苦悩
明人は、果たして自分の決断が間違っていなかったのかと悩んでいた。普段は忘れているのだが、ふとした時に思い出し、考え込んでしまう。
悩みながら森を散策していると、あの銀杏の所に出た。ここは、結界の一番端だ。こんなところまで来た事に、自分でも驚いた。
銀杏はじっと立っている。横のポプラがざわざわと揺れた。何か話しているのだろうが、明人にはわからない。しかし、これらが何かの意思を持っていることは明人にもわかっている事なので、その木に話し掛けた。
「…なあ銀杏…お前の言葉はオレには分からねぇが、聞いてくれないか。」
銀杏は、ただそこに立っているだけだ。それでも、明人は話した。
「オレ、生まれて初めて好きだと思える女に出会った。だけど、オレは神の世に来たばかり、生まれながらの神の王族の彼女とは、考え方も感覚も違った。オレは愛していたが、考え方の違いってのは大きくてよ…オレはまだ子供だし、所詮人の世と神の世ってのは、相容れないのだと知った。最初は愛情でなんとかなるとと思ってた…だがな、気付いちまったんだ。そういうことは、一緒に居れば居るほどよく見えて、いつかお互いに我慢ならない時が来る。その時に苦しめ合って別れたくないってな。だから、オレから離れた。オレは成長しなきゃならねぇ…精神的にな。間違ってたと思うか?」
さわさわと木々が揺れた。明人には、それは何を言っているのか聞こえない。
明人は、そこに膝を付いた。聞こえればいいのに…。
《…困ったことよ。》低い声が聞こえた。《最近はおしゃべりな神が増えて…我は、話すのは好きではないのだが。仕方がないの…。》
明人はびっくりして顔を上げた。そこには、人型になった何かが浮いていた。髪は薄い茶色で、目は緑、着物を着てこちらを見ている、人で言うと40歳ぐらいの男だった。
「銀杏か…?」
その男は頷いた。
《主らはそのように呼ぶ。》と、隣のポプラを見た。《こやつは我を紫銀と呼ぶ。別に紫でも銀色でもないのだがの。》
隣のポプラがさわさわと揺れた。
「…ポプラは人型になれねぇのか。」
紫銀は首を傾げた。
《であろうな。これが人型になったら、うるさくて仕方がないと思うぞ。我だって、いつからこうして人型になったのかわからぬし…別にこの姿を取る必要もないしの。》と、明人を見た。《それより、主よ。木相手に何を話しておる。我らそのような感情は分からぬぞ。》
明人は紫銀を見た。
「オレは明人だ。」と、名乗ってから、頷いた。「わかってる。だが、聞いて欲しかっただけだ。お前達木は、長く生きてずっと見てるんだろう…だったら、外から見ていて分かることもあるんじゃないかと思ったんだ。」
紫銀は、うむ、と考え込むような顔をした。
《そうであるな。客観的な考えが聞きたいということか?》
明人は頷いた。
「オレらを見ていて、どう思う…?」
紫銀は、目を細めた。
《それは愚かだと思うわ。》明人がムッとした顔をしたのを見て、紫銀はフッと笑った。《なんだ、考えが聞きたかったのではないのか。》
明人はハッとして俯いた。
「すまない。オレ…子供なんでぇ。」
紫銀は頷いた。
《生きておる者は皆子供よ。》紫銀は言った。《主だけではないぞ、明人。全ては日々成長しようとしておる…死に逝く間際まで、人も神も成長しておる。何かを決断し、それが間違いであったと気付き、そして次はそれを学んで同じ轍は踏まぬであろう。それの繰り返しで、育って行く。何千年生きようが同じよ。また間違うし、それを後悔して修正する…なので、間違うこと事態は全く問題はないと我は思うのに、主らはそれで偉く暗く沈むよの。それで次は同じことをしないのであるから、良いではないか。何が悪いのであるかの。》
