返事があった。
フェルナンは扉を開くと、部屋の中へと足を踏み入れる。
「あぁ……カスタニエ団長。一体、何の御用でしょうか? 私は、あなたと違って忙しいのですよ」
硬い声は、早く出て行けと言わんばかりだった。
床に乱雑に投げられた沢山の本は、八つ当たりの跡なのだろう。以前、訪れた時は、元来几帳面な彼の性格らしく、本棚に綺麗に揃えられていたはずだ。
まだ夕方に差し掛かったばかりだというのに、深く垂れこめた雲のせいか、部屋は薄暗い。机の上でランプの炎が揺れていたが、それは、セルジュの手元しか照らしていなかった。
暖炉の薪が、小さな音を立てて爆ぜる。
「ラファラン殿。こちらの手紙を読んで頂きたい」
前に進み出て、手にした紙を差し出す。
表情の無い顔が、じっとそれを見つめる。書き物をしていた手を止めると、セルジュは受け取り、畳まれた紙を開く。
細められていたエメラルドグリーンの瞳が、驚きに見開かれるのは、すぐだった。
「これは、一体どなたが?」
「分かりません。貧民街の少女が持ってきたようですが、男に頼まれた、と申していたそうです」
「この雨です。姫様はきっと、どこかで立ち往生しているに違いない。今から休まず馬を飛ばせば、追いつけるかもしれません」
勢い良く立ち上がったセルジュの後ろで、今まで座っていた椅子が倒れる。けれども、それを元に戻すこともせず、外套を取り、荷物を手早く詰めていく。
何をしているのか分からず、見ているだけだったフェルナンだが、少ししてからセルジュが文字通り飛び出して行こうとしていることに気付いた。
「正気ですか?!」
「何がです」
「間もなく、外は土砂降りになるでしょう。それに、オーギュスト様に許可もなく……」
「私が仕えるのは、フランシーヌ様、ただお一人です」
動かしていた手を止め、セルジュはフェルナンを睨みつける。鉄面皮とまで言われていた顔に、あからさまな苛立ちが浮かんでいた。
「手がかりがあるなら、私は行きます。冷静でないのは、百も承知です」
「この手紙が嘘である可能性は?」
「十分にあり得るでしょう。しかしながら、真実だった場合、姫様を連れ戻すチャンスをむざむざと無駄にすることになります。それを寄越した人物の見当がつかない以上、真偽を確かめるには、実際にその地に向かうしかないでしょう」
話は終わりだとばかりに、セルジュは再び無言で手を動かし始める。まさか、このような無鉄砲な行動に彼が出るとは想像もしていなかったフェルナンは、頭を抱えた。
「オーギュスト様には……」
「あなたが伝えておいてください。どうせ、あの方はそろそろ私に暇を出すつもりだったでしょうから、いなくなったところで困らないでしょう」
フェルナンは説得することを、早々に諦める。仕方なく、その足を扉に向けると、今回のことを報告すべく、オーギュストの部屋へと向かった。




