牢番のクリストフ
部屋を出たフランシーヌの足は、自然と地下牢へと向かう。煙突掃除人の少年が、どこから出入りしているか知っている身として、それは当然のことだった。少しでも見張りの目を逸らして、城から脱出しやすくしてやろう、という魂胆だ。
今の時間、夕暮れ時の見張りにつく男は、喜んで職務を放棄してフランシーヌの相手をするだろう。いつだって、仕事をどうやってサボるかを考えるのに忙しい人間だからだ。
地下牢へと続く階段を降りて、フランシーヌは見張りがいるはずの部屋をノックする。石造りの空間に、取って付けたような木の扉は、どこか馴染んでいなかった。
「あーい……」
内側から、間の抜けた声がする。掠れたそれは、明らかに寝起きだということを示していた。
もし、この来訪が彼の上官だったのなら、どうしていたのだろうか? フランシーヌの口から思わず苦笑が漏れた。
「クリス? ちょっと良いかしら?」
「おっと! 姫さんか! すぐ行きます!」
慌てて立ち上がったのか、椅子が盛大にひっくり返る音がする。そして、不格好な大きな足音。
大丈夫だろうか、と心配したフランシーヌの鼻先を、勢い良く開いた扉が掠めていった。
派手な登場を果たした人物は、フランシーヌを見ると厳つい形相を崩し、大きな笑みを浮かべて敬礼した。
「クリストフ、ただいま参りましたー!」
「もう、いつも大げさね」
クリストフ、と名乗った男は、騎士団に所属するだけあって、体格が良かった。線の細いフランシーヌの、ふた回りは優に越しているだろう。
乱れて毛先があらぬ方向を向いている赤い髪は、明らかに手入れがされていないことが伺える。そして、タバコの匂いが染み付いた隊服は、あまり衛生的な印象を与えるものではなかった。
勤務中の喫煙は禁止されているが、この男を規則で縛ることなど不可能である。仕事はもちろん、身だしなみにもずぼらなこの男は、髭すらも伸びるままに任せていた。
「クリス、髭は剃らないの?」
「1週間に1回、って決めてるんで。今日は、その日じゃないんすよ」
無精髭の生えた顎をさすりながら、クリストフは笑う。仕事はやれば出来るはずなのだが、向上心のないこの男は、自ら努力をすることをしない。そのため、いつまで経っても昇進できずに地下牢の見張りとしてくすぶっていた。
「姫様は俺の髭の具合でも覗きに来たんですかい?」
「違うわよ。暇だったから遊びに来たの」
子供の頃から兄のように接してくれていたクリストフに、フランシーヌは心を開いていた。頭の固い教育係とは違い、冗談も言えば、からかっても来る、この騎士団の下っ端団員がフランシーヌは好きだった。
クリストフのモスグリーンの瞳が、柔らかな色を象る。
「暇なんだったら、丁度いい。俺の酒を探すの、手伝ってくれませんかね?」
「お酒?」
「ちょーいと、目を離した隙に、小分けしといた酒瓶が消えちまったんですわ。ったく、隠れて飲もうと思って、移し替えたのが悪かったか……」
「あなた、仕事中に飲んでるの?」
「おっと、俺だけじゃないぜ。他の団員だって、一緒になって飲んでる奴もいますよ!」
弁解するように、付け加えたクリストフに、フランシーヌは声を上げて笑う。
「お酒って、そんなに飲みたくなるものなの?」
「そりゃぁ、ツマミと一緒に一杯ぐいっと引っ掛けるのは、人生で最も最高の瞬間と言っても過言ではないっすね。特に、周りに友人がいりゃぁ、文句なし」
「クリスはお友達が沢山いるのね」
「ま、人望が厚いんで」
「それは同意しかねるわ」
「ひでぇや、姫さん」
「ところで、クリス」
フランシーヌは会話に区切りがついたところで、そう切り出す。今回、ここに来たのはシリルを助けるため、というのはもちろんだが、クリストフにあることを尋ねるためだった。
「あなた、この国から外に出たことあるかしら?」
ロランと共に行くか、それとも、このまま城に残るのか。フランシーヌの中では、未だに決心がついていない。それでも、ロランと共に生きる道を選んだ場合、彼の足手まといにならないよう知識は蓄えておくつもりであった。
教養豊かなフランシーヌにとって、物事を知ることは大切なことの一つだ。セルジュに尋ねようものなら、敏い彼は、何故そのようなことを聞くのかと問いただしてくるだろう。しかしながら、クリストフならば、雑談の一環としていろいろなことを教えてくれるに違いないと踏んでの人選だった。
フランシーヌの質問に、クリストフはきょとんとする。
「何言ってるんすか。オレぁ、元々外の人間ですよ」
「あら? そうだったかしら?」
「そうっす。海の向こうの国にある、小せぇ村に住んでたんすよ」
海、という単語にフランシーヌは顔を上げる。興奮に紅潮した頬で、勢い良く喰いついた。
「海って、あの海?」
「あの海も、この海も、どの海もありませんぜ。海って言ったら、海っすよ」
「青くて、波があって、魚が取れるのよね?」
「まぁ、オレの住んでたところは絶壁にありやしたからね。海も見えますが、漁師よりも牧人の方が多かったっす」
「絶壁ってことは、その崖の下に海が広がってるの?」
「えぇ」
すごい、すごい、と大はしゃぎするフランシーヌを、クリストフは苦笑しながら見つめる。いつまでも子供のように感情を豊かに表現することを、セルジュは嗜めるが、クリストフはこのままで良いとばかりに見守るだけだった。
