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突然の

維月は、戻ることのなくなった龍の宮を思い出していた。

あれからまだひと月しか経っていない。それでも、維心のことを思い出すと心が痛んだ。十六夜が居ても、愛した神…。あれほどに連日愛していると言われ、ずっと傍に居た維心が恋しくて堪らなかった。でも、結局は自分には過ぎた神だったのだろう。最強の龍王であった維心が、自分を選んで共に居た事実だけでも、夢のようなことであったのだから…。

十六夜が訓練場で皆の相手をしているのを知っていた維月は、気分転換にそちらへ向かおうと、南の庭から飛び立とうとした時、横から声がした。

「…維月。」

思い切ったようなその声に、維月は振り返った。この声は…。

「維心様…。」

いつからそこに居たのだろう。

維心は、じっと木立の間に佇んでいた。維月はその姿に、ハッとして頭を下げた。自分はもう、妃ではないのに。でもこのかたは、あまりにも慕わしくて、この姿をじっと見ているのは辛すぎる…。

「…十六夜が、呼びまするゆえ。御前失礼させてくださいませ。」

本当は、許可の言葉が無ければその場を去ることは出来ない。だが、維月は堪え切れずに背を向けて足を宮へ向けた。

維心は進み出て、維月を止めた。

「ならぬ。」維心は言った。しかし、その声は力がなかった。「我を厭うておるのは分かっておる…だが、我の話を聞いて欲しいのだ。」

維月は涙が出た。厭うってどういうこと?維心様から、私を捨てて行かれたのでしょう…。

「私は厭うてなどおりませぬ。」維月は言った。「維心様が私を捨てて行かれたのでございまする。でも、私が悪かったのでございます。恨んでもおりませぬゆえ、お帰りくださいませ。もう…ご無理をなさる必要もありませぬでしょう。御用なら、蒼か十六夜がお聞き致しまするゆえ。失礼を…。」

維月はサッと着物を転ばないようにたくし上げると、宮へと走った。これ以上、維心様につらい想いをさせないためには、私など忘れてしまわれるのが良いの。相手はいくらでも居られるのだもの…。

維月は、部屋へ帰ってホッと息を付いた。これでいいのだ。御用が済まれて帰られるまで、しばらくは奥に引っ込んで居よう…。

維月が奥へと歩いて続き間へ入ると、何かにぶつかった。

「イタッ、なに…、」

目の前に、維心が立っていた。

「き、」維月は仰天した。「きゃあああ…う。」

維心はその反応に驚いて、逃げようとした維月を咄嗟に後ろから引き寄せて維月の口を手で塞いだ。

「…すまぬ、驚かせるつもりはなかったが、主があまりにも話を聞く様子がないので、それで仕方がなくここへ追って参って…。」

維月はいくらか落ち着いて来た。それで維心を見上げて、手をとんとんと叩いた。口ばかりか鼻まで押さえているので、息が詰まる。維心は手を離した。だが、後ろから抱き寄せている片手は離さなかった。

「維月、話を聞いて欲しい。我は主を捨てたのではない。そのようなこと…我に出来るはずはないではないか。」

維月は前を向いたまま答えない。

「維月…もう我のことは忘れてしもうたのか…。我など、簡単に忘れ去ってしまえるものであったのか…。」

維心の声は、か細く震えていた。びっくりした維月は、維心を振り返って見上げた。そこには、悲しげに涙ぐむ、維心の深い青い瞳があった。

「我は主を待った。もしかしたら、戻ってくれるかもしれぬと思うて。だが、主は我のことなど忘れてしもうたかのように…毎日、ここで過ごしていた。我が毎日主の気を読んで追っておったのに、主は我の気など探りもせずに…。」

維心は、とても悲しんでいた。その気が維月を包み込み、維月は維心に言った。

「そのようなこと…一日も早く忘れてしまわねばと思うておりましたものを。気を探ったりしたら、忘れることも出来ませぬ。愛想を尽かされた私が、維心様に追い縋るなど出来ませぬ。」

