アンセルムの悩み
その頃、アンセルムは宿の居酒屋の手伝いという名目の酒盛りを終えて、路地を行く宛も無く歩いていた。そのまま部屋に戻って寝ても良かったのだが、どうにも気が鎮まらず外へと繰り出した次第である。
ロランの暴挙とも呼べる駆け落ちの話は、アンセルムが思っている以上に精神に打撃を与えていた。女と共に逃避行を企てるだけでも理解し難かったのに、その相手が国の姫君となれば、それは理解の範疇を優に越えている。
「馬鹿じゃないの」
女など、掃いて捨てるほど存在するのだ。フランシーヌのことなど諦めて、他に似た女を探せば良い。
そう、ちょうど先日出会った、娼婦の娘など打ってつけではないか。姿が似ていれば、あとは仕草と口調を真似れば完璧だ。
アンセルムの脳裏に、むせ返るような香水の匂いが過る。
今、この場で感じることが無いはずの香りが、立ち込めているような気がした。
かつて、自分の存在を否定し、他人へと仕立てあげようとした女の姿が瞼に浮かぶ。あの女のように、代わりを見つける手段はいくらでもあるはずだったのだ。
同じ真似をしろ、とは言わないが、ロランが他の手段を選ぶことなどいくらでも出来ただろう。
アンセルムの端正な顔から、表情が抜け落ちる。その足は、自然とある場所へ向かっていた。
◆
「きゃー! アンセルム! 今日も来てくれたの?!」
耳に突く声と共に、数人の女性に囲まれる。
いつもなら、笑顔で対応する状況であるが、アンセルムはろくに挨拶もせずに用件だけを告げた。
「フランシーヌ姫に似た子、連れてきて」
「あぁ、レティシアのこと?」
途端に、周りを取り囲んでいた女たちが嘲笑を浮かべる。
普段は覚えようとも努めない名前を、アンセルムは忘れないように頭の中で数回繰り返した。
「そう、レティシアっていうの? あの子、出して」
「やめなさいよ、あんな子。本物が失踪したって噂が立ってから、余計に人気が出ちゃって。今じゃぁ、我儘放題よ」
「関係ない。出して」
冷たい声音に、女たちがたじろぐ。
その中でも、気の強い一人が眉根に皺を寄せて、勇敢にも言い募った。
「どうしたの、アン。いつもと様子が違うじゃない?」
「ちょっと気が立ってるんだ。お金なら積む」
アンセルムはポケットに手を突っ込むと、無造作に硬貨を引っ掴む。そして、見せつけるように、高い位置からそれらを床へとばらまいた。
金や銀に光るものが音を立てて床に転がる。
信じられない程、ぞんざいに扱われた高額の硬貨にその場にいた誰もが閉口した。
「まだ足りない?」
薄っすらと笑みを浮かべて問いかければ、先程、言い募っていた女が首を横に振った。
「連れてくるわ」
蜘蛛の子を散らすように、アンセルムの周りから女が消える。
いつもなら金払いも良く、見目も、愛想も良い彼の元から女性が離れるなど考えられなかった。けれども、話しかけることすら躊躇われる雰囲気に、皆、怯えてその場から去っていく。
所詮、自分はその程度の存在なのだ、とアンセルムは込み上げてくる不可解な笑いを呑み込む。彼女たちが、自分にとっていくらでも替えの効く存在であるならば、また、彼女らにとっても、アンセルムという男は唯一の人間ではないのだ。
「何の御用でしょうか?」
表面上は丁寧に取り繕いながらも、声音から苛立ちを隠しきれていない。猫撫で声のように甘えた声音に、アンセルムは顔を上げる。
そこには、ライラック色の髪を揺らして立っている女がいた。
「顔すら見せて貰えないかと思ったよ」
「あれだけお金を支払われたら、こちらとしても追い返す訳にはいきませんもの」
「この瞬間ほど、お金持ちで良かったと思ったことはないね」
大仰に肩を竦めれば、目の前の女は不機嫌そうに眉を顰めた。
「あっちに行って話そう、レティシア」
本名を呼んだことに、レティシアの表情が怒りに歪む。けれども、特に反論をしたりせず、黙ってアンセルムの先導に従った。
