07
宿屋の居酒屋での話は、数日後には知らない者が誰一人として存在しないほどに広まっていた。
多くの人々は、好奇心を剥き出しにして噂を大きく膨らませていく。
そして、一部の人々は姫君が不在だということに対する不安を口にした。
様々な憶測が飛び交い、中には誹謗中傷だと思えるような内容さえも存在する。
そんな中、セルジュは、かつて無いほどに気が立っていた。
箝口令を敷いていたはずの情報が市井に漏れ、新聞沙汰にまでなっている。
それだけならまだ、許容できた。
普段、表情というものを浮かべない教育係のこの男が目を吊り上げるほどの怒りを感じたのは、新聞の内容であった。
フランシーヌの失踪した理由が、平民との駆け落ちだったと取沙汰されている。
相手が誰かなど、セルジュにとっては火を見るより明らかであった。
今では国中の人間が、国王陛下とその妃が臥せっていることを知っている。
そして、国を担うはずの次期女王が、駆け落ちなどという理由で失踪したとなれば動揺と混乱が走るだろう。
「やぁ、セルジュ」
後ろから呼び止められ、振り返れば、ゆるやかに片方の口角を上げている銀髪の男が立っていた。
「オーギュスト様」
セルジュは冷静さを取り戻そうと、小さく深呼吸をする。
目の前の男は、楽しそうに笑い声を上げた。
「大変だねぇ、フラン失踪の尻拭い。ご苦労様」
その言葉から、労る気持ちは伝わってこない。
自分の妻となる女性が逃げ出したことへさえ、何も感じていないようだった。
「ところで、陛下たちが臥せって公務が滞っている件なんだけれどね。オレが代理として仕切ることになったから。これからよろしく」
こうなることを、ある程度予測していたセルジュは、黙って一礼をしただけで済ませた。
老齢の大臣たちは、この外面の良い青年を大層気に入っている。
むしろ、オーギュスト以外に代理を任せるなどとは、到底考えられなかった。
「何か御用がありましたら、どうぞお申し付けください」
「悪いけど、フランの教育係だった君に頼むことは何もないと思うよ」
社交辞令であることを理解した上で、オーギュストは半笑いで申し出を断る。
セルジュはそれに対して言い返すようなことはしなかった。
「ま、せいぜい、駆け落ちした女の捜索でも頑張ってくれたまえ」
小馬鹿にしたように口の端を上げて笑うと、オーギュストは背を向けて去って行く。
セルジュはその背中をじっと見つめ、大きく息をついた。
あの男が政治をとることに関しては、不安要素しかない。
しかし、それはセルジュにとってはどうでも良いことの一つであった。
失踪したフランシーヌを連れ戻すことが、何よりも優先すべきことだ。
そして、彼女の後を追いかけるように騎士団員の一人が失踪している。
大した地位の無い男だったが、その能力は団長が一目置くほどであり、何よりもフランシーヌと仲が良かった。
騎士団員の捜索のために遠征許可を再三、オーギュストへと要請している最中だが、未だに許可は下りない。
表向きの理由としては、一介の騎士団員のために人員を割けないなどと言っていたが、単にフランシーヌに繋がる全ての可能性を潰しておきたいだけだろう。
あの男からすれば、自分が主導権を握った今、フランシーヌは邪魔な存在でしかないのだ。
このまま、彼女が姿を消せば、王位継承権は彼に移る。
見つからない方が都合が良いに決まっていた。
「フランシーヌ様」
セルジュは窓の外に目を向ける。
相変わらず、眩しい日の光が差し込み、いつもと変わらぬ美しい庭園が広がっていた。
姫君が失踪したことなど、まるで知らないとでも言うようにいつも通りだ。
セルジュは小さく拳を握りこんでから、溜息とともにその力を緩めた。
日付が変わろうかという頃、シリルは家を抜け出して裏路地を駆けていた。
