「花一華」中編
俺はその後、数年に渡って各国を飛び回り、機密情報を国へ持ち帰る任務をしていた。
レジフォルニアが政での勢力を拡大していく最中、俺は〝マリー〟と出会う。彼女も、また色のない少女だった。
娼館は度々、スパイの情報交換場所として利用される。彼女は、そこへ娼婦として送り込まれ、俺はそれを繋ぐパイプ役をしていた。
男と肌を重ねる様を幾度も見てきた。淫らに誘う様も、男の肩越しで冷徹な表情を象る様も、俺は全てを知っている。
それでも何色にも染まらない彼女は、ガラス細工のようで不思議だった。
そして、ある日俺は気付く。その清澄さに心奪われていたことに。けれども、伝えるつもりは無かった。
いつ死ぬかも分からない相手を好いていられるほど、俺は強くなかったのだ。
なのに、彼女は不安げな瞳で俺にこう言った。
「私のこと汚いって思ってますよね?」
必要事項以外での、はじめての言葉だった。
諦念するかのように自嘲し、次いで「突然ごめんなさい」と繰り出す彼女。息を呑むだけで精いっぱいの俺は、否定することも、ままならなかった。
「……汚いついでに私を穢してください。名前は〝ベルナール〟で合ってますよね?」
男を誘う術を知っていることに、深い哀しみを覚えた。何か優しい言葉を掛けてやれば良かった、と今更後悔する。きっと彼女は俺に何か言って欲しかったのだ。
人と〝会話〟がしたかった。女としてではなく、人として。
けれども彼女は、その方法を知らない。知っていることは女を使うことだけ。
それが酷く悲しくて、気付いた時には両頬を包み込んでいた。視線が絡む。身体が絡む。唇を絡めたら、もう止まらない。
「それをしたら〝一夜の思い出〟なんかにはさせないよ。俺は透き通った君が好きだから」
「……よろこんで、です」
一時、唇を離して鼻先で囁く。俺達の間に愛を確かめ合う言葉などなかった。
そのまま娼館の寝台に寝転び閨事に耽る。声を押し殺す彼女の口唇を塞ぎ、音を立てぬように只管貪った。
香油の匂いが鼻を突く。褥には他の男の気配がしたけれども、気にならなかった。彼女が、それほど俺を夢中にしてくれたから。
俺達は、そうして「いつか一緒になりたいね」と睦言を交わし合った。
何回かそうした頃。関係に変化が生じる。俺達はお互いを〝リー〟〝ベル〟と呼ぶようになったのだ。
逢瀬は、けして多くなかった。両の指で数えきれるほどの回数に僅かな時間。それでも俺達は確かに〝恋人〟だった。
幸せだった。凄く、凄く、凄く。人を愛する喜びを知って、会えない痛みを重ねて切なさを覚えた。
永遠に続くわけがないと思ってはいても、心のどこかで期待していたのだ。〝幸せ〟は止まらないと。
——そして俺は人生最悪の日を迎える。
リーが捕まったとの知らせが届き、彼女を殺すよう命令が下ったのだ。
俺は決死の思いでリーを助け出し、敵の追跡を振り切った。
けれど間諜の間で仲間からの救出は死を表す。俺は逃げ切ったことに安堵するよりも恐怖していた。
これからもう一度〝あんな想い〟をするのか、と。
これから彼女の鼓動に刃を突き立てなければいけないのか、と。
今、傍らを覗いたら彼女が事切れていればいいとさえ思った。
これだけ拷問の跡が色濃く残っているのだ。もしかしたらもう——
けれど、振り仰いだ彼女の瞳は相変わらず透き通っていて、俺のこころは掻き乱された。
——嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
——殺したくない。殺したくない。殺したくない。
でも、と宿る思いが俺を侵食する。
——裏切ったら俺が殺される……。
恐怖だった。世界の全てが恐ろしくて、肩にかかる彼女の温もりも怖くて仕方なかった。
だから突き落とした。レジフォルニアの国境に差し掛かる深い森で、俺は彼女を川へ突き落したのだ。
リーの身体が翻り、視線が絡む。その目が見たくなかったから背を押したというのに、一体これはなんの罰だ。
一瞬、吃驚に染まった表情に哀しみが混じる。透明な瞳が全て哀愁に染まった頃には、既に彼女は消えていた。
ぼちゃん。という音が無情にも大きく響く。最期に触れた両手は未だ温もりを保っていて、俺はそれを洗い流そうと必死だった。
けれど、いくら洗っても手は冷たくならない。それから俺は〝手を洗う〟という行為に恐怖を覚えるようになった。
汚れも、温度も、記憶も錆びついて落ちてはくれない気がしたから。
素知らぬ顔をして報告するのは簡単だった。あの日、精製した氷のペルソナは今でも健在だ。
しかし、彼女を殺した日に偶然会ったユアンが、俺を抱きしめたことが今でも不思議でならない。
あの日の俺の笑みは〝完璧〟だった筈。涙を零すことすらしなかったのだから。
ここだけの話、俺が国を壊そうとしたのは私怨でしかなかった。王子が零していたことをユアンから聞き〝詭弁〟を語ったに過ぎない。
それでも〝いい方向〟に向いていたなら良かったことにしよう。
リーへの想いも、そろそろ断ち切るべきだ。彼女は生きているのだから。