明人は、横を向いた。
「わかってるよ。だが、間違いたくないじゃないか。辛いのは嫌だ。取り返しが付かなくなる前に、何とかしたいと思うのが人情ってもんだろうが。」
紫銀は明人を見た。まるで、その辺の石でも見ているような感じだ。
《ならば、その愛しているという女とやら、一度共に居ったら良いではないか。一度は手にしているのだから、問題あるまいが。》
明人はいらだたしげに言った。
「そんな使い捨てみたいに出来ると思うのか。王族なんだぞ?娶って、やっぱり違いましたなんて…前妻に同じようなことしてる自分が、出来るはずがねぇ。王だってどう思うか…。」
紫銀は面倒そうに言った。
《では、やめておけ。主の判断は間違っていなかった。》明人が驚いて紫銀を見ると、紫銀は言った。《主は対面とかいうものを気にしておるの。そのようなものが気になるうちは、主の心は本物ではないということぞ。なぜなら、本当に想っておる者というのは、なりふり構わぬものであるからだ。我が見て来た神の中で、王であるのに女のために己を捨て去り、地位を捨て去り、なんとバカな王だと言われようともその女を追って行った者が居た。王である自分を嫌がって去った女を追ってな。そのために一族が滅ぼうと知ったことではないという風情であったわ。あれはあれで潔いので、見ていて気持ちが良かったものよ。おお、もう一人居った…人を愛して、どうしても相手の気持ちが分からず、自分の身を人に落とし、人として生活をし、その女と共に暮らした男。人としての僅かな寿命しかなかったにも関わらず、最期までそれは幸せそうであったぞ。そういう迷いのない想いというものが、本当の想いぞ。迷うなら、それは違うのだ。勘違いよ。ただ、なんとのう愛しているような気がしただけであろうな。世のほとんどはそんな感じであるゆえ、我は主を責めようとは思わぬが。》
明人は黙った。紅雪になりふり構わす…いや、自分はそこまでの想いではない。宮や友人を捨て去ってまで追って行こうと思うほど、愛していた訳ではない。この想いが、勘違い…。木から見たら、そう見えているのか。
「そうか…そこまで全てを懸けて愛しているのではないな。別れようと思ったことが、辛かっただけで…。」
紫銀は頷いた。
《己に酔っておるよの。こんなにつらいのは愛しておるからかとか、なのに自分から別れた自分はなんと崇高な考えの持ち主であるのかとか、別にそんなことは全くないと我には思えるのに、それが楽しいのなら止めぬが、我から見れば時間の無駄よ。》と、紫銀が鬱陶しそうに手を振った。《ああ、何を先程から隠れて聞いておる。ここへ来れば良いではないか。気になるの。》
明人はびっくりして後ろを見た。
そこには、維心が立っていた。他ならぬ龍王が居たことに明人は恥ずかしいやら驚くやらで慌てて下を向いて膝を付いた。
「龍王様。」
維心は軽く返礼した。
「よい、我が勝手にここに立っておっただけよ。」と、紫銀を見た。「我は維心。」
紫銀は頷いた。
《知っておる。長く君臨しておるからの。龍族の王よ。父を殺した時は、傍の杉が大騒ぎであった。皆予想はしておったがの。》
維心はじっと紫銀を見た。
「明人が悩んでおったことが、我に通ずる所があるように思えて、我もそのまま話を聞いておっただけのこと。」
紫銀は、じっと維心を見て、そして頷いた。
《月は特殊であるからの。あの陽の月には敵うまい。あれ以上の慈愛をもって愛することは、主には出来まい…龍であるのだから。よう渡りおうたもの。良いではないか。もう捨てたことであろう?》
明人はびっくりして維心を見た。捨てた?何を…まさか、溺愛していた、王妃を?
