失恋か
紅雪は、自分出した文への明人からの返事がとても少ないことを気に病んでいた。
確かに、宮への侵攻や母の死去など、すぐにはおさまらない事態が次々に起こった明人にとって、女がどうのといったことは、二の次になるのかもしれない。
それは分かっていたが、宮へ帰る時も、会いに来てくれなかった。
そのまま新しい宮の建設に入ってしまい、こちらへ来ることがついぞ出来なかった。元より、任務を背負っている軍神の明人が月の結界を出ることなど許されるはずもなく、それは仕方のないことだと思っていた。
なので、此度の訪問に父がここへ連れて来てくれると言った時には嬉しかった…やっと明人に会うことが出来る。
決まってすぐに、紅雪は明人にそれを文にしたためて送ったが、返事は短いものだった。
しかし、その短い文章の中に、こう書いてあった。
…訪問されるなら、一度会って話をしよう…
紅雪はドキドキした。それは、もしかして求婚してくれるのか…。明人は、前の妻を離縁したのだと聞いていた。王族の妻だったので、我を娶ることは出来なかったけれど、今ならば。もしかして、明人様は我のために離縁してくださったのではないのか…。
紅雪は、明人からの連絡を待った。
やっと連絡があったのは、着いて三日が過ぎた頃だった。明人が指定して来たのは、意外なことに、宮の南の庭の、藤棚の下の茶席だった。
あのように、人目のある所で良いのだろうか…。
紅雪はためらったが、そこで待っていた。
明人は、時間を違えずに正確に現れた。
その姿に、紅雪は胸がときめいた…数か月ぶりに目にするその姿…。しかし、この人目に立つ所では、駆け寄って抱きつく訳にもいかない。紅雪はただ、微笑んだ。
「明人様。お久しぶりでございまする。」
明人は同じように微笑み返した。
「久しぶりであるな、紅雪。来た日に見かけたが、妹君の霧花も、とても美しい。皆を騒がせるであろうの。」
紅雪は、明人が到着を見ていたことに驚いた。なのに、三日も会いに来てくださらなかったのか…。
紅雪が、そのまま散策に向かうのかと立っていると、明人はテーブルに付いた椅子を指した。
「…座ろう。茶を用意させてあるのだ。」
紅雪はためらいながら、示された椅子に座った。明人は、その向かい側に腰掛けると、侍女が茶を持ってやって来て、茶菓子も置いて戻って行く。明人は促した。
「これは、人の世で流行っておるものらしくての。宮の女の中で好まれておると、杏樹に聞いたので、分けてもらったのだ。試してみると良い。」
紅雪はおずおずとそれに手を付けた。とても甘い味の、優しい味わいだった。
「とても良いお味ですこと。初めて食したものでございます。」
明人は頷いた。
「神はあまり食さぬというしの。しかし、これは癖がないので神にも好まれるらしい。」
明人は、茶碗に口を付けながら遠くを見た。紅雪は思った…明人は、落ち着いた感じになった…。前のように思い詰めたような様子はなく、とても大人びたような気を感じる。その目は、自分というよりも、何かもっと別の、何か遠くを見ているようだった。
「明人様は、僅かの間に変わられました…。」
明人は、紅雪を見た。そして、小さく息を付いた。
「…やはりそうか。」明人は言った。「それは友にも言われたのだ。我の心持ちが、僅かな間に大きく変化したのは確か。そしてそれが、我自身を変えたのも…。」と、紅雪を見た。「我が本当はこのように、神のような話し方でないのは、主はもう知っておるだろう?あの、囚われておった時、我らが助けに参った折りに話しておった…あれが、真実の我。この話し方は、友が話すのを真似て、生まれながらに神である主が驚かないようにと案じてのことなのだ。つまりは、我は主を謀ったことになるの。」
紅雪は驚いて明人を見た。やはりあれが明人様…戦っておられたから、気が昂ぶってのことではなかったのだ。
