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「花一華」前編

 分かっていた筈だった。分かっているつもりだった。


 ——それでも向き合うことは出来なかった。


 俺は今でも悔恨を抱えている。仮面をいくつ捨て置いても、心までは捨てきれない。

 しつこく染みついているのは〝恋心〟。洗い流そうにも、その術が分からない。いっそ記憶など消してしまえればいいのに。

 顔を顰めて、そんな風に苦しむほど、俺は今でも彼女の〝名前〟に縛られている。


 笑顔でも、歌声でも、亡霊でもない。たった一つ。俺達の間でしか通じない〝名前〟。本名を知らない俺達の恋は、呼び名だけで繋がっていた。

 もう君の声も思い出せないというのに。


「そう思ってたんだけどなぁ……」


 決戦のあの日、鼓膜を震わせた声が耳にこびり付いて離れない。あんなに思い出したくて、思い出せなかった声が俺の罪をも蒸し返す。

 痛む心に身を委ね、杯を仰げば店のベルが鳴った。


「ちょっと、昼間から飲んだくれないでよね。おじさん」


「すっかり口の悪い美女になっちゃって」


 唇を尖らせて抗議すれば、腰までの長い髪を揺らしたロビンが傍を通り過ぎる。

 買い物の証である紙袋をカウンターに置いた彼女はクルリと身を翻し、足早に此方へ向かってきた。俺の目の前に立ったかと思えば、酒瓶を持ち上げラベルを確認する。


「コレ、高いやつ」


「げ、バレた」


酒瓶(コレ)で殴っていい?」


「それは死ぬ! さすがの俺でも死ぬからね⁉︎」


 相変わらず、冗談か本気か分からない奴だ。エレアノーラ嬢にも負けない美貌をひけらかした彼女は、眉一つ動かさず俺の目をジッと見据えてくる。


「冗談だよ。気持ちは本気だけど」


「それどっち!? やるの!? やらないの!?」


「やっていいなら喜んで」


「喜ぶなよ!」


「え? やってほしいの?」


「もうやめて!?」


 怒涛のツッコみにも怯まず、淡々と答えるロビンの表情は涼し気だ。

 10年もの間に女性らしくなった彼女は、看板娘として酒場で給仕をしている。そんなロビン目当てに店を訪れる客も珍しくはない。

 俺はといえば、彼女の虫よけをしながらバーのマスターをしている。今では俺の手も、すっかり(あかぎれ)だらけだ。


「いい加減、飲むのやめなよ」


「もうクセになってるんだよ」


 酔いつぶれることがなくなったものの、リーへの追悼は続いている。

 彼女は生きていた。それがどれだけ嬉しかったことか。少なくとも心が満たされたのは事実だ。

 それでも、あの子を殺した罪は消えてなどくれない。散々、拷問を受け、それでも国を裏切らなかった彼女を、俺は闇へと突き落としたのだから。






 間諜とは厳しい仕事だ。口で言うのは簡単だが、実際に経てみると言葉では語れないものがある。

 擦り切れるのは心。それでも責め苦に耐え兼ねるのは、いつも身体だった。


 他の国に忍び込み機密情報を得る。


 内乱が起こらぬようにアンテナを立てる。


 城に潜り込み他国の現状を漁る。


 間諜の仕事は多岐に渡るし、個々によっても違う。仲間同士で〝任務〟について語るのもタブーとされていた為、俺達は身内をも欺く必要があった。


 城に潜り込んだ他国の間諜を拷問し、情報を吐かせるのも俺達の仕事だ。搾れるだけ搾り取った後は、殺すまでがセオリーである。


 情けを掛けてもいいと思える相手なら、その場で殺してやる。けれども大抵は指一本動かせなくなるまで痛めつけた後、簀巻きにして川に流すのだ。

 俺は沈んでいくそれを色ない眼差しで見つめる。

 そしていつも思っていた。〝俺は、こうならない〟〝なりたくない〟と。


 キッカケはヴェーン侯爵様だった。近衛兵として城を護衛していた俺に、彼は言ったのだ。「君は色が無いね」と。「間諜をしてみない?」とも。

 その問い掛けに、よく分からず頷いた俺は地獄を見ることになる。しかし、俺は、それを経て一人前になった。


 1番の悲劇はなんだろう。その問いには、こう答えよう。〝煉獄の炎に身を焼かれたことだ〟と。

 古くて痛い記憶は、今も尚、色褪せない。俺に間諜のイロハを教えてくれた人を、この手で殺めた(いましめ)が。


 殺したくは無かった。それでも他国に捕らえられた間諜は殺すのが習わしだ。危険を侵し、救い出し、自らの手で止めを刺し報告する。


 ——危機は過ぎ去った、と。


 血塗れになりながら仲間を助けた俺に、彼は言った。


 ——俺を見届けてくれるのがベルで良かった、と。


 間諜は本当の名を知られてはいけない。だからこそ指導をしてくれる人間が名前をくれるのだ。

 俺は彼に〝ベルナール〟という名を貰い、生を受けた。


 彼は俺にとって一種の親だった。けれども〝もしも〟の場合は、親を子が殺すのだと義務付けられている。

 きっとココでも計られているのだろう。〝国への信頼〟を。


 慟哭しなが彼の心臓へナイフを突き立てる。刃ごと俺を抱きしめるように受け入れた彼が力尽き、銀花散る谷底へ舞っていくのを俺は一人で見ていた。


 とても、とても寒い雪国での出来事だ。凍える身体。凍てつく心。そこで俺は極点の氷で仮面を作った。

 〝笑み〟というペルソナを。

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