維心はかぶりを振った。

「我に主を捨てることなど出来ぬ!我は…忘れようとしても忘れられぬのだ。主のことばかり思うてしまう。どうしても、どうしても主でなければならぬ。維月、我は主が居らねばならぬ。たとえつらくとも、主以外など考えられぬ…。維月…すまぬ。我が悪かったゆえ。我の傍に戻ってくれ。もう何も言わぬゆえに…。」

維月は維心をじっと見つめた。あれほど嫌な思いをおさせしたのは、私なのに。どうして維心様が謝るの。

「維心様は謝る必要などありませぬ。」維月は言った。「私が悪いことなのに。本当にそれでよろしいのですか…?」

維心は頷いた。

「何を失っても、主だけは失いとうない。絶対に。傍に居ってほしい。約したではないか…我を一人にしないと…。」

維心の必死な様子に、維月は自分も涙が出た。どうしてこんな私を、ここまで愛してくださるのかしら。私には、なんの取り柄もないのに…。

「維心様…私などを…。」

維月が力を抜いたので、維心は背後から抱きしめていた手を離してこちらを向かせ、しっかりと抱き寄せた。

「維月でなければ駄目なのだ。主が言うのなら…我はなんでもするゆえ…。ゆえに維月…。」

維心は維月に唇を寄せた。伏し目がちに、少し震えている。維月はその唇に、自分から口付けた。

維心はしっかりと維月を胸に抱き、いつまでもそうやって、じっと佇んでいた。

銀杏が言っていた、本物とは、これであるのだな…。維心はそう思いながら、何を犠牲にしても手にしていたい愛おしいものを、二度と離すまいと心に決めた。


慎吾が宮から宿舎のほうへ帰ろうと飛んでいると、龍王と龍王妃が並んで仲睦まじく庭を散策しているのを見かけた。常よりもべったりと、あれでは歩きづらかろうと思うのに、龍王はそれは幸せそうな風情だった。明人が、龍王も悩んでおられると言っていたが、きっと、それは解決したのだろう。龍王自身があれであれほどに幸福そうならば、なんでも乗り越えて行けるものなのだろう。

慎吾は、まだ演習をしている明人と慎吾を待とうと、先に宿舎へ帰って着替えると、ぶらぶらと訓練場わきの、湖に向かう散歩道を歩いた。

結界の中の空気はいつも澄んでいて心地よい。これに慣れてしまうと、外での任務が大変になると、軍神達は時々に外へ出るのだが、ここへ帰って来ると、いつもホッとした。

湖へ抜ける林の辺りに差し掛かると、何かが慎吾を呼び止めた。

「慎吾様…。」

何か、たどたどしい感じのするような話し方…。慎吾は声の主を探して、辺りを見回した。

「…我を呼んだのは、誰ぞ?」

「こちらに。」幾分、すんなりと声が出たような話し方になった。「我が呼びましてございまする。」

慎吾は、驚いた。そこには、人で言うのなら20代半ばから後半ぐらいの、栗色の髪に、澄んだ緑色の瞳の、美しい女が立っていた。明らかに大人であるにも関わらず、こちらへ来ようと足を踏み出すその様は、まるで子供のように、着物の裾を踏んではならぬと必死な風情であった。

しかし、向こうは知っているようだが、慎吾は見たこともない女だった。

「…主は?我は知らぬが…。」

女はやっと慎吾に歩み寄ると、微笑んだ。その美しさに、慎吾は驚いた。本当に見たことがない。

「我は結朋(ゆいほう)と名付けてもらいました。」

変な名の告げ方だと慎吾は思ったが、相手はとても親しげで、しかも嬉しそうだった。

「結朋…して、なぜに我を知っておる。」

結朋は何か答えようと口を開いたが、そこに声が飛んだ。

「慎吾?」訓練帰りで甲冑のままの、嘉韻だった。「なんだ、珍しい…で、誰ぞ?」

同じように明人も降りて来た。

「へえ、きれいな子だな。初めて見る。で、誰だ?」

慎吾は顔をしかめた。

「我も知らぬ。名は結朋。他は今聞こうとしておったところぞ。で、主はなぜに我を?我は主など知らぬ。」

結朋は傷付いた顔をした。

「そのような…我に触れて優しい言葉をかけてくださったではありませぬか…。」

結朋は涙ぐんで胸の辺りを押さえた。慎吾は仰天した。なんだって?!

