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紅の鳩  作者: りきやん
残された人々

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広がる噂

 女将の元気は未だに回復しないものの、宿の酒場はとりあえず機能していた。


 まだ日が落ちて間もないせいか、客はまばらでそれ程忙しくもない。アンセルムも酒を煽りながら、給仕の真似事のようなことをして手伝いをしていた。ただし、酒を飲んでいる時間の方が長いことは言うまでもない。


 珍しくティボー親方も飲みに来ており、この分だと近いうちにシリルもやってくるだろう。


 アンセルムと同じテーブルにつき、時折言葉を交わすものの、会話らしい会話はなかった。どうやら、ため息ばかりついている女将をしきりに気にしているようだ。目の前にジョッキを置きながらも、一向に中身が減る気配はない。


「女将さんも一緒に飲みませんか?」


 その様子に目敏く気付いたアンセルムが声を掛けた。


 女将は鍋を掻き回す手を止め、迷うような素振りを見せたものの、結局は片手にジョッキを持って客席へと移ってくる。


「この酒はアンセルムの奢りかい?」

「いいえ、親方の奢りですよ」

「しがない煙突掃除人から絞り取るのかね?」


 親方は快活に笑うとジョッキを掲げる。それに倣うように、アンセルムと女将もジョッキを手に乾杯をした。


「ティボー、あたしゃね。今日はしこたま飲ませてもらうよ」


 勢い良く置かれたジョッキから飛沫が跳ねる。女将は乱暴に口元を拭うと、大きく深呼吸をした。


「ロランの馬鹿が、いなくなっちまって怒りが納まらないんだよ。あの恩知らずの……罰当たりめ……」

「まぁまぁ、ベレニス。その内、ひょっこり帰ってくるかもしれないよ」

「あんただって、シー坊がいなくなっちまったら、居ても立ってもいられないだろう?」


 親方は反論する言葉が無かったように押し黙る。


 目に入れても痛くない程に可愛がっているあの少年が姿を消したとなれば、草の根を掻き分けてでも探すであろうことは想像するに易かった。


「そりゃぁ、あの子に辛く当たったこともあったさ。けれどもね、あんな、何も言わずに出て行くなんて……」


 女将はジョッキを持ち上げると、一気に煽る。涙を堪えるように、その表情は歪んでいた。


「そんなに、ここが嫌いだったのかねぇ」


 そう零してから、堪えきれなくなったのであろう涙が次から次へと溢れ出てくる。終いには、テーブルに伏せて大声で泣き始めた。


 親方は宥めるようにその背中を擦ってやり、しきりに慰めの言葉をかけている。


 そんな中、アンセルムはジョッキをから酒を一口、口に含んでゆっくりと飲み下した。そして、その長い睫毛に縁取られた瞼をそっと閉じる。


「女将さん、ロランはここが嫌で出て行った訳じゃありませんよ」


 さすがのアンセルムにも、これほどまでに心を痛めている人間に対して何も思わないほど冷徹な人間ではない。ましてや、相手は宿の女将だ。


 数少ない、自分を見てくれる人物に親切にしてやりたいと思うのは当然のことだった。


「それにね、ちゃんと帰ってくるように、って約束もしましたから」

「あんた……やっぱり何か知ってるんじゃないのかい?!」


 胸倉に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄られて、アンセルムは苦笑を浮かべて椅子を引いた。


「居場所は知りません。ただ、前日に出て行くという話は聞いていました。黙っていてすみません」

「ロランは、どうして出て行ったんだい!?」

「駆け落ちしました」


 親方が「ほぅ!」と感心したような声を上げる。反対に、女将は絶句してしまったようで、おおよそ声となって出てきた言葉は無かった。


「だから、ここが嫌いだった訳じゃないんです」

「馬鹿な……あの子が? 駆け落ち? 相手は?」

「さすがのボクも、そこまでは」

「駆け落ちしなきゃいけないようなのが相手ってことだろう?」


 誤解を解くために、本当のことを言ったのだが、逆効果だったかもしれない。目が点になり、茫然自失といった風体だ。


 奥にいる中年の男性の2人組が酒のおかわりをねだっているが、女将はさっぱり聞いていない。仕方なく、女将を親方に任せることにし、アンセルムは席から立ち上がると適当なグラスに酒を注いで、客へと持って行った。


