03
翌朝、ロランは馬の嘶きを耳にして、目を覚ました。
目を擦って、身体を起こせば、カーテンの隙間から細い日差しが入っている。
連日、歩き通して疲れているせいか、あまり眠った気はしなかった。
隣で安らかな寝息を立てているフランシーヌを見て、ロランの口角が緩む。
布団を肩まで引き上げてやると、彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
顔を洗ってこようと、昨晩、投げるようにして椅子に引っ掛けた上着を着こみ、階下へと降りる。
あちこちに跳ねている髪を手櫛で撫で付けながら、外への扉を開けば、馬を用意している亭主と目が合った。
「早いな、坊主」
「じーさんの方が、早いだろ」
挨拶もそこそこに、ロランは横を通り過ぎると、井戸から水を汲む。
桶に手を差し込めば、芯が冷えるほどの冷たさに、思わず身震いした。
それを見た亭主が、後ろで笑っている。
「冷てぇだろ?さっさと顔洗って、中に戻るこったな」
「言われなくても、そうするよ。こんな薄着じゃ風邪引きそうだし」
ロランは冷たさを我慢して、乱暴に顔を洗う。
勢いがついて、飛び散った水滴が、服に掛かった。
タオルなど持っていないので、顔を左右に振って、水を払い落とす。
「もう一人の小僧はまだ夢の中か?」
「うん。ぐっすり寝てる」
「今日も歩きだろ?この空模様だと、早めに出た方がいいぞ」
亭主が上を見上げるのにつられて、ロランも空へと視線を向ける。
分厚い雲が太陽を隠し、陰鬱な表情をしていた。
数時間もすれば、雨が降り出すだろうことが容易に想像できる。
「ありがと。ご忠告通り、早めに出ることにするわ」
ロランは足を止めると、鞍を着けられている最中の馬を見つめる。
気が立っているのか、落ち着きなく、前足で地面を掻いていた。
「この馬は?どっか出掛けるの?」
「昨日、お前さんたちと相席した旦那が借りて行きたいんだとよ」
「へぇ。また、どうして」
「何でも、すぐに王都に行かないといけなくなったとか。そういや、お前さんたちも王都に行くんだったな?」
「まぁね。この馬に3人乗れれば良かったけど」
「そりゃぁ、この老いぼれ馬にゃぁ、無理な相談だ。もうちょっと若くて元気な奴じゃないとな」
亭主は言いながら、馬の背を数度叩く。
老いぼれと呼ばれたことか、はたまた、ぞんざいに扱われたことが気に入らなかったのかは分からないが、馬は不機嫌そうに首を振った。
ロランは心底、クロードが馬を借りることにしてくれて良かったと安堵する。
王都に行くなどという真っ赤な嘘をついた手前、万が一、出発時刻が重なった時に同じ方向へ進まないとなれば、余計な疑問を生むだろう。
雨の心配はあるが、クロードが出発するまでは、部屋にいようとロランは決める。
「クロードさんに、よろしく」
「おぅ」
クロードとは差し障りの無い世間話しかしなかったが、見た目に反して、人の良さそうな中年の男性だった、とロランは思う。
吊り上がった目と、顎鬚を生やした強面に、最初は警戒をしたのが懐かしくさえ思えた。
もう二度と会うことは無いだろうが、こうして旅の途中で見知らぬ人間と話すのも、悪くないかもしれない。
ロランたちが出発したのは、ずいぶんと部屋で寛いだ後だった。
クロードが出て行ったその後に、荷物を纏め、宿の代金を払う。
ロランは自分の住んでいた宿では、前払いだったな、と2人分の小銭を渡しながら考えた。
「早めに出ろって言っただろ、坊主」
「悪いね。ちょっと準備に手間取って」
苦笑いを返せば、亭主は呆れたようにため息をつく。
「ったく。こっから、2時間程行ったところに村があるから、今日はそこに泊まるといい。料金も安いはずだ」
「了解。ありがと」
じゃぁな、とロランは軽く手を上げて、宿を出る。