奥まった場所にある、木の椅子とテーブルの席に腰掛ける。
レティシアも諦めたように、ため息をついて腰を下ろした。
前回と同じ位置に陣取ったところで、アンセルムはその顔に微笑みを浮かべる。
「この前は、ごめんね」
謝罪を口にしようとも、レティシアの怒りの表情が消えることはない。
アンセルムにしては珍しく、言葉を選ぶという作業を行った。
「あの時は、ボクもロランがいなくなって、苛立っていたんだ。君に当たってしまって、本当に申し訳なく思っている」
「そう思ってる奴が、どうしてローの悪口を言うんだい」
謝罪など受け付けないとでも言うように、レティシアはばっさりと切り捨てる。
口調も怒りのせいか、取り繕うことを忘れ、本来の出で立ちが見えるものに変わっている。テーブルの上に置いた拳を、爪が白くなるほど握り込んでいた。
「あんたと寝るなんて、屈辱以外の何ものでも無いけどね。金を積まれた以上は、やってやるよ。さっさと済ませよう」
そう言って、立ち上がりかけた彼女の手首を、アンセルムは咄嗟に掴む。
「待って。別に、ボクと寝てくれなくても良い。一晩、話し相手をしてくれるだけで、十分だから」
「はぁ?」
不可解だ、と言うようにレティシアの眉が跳ね上がる。アンセルムは逃さないとばかりに、掴んだ手に力を込めた。
「君がボクと口を利きたくないと言うなら、黙って話を聞いてるだけでも良い」
「あんた、話をするだけに、あんな大金を支払ったのかい?」
「それだけの価値があると、思ったから」
浮かせた腰を、レティシアは再び椅子に下ろす。
アンセルムの手を振り払ってから、もう一度、念を押すように尋ねた。
「本当に、話しだけでいいんだね?」
「構わないよ」
憤然とした態度ながらも、黙って話を聞く体制へと入ったレティシアにアンセルムは満足気に微笑む。そして、酒を頼むことすら忘れ、口火を切った。
「前から君と話したかったんだ。フランシーヌ姫の真似をして、他人として生きている君と」
答えはなかった。けれども、アンセルムは気にせずに続ける。
「ボクもね、昔、他の人間の真似をして生きていたんだ」
レティシアが息を呑む。
アンセルムはレティシアの表情を見ることに対し、若干の恐怖を覚え、視線をテーブルに落とした。
「正確には、成らざるを得なかった、かな。違う人間として生きることを強要されていた。少しでも似ていない仕草をすれば、折檻されたよ」
努めて明るく言い放ち、無理やり笑い声さえ上げたが、レティシアは何一つ言葉を発しなかった。
沈黙が落ちる。
レティシアとアンセルムを取り巻く空気は痛いほど静まっているのに対し、遠くでは男女の喧騒が響いていた。
「代わりの人間なんて、いくらでもいるってことだと思わない? ボクを求めていた人間も、君を求めている人間も、結局はボクらを通して違う人間を見ているのだから」
アンセルムは髪を束ねていたリボンを解くと、手の中でそれを弄る。豊かな黄金色の髪が、肩へと零れ落ちた。
「ロランはどうして、代わりの人間で良いと思えなかったんだろう」
アンセルムは言葉を切ると、小さく息をつく。
普段は心地よいと感じるはずのベルベットの生地が、今は無性に冷たく感じた。
「あの、さ」
答えなど期待していなかったところに降ってきた声に、視線をレティシアに向ける。
その表情には、先程までの嫌悪は無く、困惑が浮かんでいた。
「あたいは馬鹿だから、あんたみたいに上手く言えないけど。ローにとって、駆け落ちした相手っていうのは、本当に大好きで、代わりの利くような人間じゃなかったってことじゃないのかい?」
「どうして? 女の子なんて、他にもたくさんいるじゃない」
当たり前のように言い切ったアンセルムに、レティシアは目を瞬く。
「あんたさ、本気で言ってるの?」