「何でまた、外のことなんて?」
「えっと……旅行にでも行きたいなぁ、って思って」
「あぁ。オーギュスト様との新婚旅行?」
「そんなところよ」
新婚旅行などと、考えただけでも吐き気がする。咄嗟に嘘をついたものの、鳥肌が立つことをフランシーヌは抑えられなかった。
「あんまり、オススメはしないっすけどね」
クリストフはフランシーヌの様子に気づかず、顎を撫でながら右斜め上を見る。彼が考え事をするときの癖であった。
「なーんにも、ありゃしない。海と羊くらいしか、見るものありませんや」
「素敵なところじゃない!」
「まぁ、のどかな場所ですけどね。草原があって、花が咲いていて、崖から海が一望できる。それだけですよ」
クリストフの言ったものを、フランシーヌは全て想像してみる。その眺めの素晴らしさに、思わず歓声をあげた。
「星は? 夜、星はたくさん見えるの?」
「星? そりゃぁ、もう。半分くらい消えちまっても、気づかないくらい」
「最高よ!」
今朝、ロランと交わした会話が思い起こされる。
クリストフが住んでいたという村なら、その全てが叶うのだ。
フランシーヌはロランと一緒にその村に住んでいる自分を想像してみる。毎朝、仕事へ出かけるロランを見送り、昼には自分で作った差し入れを持っていく。一緒に仕事を手伝ってから、夜には星を眺め、流れ星に幸せが続くように願う。
料理や洗濯など、およそ家事と呼ばれる全てのことを熟したことのないフランシーヌだったが、ロランのためであれば、何でもできる気がした。
「決めたわ。そこに行く!」
「はぁ……。まぁ、姫様が良いなら、反対はしませんけど」
「場所は? ここからどうやって行ったらいいの?」
「大陸の端っこなんすよね」
言いながら、クリストフは懐から地図を取り出して広げてみせる。
とんとん、と指で叩いて示した場所はこの街から陸続きで最北端にある場所から、海を挟んで向こう側だった。
「時計台に近い門から出て、ずーっと北上するのが近道ですよ。馬車で1週間はかかります。加えて船で3日」
「結構遠いのね」
「おまけに、途中で国境を越えますからね。そこでちょいと時間を取られるかもしれませんぜ」
クリストフは地図を丁寧に折りたたむ。
「ま、旅行するなら、もうちょっと近いところをオススメしますがね」
「うーん……」
「この地図あげますから、他の場所も検討したらどうっすか?」
ほら、と地図を差し出されて、フランシーヌは戸惑いを隠せない。
「いいの? いつも持ち歩いてるってことは、大切なものじゃないの?」
「その辺で買えるボロ地図っすよ。卓上旅行が趣味なだけっすから」
クリストフは不器用に片目を瞑る。とても、ウィンクと呼べるようなものではなかったが、感極まったフランシーヌはクリストフに飛びついた。
「クリス、あなた最高よ! 大好き! あなたに相談してよかったわ!」
突然飛びつかれたにも関わらず、クリストフは微動だにすることなく彼女を受け止める。ただの見張り番としてくすぶっていても、騎士団員だけあって、他の人間とは鍛え方が違う。もし、これがロランやセルジュであったら、倒れていたかもしれない。
「へいへい。でもねぇ、姫様。大好きなんて言葉、簡単に男に使うものじゃないっすよ」
「どうして? 本当のことよ?」
「男ってのは、勘違いしやすい生き物なんですぜ」
クリストフは豪快に笑いながら、フランシーヌの頭を撫で回す。あまりに力強く掻き回すものなので、綺麗に結かれた髪が解けて無残な姿になってしまった。
「もう、何するのよ!」
口では怒りながらも、フランシーヌは嬉しそうに目を細める。
「へへっ、オレからの愛情表現」
フランシーヌの頭から手を離しながら、クリストフは感慨深そうに呟く。
「それにしても、大きくなりましたね」
親指と人差し指で尺を作ると、クリストフは意地悪そうに笑った。
「オレが勤め始めた時は、こーんなに小さかったのに」
「いくらなんでも、そんなに小人サイズじゃなかったはずよ」
「例えっすよ、例え! いやぁ、しっかし、それがもう、結婚だなんてねぇ」
「あなたは、私が物心ついたときから、ずっと地下牢勤務よね」
「そりゃぁ、ここが居心地良いからに決まってるじゃないっすか」
クリストフは豪快に笑ってから、そのモスグリーンの瞳を細める。
「何にせよ、あんたが幸せなら、オレは満足ですよ」
その言葉に、フランシーヌは目を丸くする。
クリストフは全く事情を知らないはずだが、何故か、幸せになれと励まされたような気がした。ロランと一緒に行くことを後押しされたような気分になったのだ。
手の中にある地図が、くしゃりと小さな音を立てる。
「さーて、晩飯までもう一眠りすっか」
くるりと踵を返し、大きく伸びをするクリストフにフランシーヌは肩を竦める。
「あんまり、サボってると、団長に怒られるわよ」
「おー、怖い。フェルナンの奴、オレより年下のくせに、容赦ないんすよね」
「ふふっ。鬼の騎士団長って呼ばれてるものね」
「鬼っていうか、悪魔だな、ありゃ」
軽口を叩きながら、再び見張り部屋へと戻って行くクリストフをフランシーヌは見送る。これだけ時間を稼げれば、シリルも無事に城を脱出していることだろう。
不格好な木の扉が閉まるのを見届けてから、フランシーヌは駆け足で地上への階段を上って行った。