フランシーヌは小さくお辞儀をして、その後に続いた。
そして、宿の前に出た二人は、王都とは反対の道を辿って行く。
「おじさんがくれた情報、無駄にしちゃったわね」
空模様を見ながら、フランシーヌは申し訳無さそうに呟く。
ロランは、その様子に肩を竦めた。
「しゃぁねぇだろ。俺達が、王都とは反対に向かってるなんて、夢にも思ってないんだから」
「雨が降る前に、宿が見つかると良いわね」
「だな」
その先は、ひたすら無言で足を動かし続けた。
遅れ気味になるフランシーヌの手を引きながら、ロランは前へと進む。
雲を抱え込んでいる空は、2人を脅すように時々雷の音を響かせる。
その音に、フランシーヌは度々身を強ばらせていた。
「雷が怖いのか?」
「そんなこと…」
「あるんだろ?」
からかい気味に聞けば、拗ねたように、頬を膨らませる。
フランシーヌはお返しとばかりに、繋いでいた手に軽く爪を立てた。
「ロランのいじわる」
「はいはい」
「はい、は一回」
「それ、シリルにも言われたよ」
その言葉に、フランシーヌは目を瞬く。
「私も言われたわ」
「ははっ、俺たち気が合うな」
2人で声を立てて笑い合う。
その時、水滴がロランの鼻の頭を濡らす。
空を見上げ、即座に笑いを引っ込めた。
「やばい、降ってきた」
ロランが小走りになるのに合わせて、フランシーヌも足を動かす。
どこかに雨宿りが出来る場所はないかと、視線を巡らすが、あるのは一面の畑ばかりだ。
背の低い小麦が、びっしりと立ち並んでいる以外は何も見当たらない。
「急ごう」
雨が肌を打つ間隔が、短くなる。
稲光が走り、当たりを照らしたかと思うと、追いかけるようにして雷が唸り声をあげた。
身を竦ませるフランシーヌの手を強く握り、ロランは小走りになる。
当たりを見渡せど、建物らしき影は見つからない。
「もう一泊するべきだったかな」
「でも、同じところに留まるのは危ないわ」
「風邪でも引いたらどうすんだよ」
「熱が出ても、歩き続けるから心配しないで」
雨足が強くなった。
頭の天辺から、つま先まで濡れそぼったロランとフランシーヌの体温を、冷たい雨が容赦なく奪っていく。
舗装されていない地面は、ぬかるみ、足を取られせいで、思うように走れなかった。
目に落ちてくる水滴を必死に払いながら、二人は進む。
とても、話しているような余裕は無かった。
水分を含んだ衣服が肌に吸い付くように張り付き、ブーツは泥に塗れていく。
手を引いているフランシーヌの歩く速度が、あからさまに落ちた。
ロランは振り返り、彼女の様子を窺う。
その時、後ろから影が近づいてくるのが見えた。
「馬か?」
足を止めて目を細める。
フランシーヌも、ロランと同じ方向に目を向けた。
雨の中歩くのも大変だが、馬で駆けるのも同様に苦労が必要なのだろう。
身を屈めているため、乗っている人間がどのような人物かは分からなかった。
跳ね飛ばされてはかなわない、とロランとフランシーヌは脇道に身を寄せる。
縦一列に並ぶように進み、馬が通過するのに備えた。
すぐに追い越されるだろう、とロランは思っていたのだが、予想外なことに馬に乗った旅人は二人の横で、速度を緩めて声を掛けてきた。
「おい、坊主ども。乗ってくか?雨の中歩くのは大変だろ!」
雨音に負けないように、馬上の人物は大声で叫ぶ。
それと同時に、握っていたフランシーヌの手がぴくりと痙攣するように動いた。
顔を上げれば、顔を隠すように布で覆った人物と目が合う。
そして、その人物の視線は、隣にいるフランシーヌに釘付けだった。
「…姫さん、か?」
空を走る閃光が両者の顔を照らしだした。
布で覆っていても分かる、見間違いようのない、親しい人間の顔にフランシーヌは驚きのあまり後ずさる。
「クリス…」
呟きは、雨音に溶けて消えていった。