「何かおかしい?」
「ちょっと待って。あんたの感覚では、女なら誰でも良いってことかい?」
「誰でも歓迎するよ」
レティシアはテーブルに肘をつき、眉間に手を当てる。頭が痛んでくるような気がした。
「誰か、特定の女を好きになったことは?」
「世間一般で言う恋ってやつ?」
「そう、それ」
「うーん、無いかな」
「じゃぁ、あんたには一生、ローの気持ちなんか理解できないよ」
アンセルムはリボンを弄っていた手を止めると、小首を傾げる。
レティシアはどうにか説明できないものかと、懸命に言葉を探した。
「あんたの女性観が狂ってるのは、この際、どうでも良いよ。今に始まったことじゃぁ、ないだろうし」
「酷い言われようだね」
「そう言われるようなことを、あんたが明言したんだろう。で、話を戻すけど、例えば、あんたにとって、ローの代わりっていうのはいるのかい?」
「ローってロランのことで良いんだよね?」
レティシアが頷く。
アンセルムはロランの代わりに成り得る人間がいるか、考えてみる。過去に一人だけ、口調や仕草などが、どことなく似ている人物を知っていたが、ロランのような誠実さは到底持ち合わせていない人間だ。
「いない、かな」
「ローが駆け落ちした今、新しく誰かを探してローの代わりにしようと思うかい?」
「思わないよ。けど、ロランと同じような関係を他人と築きたいなら、きっとそういう人間を探すだろうね」
「狂ってるのは女性観じゃなくて、人間観だってわかったよ」
呆れたような、憐れむような視線をレティシアはアンセルムに向ける。
この男の人間に対する感性が、どこでズレてしまったのか、推し量ることは難しかった。
「いいかい。普通の人間の感性から言わせてもらえば、代わりなんて、そうそう利くもんじゃないんだよ」
「そうかな? 愛情でも、友情でも、その矛先が変わるだけじゃない? 例えば、ボクがロランに感じている友情を君に向けたとすれば、君がロランの代わりになるわけだ」
「でも、ローのことを忘れるわけじゃないだろ? 喪失感とか、悲しみの先に新しい友情ってのが芽生える。それに、人間の関係ってのは同じ友情でも相手によって違う感じ方をするもんだ。そう簡単に一言で表せるような単純な感情じゃない」
アンセルムは手にしていたリボンで、再び髪を束ねる。
レティシアの言っていることは、言葉としては理解できるものの、感情的な面で理解することは、到底できそうになかった。
「君は、随分と情緒豊かな人なんだね」
「あんたが薄情すぎるんだろ」
「そうなのかなぁ。一応、ロランがいなくなったことに関しては、悲しいとか、寂しいとは感じてるよ。あと、怒りもか。けど、これがロランが駆け落ちしたことに起因するのか、ロランがいなくなったことを嘆く人たちに対して疎外感を感じているからなのか、時々、自分の気持ちが分からなくなる」
そう言ったアンセルムに、レティシアは口の端を上げて笑った。
「悲しい、寂しい、腹が立つ。それで十分だろ。ローに対する感情は、ロー以外には向けられない。そんな複雑な気持ち、ローだけにしか抱けないだろ? やっぱり、代わりなんていないんだよ」
「確かに、ロランに対して感じてる気持ちを他の人に同じように抱くのは無理かもね」
「良かったじゃないか。万事解決。この世には代わりなんて存在しない。あんたの歪んだ人間観も矯正されるってわけだ」
レティシアは適当にそう締め括ると、立ち上がり、カウンターへと向かう。そこで酒を注いだグラスを2つ手に取ると、アンセルムの前に乱雑に置いた。
「あんたの奢りだ。悩みを解決してやった記念に乾杯といこうじゃないか」
「うーん、解決した……のかな?」
「はい、乾杯」
グラスがぶつかり、甲高い音が刺さるように耳に届く。
豪快に酒を飲み下すレティシアを見て、アンセルムの頬は自然と緩んだ。




