「紫苑」前編
私は、この世で自分が一番可哀想な姫だと思っていた。
質素な食事。淡白なワンピース。叶えられることのない願い。いいところを上げるならば民が私に優しいことぐらいだ。
それでも、それだけで嫌えないほどには祖国を愛していた。なのに告げられたのは隣国の王子との閨閥結婚。
私は、その時やはり自分が一番可哀想だと思った。
しかし、レジフォルニアは豊かな国で、末皇子の花嫁にも十分なほどの我儘が許された。
美味しいお茶。美味しい菓子。絢爛なドレス。有り余るほどの使用人。
どれも欲しかったものだ。けれども手に入れてしまえば大したことはなく、私はすぐに民の優しさに飢えた。
城から出ることも許されず、毎晩のように夜会に駆り出される。何より辛かったのはコルセットのキツイドレスだった。
襤褸のようなワンピースで日々を過ごしていた私は、ウエストを締め付ける行為が、こんなに苦しいものだと知らなかった。まさに内臓が口から出そうな気分だ。
嫁ぎ先の末皇子には未だ会ったことはなく、私は泣きたい気持ちで一杯だった。
望んでいない結婚。望まれない花嫁。歓迎されない自身。自らの存在価値も分からなくなり、心が波打つ。
そんなある日、私は夜会をひっそりと抜け出した。
吐き気を堪えながら壁伝いに歩む。ホールで忙しなく働く使用人は廊下に一切おらず、私は安堵の息を漏らした。
部屋に戻ろう。シラの小言など知るものか。
しかし覚悟とは裏腹に膝には力が入らない。悔しさに唇を噛み締め、私は脱力した。
「貴女、レディがはしたなくてよ?」
揺らぐ視界に冷汗を掻きながら崩れ落ちる。それと同時に、鋭利な声が耳を突いた。
返す言葉もなく、顔を上げる余力もない私は、そのまま床を眺め掌で口を覆う。
「あら? 具合でも悪いのかしら?」
白い手が私の額に触れる。顔を覗き込まれ、絡まった視線の先には目の覚めるような美少女がいた。
15歳ほどだろうか。女の子なら誰もが憧れるだろう美しい顔立ち。黄金比率を現したような佳麗な容姿に、私は体調が優れないにも関わらず「綺麗……」と零していた。
「コルセットね。いくら細く見せたくても締め付けすぎよ」
その呟きに数刻前の地獄を思い出す。少し揺れるだけで既に吐きそうだ。私は眉根を寄せ、生理的な涙を浮かべた。
「泣くのは殿方の前だけになさい。私じゃ何も誘えなくてよ? 貴女は他国の客人ね。部屋まで案内してくださる?」
「む、り……」
一言告げるだけでも辛い。触れらると危ういほど、私の身体は限界だった。
「少し失礼するわね」
彼女は、そう告げると背後へ周る。
何をするつもりだろうか、と浅い呼吸で考えていれば、腹部の拘束が徐々に緩くなっていくのが分かった。
「ごめんなさいね。緊急事態のようだったからコルセットの紐を切らせてもらったわ。でもよかった。貴女の為に作られたドレスで」
「え……?」
「この国では、あまり流行してないのよ。背がコルセットのようになっているデザインのドレスは」
「どういう意味ですの?」
「コルセットは下着だから、ドレスの下に身に付けて締め上げるのが普通なの。
でも貴女のはドレス自体に、その仕掛けがしてあるのよ。部屋に戻って見てみるといいわ。リボンで編み上げるようになっているから」
彼女の言葉が分からない。華美な衣服を身に付けることのなかった私には未知の世界だった。
「コルセットに慣れていないんでしょう? だから少しでも楽になるように、このドレスを手配したのよ。とても優しい傍仕えね」
「そうね……」
「体調のせいかと思ったけれど……唇の色が戻っても浮かない顔をしているのね。どうなさったの?」
床にへたり込んでいる私に目線を合わせ、彼女は顔を近付けてくる。
あまりの近さに頬を染め上げれば、クスリと笑う美少女。こんなに魅力的な少女なら男などイチコロだろう。
「何も分からないんですの……」
「え?」
「私、何も知らないの……テーブルマナーも、作法も、ダンスも、祖国にいた頃はやったことが無かったの……だから、違うことばかりで、もう……」
「随分と甘えたことを仰るのね」
非難される。そんな思いで床を見つめ身を固くする。しかし、言い返す気にはならなかった。
私が何かを言ったところで、まともに取り合ってもらえる筈がない。
「知らないなら知ればいいのよ」