明人は眉をしかめた。

「おい、慎吾、いくらなんでもオレだってそんな所は触らねぇけどな。」

嘉韻は頷いた。

「そうよ。しかも覚えておらぬとは何としたこと。」

慎吾があまりに驚いて口をぱくぱくさせていると、結朋は涙ぐみながらも、明人と嘉韻を見て微笑んだ。

「見ていらしたのですものね。」

明人と嘉韻は固まった。見ていた?…覚えていない。二人が顔を見合わせると、結朋は必死に言った。

「明人様と嘉韻様。我が父と慕う紫銀様と、友であられるでしょう?」

明人は、ああ!と、叫んだ。

「ポプラか!」

結朋は頷いた。

「はい。」

三人は呆然と結朋を見つめた。


明人はキョロキョロと辺りを伺った。

「…どうだ?」と、嘉韻。

「大丈夫だ。」と、明人は慎吾を見た。「今だ、入れ!」

三人は、結朋を連れて、慎吾の部屋へなだれ込んだ。結朋ははあはあと息をして笑った。

「このようにして部屋と申す所へ入らねばならないのですか?ほんに神の決まりとはおもしろいこと…。」

明人は、ため息を付いた。誰かに女を連れ込んだなどと言われないためなのに。

慎吾は言った。

「人型になれるなら、なぜにならなんだのだ。あの時に話しておれば、このような事にはならなんだものを。」

結朋は下を向いた。

「…なかなかになれなくて。」結朋は涙ぐんで言った。「とても一生懸命頑張りました。紫銀様が呆れておられたけど…教えてくださるままに、一生懸命に…。」

明人はポプラがかわいそうになった。

「そんなにきつく言わねぇでもいいじゃねぇか。どうしても話したかったんだな?」

結朋は頷いた。

「我は、どうしても慎吾様にお会いしたかった。あのように優しく話し掛けてくださったのは、慎吾様だけでありましたから…。」

明人は椅子に腰掛けながら言った。

「で、あの時に慎吾が触れたのが、」

結朋は左胸を押さえた。

「感覚的にはこのあたりでしょうか。」

慎吾は慌てて言った。

「知らなかった!我は知らなかったのだ、あの辺が人型のこの辺などと!」

明人は呆れたように言った。

「いや別に責めてねぇよ。結朋だって、どこ触られても平気そうじゃねぇか。」

結朋は頷いた。

「人や神は、時に抱き付いたり致しますね。我は慣れておりまするし、人型になったのは初めてで、体の扱いにもまだ慣れておりませぬ。なので、感覚もまだはっきりしませぬ。」

だから変な歩き方だったのか。慎吾は思ったが、このポプラをどうしようか悩んだ。会いに来たと言って、何も知らぬようであるのに…。

途方に暮れている慎吾を見て、嘉韻が言った。

「王にご相談してはどうか?結朋は何も知らぬようであるし、こちらに滞在するつもりでおるなら、学校にでも通って見て、一から教育せねば…。」

結朋は、少し怯えた顔をした。

「王とは、どなた?輝重様ではありませぬね。」

嘉韻は答えた。

「我らの王は蒼様だ。月の命を継いでおられるかただ。」

結朋はほっとしたような顔をした。

「ああ、十六夜様のお子様ですわね。存じておりまする。では、蒼様に会いに参りまするか?」

嘉韻は、明人と慎吾を見た。二人は頷いた。

「王に決めて頂くのが一番だ。さっそくお会い出来るか問合せようぞ。」

慎吾は言って、出て行こうとした。明人が慌てて言った。

「おい、ここはお前の部屋なのに。オレが行く。」と、立ち上がった。「待ってろ。許可が降りたら念で呼ぶ。」

慎吾は仕方なく座って、頷いた。そして、ポプラの話し相手は、もっぱら嘉韻がすることになってしまったのだった。

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