「おぅ、ありがとよ。兄ちゃん」


 差し出したグラスを受け取りながら、髪が薄い方の男が礼を言う。もう一方の髭面が肩を揺らして笑った。


「しっかしよぅ、ロランの奴が消えたって? え?」

「駆け落ちたぁ、やるじゃぁねぇか。あの小僧」


 どうやら、テーブルでの会話が筒抜けだったようだ。


 知られたからと言って、特に困るようなことはないが、明日には裏路地中にロランが駆け落ちした話は広まっているだろう。


「相手はどこのお嬢さんなんだ? ん?」

「ボクが知りたいくらいですよ」


 アンセルムは大仰に肩を竦める。髭面の男が、眉根に皺を寄せた。


「最近は、良くねぇ話しが多いなぁ」

「ロランの駆け落ちは良くない話に含まれるんですか?」

「あれが見えねぇのか? あの女将さんが泣いてるなんて、相当だぜ」


 参った参った、と髪の薄い男が両手を挙げておどけたように降参のポーズを取る。髭面の男が熊のような笑い声を上げた。


「王様とお妃様も臥せってるって噂だしよぉ。厄年か?」

「ふたりとも倒れてるのですか? どうして?」


 政治にはこれっぽっちも興味の無いアンセルムだが、さすがにこの国で最も位の高い人物が臥せったとなれば話は別だ。


「病気じゃねぇか? となると、やっぱりフランシーヌ姫とオーギュスト様の結婚が決まってて、良かったってことだ」

「さすがにフランシーヌ様だけじゃぁ、心許ねぇからな」


 再びグラスの中身を煽り始めた男たちから、アンセルムは離れる。興味深い内容ではあったが、所詮、酔っぱらいの戯言であろう。


 アンセルムが再び親方と女将のいる席に着こうと、足を向けた時、食堂の扉が騒々しく開いた。


 何事かと目を向ければ、肩で息を切らしたシリルが立っている。


「シー坊。そんなに慌ててどうしたの?」

「た……た、たい……」


 呼吸をするので精一杯で、言葉になっていない。席に座っていた親方がジョッキを置いて、シリルの方へと歩み寄った。


「そんなに急いで来なくても、夕飯は逃げやしないよ」

「ちが……違くて! 大変なの!」


 目線を合わせるために、しゃがみ込んだ親方に飛びつかん勢いでシリルは捲し立てる。


 普段とは違う様子に、さすがの親方も眉を顰めた。


「何があったんだい?」

「あの、あのね! フランがいなくなっちゃった!」

「フラン?」


 誰のことだ、と言わんばかりに親方の視線が女将とアンセルムの間を交互に滑る。


 女将は心当たりなど無い、と首を横に振っていたし、もちろん、アンセルムにもそのような名前の知り合いはいなかった。最も、忘れているだけの可能性も否定できないが。


「シー坊、ゆっくりお話し。フランというのは、シー坊のお友達かな?」


 気が動転しているであろう少年に、親方がゆっくりと話しかける。


 シリルは大きく頷いてから、深呼吸をした。


「フランはね、お姫様のフランシーヌだよ」


 突拍子もないことを言い出した少年に、大人たちは顔を見合わせる。まさか、一国の王女と一介の煙突掃除人の少年が知り合いであるはずもない。


 戸惑いを隠し切れない様子で、それでも親方は辛抱強く尋ねた。


「シリルは、フランシーヌ姫と友達なのかな?」

「うん」


 いよいよ、親方と女将、アンセルムの目が点になる。シリルは大分落ち着いたのか、先程よりは筋道を立てて説明をした。


「フランは、きっとロランと一緒に出て行ったんだ。あの2人が同時にいなくなるなんて、それ以外考えられないよ! あと、フランがいなくなったせいで、王様と王妃様が寝込んでるって話してるのを聞いたんだ」

「待って、シー坊。それ、どこで聞いたの?」


 ついさっき、奥に座っている酔っぱらいと、王と妃が臥せっているという話をしたばかりだ。


 アンセルムはそっと聞き耳を立てている、禿頭と髭面の2人組の男を気にして声を落としたが、シリルにはそのような気遣いは出来なかった。


「お城の、フランの部屋で聞いた。僕ね、ロランの居る場所をフランなら知ってると思って、お城まで行ったんだ。そしたら、フランもいなくなってるって話を聞いたの」

「お待ちよ。なんで、お姫様がロランの居場所を知っているんだい?」


 女将が我慢できないとばかりに、話に割り込む。


 シリルの返答は至って単純だった。


「だって、フランは、ロランのことが大好きだもん」

「フランって、フランシーヌ姫のことだろう?」

「だから、さっきから、そうだって言ってるじゃん!」


 業を煮やしたように、シリルが地団駄を踏む。


 けれども、ロランとシリルが雲の上の存在のような人間と知り合いだったという事実を呑み込むのは、そう容易なことではない。


「待ってよ、今の話が本当なら、ロランの駆け落ち相手ってフランシーヌ姫ってことかい?」

「かけ……何?」


 単語の意味が分からなかったシリルは首を傾げるが、誰一人としてそれに答えてやる者はいなかった。


 親方は困ったように曖昧な笑みを浮かべていたし、女将は開いた口が塞がらず、アンセルムでさえ驚きのあまり言葉を失っている。


「おいおい、ロランの奴、捕まったら大罪人じゃねぇか」


 ぼそりと禿頭の男が零した言葉が、やけに室内に響いた。

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