親方はシリルがすでに寝たものだと思い込み、自身も床へと着き大鼾をかいている最中だ。
真夜中に抜け出すことに罪悪感を感じるものの、全ては親方とレミの為だと信じ、少年は一心に前へと進む。
月明かりが前方を照らしだし、暗闇に戸惑うことは無かった。
見えてきた、件の屋敷の側に数人の影を認める。
その中の1人が、レミだと気付くのにそう時間はかからなかった。
「お、シリル」
「遅くなってごめんね、レミ」
「おいおい、こんな餓鬼にやらせるのかよ」
肩で息をし、呼吸を整えていれば、レミの後ろにいた図体のでかい人物があからさまに顔を顰めている。
ガラガラとした声は、耳触りがあまり良いとは言えなかった。
「そう言うな。お前より、よっぽど役に立ってくれるだろうさ」
「けっ。どうだか」
「無駄話してないで、早く行こう。時間は無限じゃないんだから」
その隣にいた、シリルと背丈がそう変わらない小男が甲高い声で2人を諌める。
小男はシリルを一瞥しただけで、大した興味も無さそうに目を逸らした。
図体のでかい男に、小男、そしてレミ。
レミが引き連れてきた仲間というのは、お世辞にも柄の良い連中とは言い難かった。
心の何処かで、ロランと同じような匂いのするレミは、きっとアンセルムのような物腰の柔らかい青年を連れてくるだろうと期待していたのだが、見事に裏切られたようだ。
知り合いに似ているからと言って、その友人までが似ている訳ではないらしい。
「さて、シリル。お前にやってもらいたいことは、一つだけだ」
レミは膝をつくと、シリルと目線を合わせる。
月明かりの下にいるせいか、先日会った時よりも、レミの表情には歪な笑みが浮かんでいるように見えて、シリルは思わず目を擦った。
「煙突から中に入って、あそこの窓の鍵を開けるんだ」
レミが指さした先は、庭園に面している1番大きな窓だった。
窓のすぐ下には茂みがあり、隠れて待つのには最適だろう。
「それだけでいいの?」
「あぁ。中に入ったら、後は俺達が目当ての物を探す」
「レミの大事なものって何?教えてくれたら、僕も手伝うよ!」
後ろで小男がくすくすと笑い声を上げる。
大男も、下品な笑みを浮かべて面白そうにシリルを眺めていた。
なぜ、そのような反応をされるのか分からなかった少年は、首を傾げる。
それに気付いたレミが、後ろの2人をシリルの視界から隠すように身体をずらした。
「悪いけど、口で説明できるようなもんじゃない」
「でも、アクセサリーとか、ほら、何かあるでしょ?」
「勘が良いな、お前は。ルビーのついた、丸いネックレスだ、って言っても、シリルには分かんねぇだろ」
「分かるよ!赤い石のついたやつを探せばいいんだよね?」
「ガラスと本物の区別、つくのか?」
シリルは黙りこむ。
目利きなど、生まれてこの方、一度もやったことがない。
言ってしまえば、本物のルビーを見たことすらなかった。
赤い色をしている、ということしか知らない。
大人しくなったシリルを見て、レミは微笑んだ。
「な?お前は、鍵を開けたら、そのまま外へ逃げろ。親方のところまで戻るんだ。それで、何事も無かったかのように眠ればいい」
「やだ!レミたちのこと、待ってるよ!」
「馬鹿。万が一、見つかったら大変なことになるんだぞ?」
「でも…」
「お礼の心配か?そんなら、明日の昼にでも、また同じ場所に来い。上手く取り返せたら、あの金貨をくれてやるから」
お礼のことを心配していた訳ではない。
純粋に、レミの友人として、一人だけ逃げることが、シリルには嫌だっただけだ。
しかし、当の本人に見当違いな解釈をされてしまい、内心で落ち込んだ。
「さぁ、行って来い。頼んだぞ、シリル」
軽く背中を押される。
シリルは1度だけレミの方を振り返り、彼が神妙に頷くのを見てから、屋敷の庭へと駆けて行った。