「…捨てられるはずがないではないか。」維心は言った。「我が生涯を懸けても失うことが出来ぬほど愛しておる妃。だが…あれの気持ちが分からぬ。月同士であるあの二人は、妃が子供の頃から同じ世界を同じように見続けて来たゆえに、さらに強い結びつきを持って、お互いに分かり合っている。わかっているのだ、同じようにあの慈愛のおかげで我にもあれを妃にする機を与えられたことぐらい。あの月の十六夜にとって、嗣重であろうと、我であろうと、皆同じなのだ。なのに我は…己だけにあれを許してもらいたいと望み、あれを己だけの妃にしたいと望む…。あまりに辛いゆえ、手放そうとしても、手放すことが出来ない。離れたくない。愛しておるのだ。だが、疎まれてしもうたら…傍に居ることは叶わぬ…。」
明人は、龍王の苦悩を知った。自分の比ではない。命を懸けて愛した女は、最初から別の、敵わない相手の妃で、やっと許されて手元に置いていても、やはり時々にはその相手の手に戻さねばならず…。それだけでもつらいものを、十六夜は他の男にでも、その境遇に不幸を感じれば、癒しになるならと妃を許してしまう。龍王にはそれが耐えられない。心が傍にあるとしても…。
「龍王様…。」
明人は、維心を見上げた。紫銀は、そんな維心をじっと見た。
《…主はよく努めた。つらいならやめれば良いではないか。月と我らは同じような感覚であるから、我に月の気持ちは分かるがな。我はずっと見て来て、人や神の感覚もまた分かる。主の気持ちは本物ぞ。だがつらいなら、捨て去ればよい。主がそうして苦しむ、それだけの価値を、あの妃に見出すのが難しいのであるなら。》
維心は、ハッとしたように顔を上げた。
維月の価値…そのようなもの、計り知れない。我の命を懸けても守り切ると決めた女。維月が苦しむぐらいなら、我が苦しむことを選ぶと、今までどれほどに…。
「…我の妃の価値は、計り知れぬ。」維心はフッと笑った。「我が苦しむことであれが傍に居るのなら、安いものよ。」
紫銀は軽くため息を付いた。
《…思った通りよの。主は本物であるわ。》と、遠い目をした。《…我が王が逝った。看取ってくれたようだ…主の妃は、戻って参るであろう。》
明人が、立ち上がって紫銀を見た。
「お前らの王って…?」
「嗣重よ。」維心が答えた。「一日、もたなんだが。」
紫銀は頷いた。
《老いが来ることを知っておられたと思うぞ、王は。なので穏やかな王が、あのような思い切ったことをなされたのだ。主の妃だとは重々知っておって、それでも最期の時を共に過ごすのは、あの陰の月であるとの。我からも礼を申す。王は穏やかに逝かれたであろう。気の乱れは全くなかった。》
維心は小さく頷いて、飛び立った。明人はそれを見送って、紫銀に言った。
「…オレの悩みなんか、小さなことのように思った。王達のことを聞いていると。」
紫銀はフッと笑った。
《そうであろうが?我が王も、あの龍王も、皆もっと重い物を背負いながら、そして己の情とも戦っておるのだ。のう、明人、主のは、己に酔っておるだけと言っておった我の言葉、わかったであろう?》
明人は少し複雑な顔をしたが、頷いた。
「確かにな。だが、オレにしちゃあ大きなことだったんだぞ?でも、ありがとうよ。お前にとっちゃあ取るにならない神の、オレなんかの為に出て来てくれてさ。」
紫銀は面白そうに笑った。
《我に話し掛けるからではないか。我にとっては王であろうとその辺の神であろうと関係ない。皆同じだ。興味があったから出て参っただけのこと。》と、目を閉じた。《ではな。100年分は話した気がする…我は休む。》
紫銀はスッと消えて行った。明人は、銀杏を見上げた。
「またな、紫銀。」
銀杏は何も言わなかったが、ポプラがこれ見よがしにざわざわと揺れた。明人は苦笑した…きっと、ポプラが人型になったら、大変だろうな…。
明人は、なぜかすっきりとした気持ちで、空へと舞いあがって行った。