「驚きましたが、謀るなどと思うておりませぬ。ここは月の宮。人の世で育った者がここで暮らすのでしょう。月の話し方もあんな感じでありましたし、我は気に致しませぬ。」
明人は微笑んだ。
「…紅雪、我は感謝している。」明人は穏やかに言った。「我が辛い時に共に居てくれたからな。我は、今度のことで思い知った…まだ、我は子供であるのだ。僅か32年しか生きていない…神の世では、これは赤子のようなものよの。主は、もう成人しておるだろう。我より150年以上は先に生まれておるのだ。なので、落ち着いておっても道理よ。我など、まだまだであるのだ。ゆえ…誰の生にもまだ責任は持てぬと思うて、我は前の妻の世話を別の者に譲った。我には、まだその資格はないからだ。」
紅雪はハッとした。それは…もしかして…。
「…明人様、我とは、共に居ってはくださらぬのですね。」
紅雪は涙ぐんでいる。明人は伏し目がちに頷いた。
「…我では駄目だ。主を愛していたが、それでも、我では駄目なのだ。我も成人せねばの…あと200年は自分を戒めようと思うておる。」
紅雪は、袖で涙を隠した。
「それでは…我は、400歳を遠く過ぎてしまいまするわね…。」
明人は険しい顔で横を向いた。
「待ってくれとは言わぬ。紅雪…我では主を幸せには出来ぬ。」明人は、立ち上がって、顔を背けた。「主は本当に美しい…我には憧れて見ておるぐらいが分相応であるのだ。」明人は、軍神の礼で膝を付いた。「では、皇女…御前、失礼致しまする。」
明人は、後ろを振り返らずに立ち去った。
紅雪は、そのまま庭の奥へと駆けて行き、日が暮れるまで泣き続けた。
明人も、自室に篭って、一人静かに涙を流した。
これで良いのだ。
そう思いながらも、夜まで涙は止まらなかった。
「どういうことぞ!」
早朝の月の宮に、維心の叫びが響き渡った。蒼は、びっくりして飛び起きた。維心の気が膨れ上がる…蒼はただ事ではないと思い、慌てて袿を羽織ると、宮の回廊を維心の気の出所を伝って走った。
着いた先は、十六夜と維月の部屋だった。
「落ち着け、維心!」十六夜が言う。「維月は何も覚えちゃいねぇんだ!」
維月が十六夜の向こうで寝台に座って震えていた。
「覚えていないと…?」維心は維月を見た。「では、なぜに維月から嗣重の気がする!昨夜は主とここにおったのではないのか!」
蒼は察して肩を落とした。気付かれてしまったか…もしかして昨夜も、嗣重殿は我慢出来ずに母さんを向こうへ呼んだのか。十六夜は甘いから見て見ぬふりをして…まさかこんな早朝から維心様がここへ来るとは思わず、油断したのだろう。
「私の責でありまする。」維月が言った。「まさかこのような事になっておるとは思わず…」
十六夜が維月を振り返った。
「お前が月なのはお前のせいじゃねぇ。オレのせいだ。普通の神なら嗣重にも操れなかったのに…。それに、嗣重が気の毒だと、お前が出て行くのも見逃したんだ。まさかこいつがこんなに早くここに来るとは思わなかったからよ…まだ日が昇り始めたばかりじゃねぇか。」
維心は歯軋りした。
「だから主に任せるのは嫌であったのに!」と、つかつかと歩み寄ると、維月の腕を掴んだ。「…十六夜の気でも腹が立つものを、このように他の男の気など…!」
十六夜はその手を払いのけた。
「維月は覚えてないって言ってるだろ!維月に当たるな!」
「うるさい!主に権利などないわ!維月を連れ帰り、嗣重は討ちとってくれる!」
十六夜は維月をサッと月の力で包んだ。
「そんなお前なんかに渡したら、どんな目に合わされるか分かったもんじゃねぇ!離婚だ離婚!お前は帰れ!」
維心は十六夜を押しのけて気で維月を持ち上げた。
「主の決めることではない!これは我がものぞ!誰にも渡さぬわ!」
十六夜はそれを叩き落として維月を腕に抱いた。
「渡さねぇって言ってるだろ!帰れ!」
維心は力では十六夜に敵わないことは知っていた。キッと外を睨むと、言った。
「…それは後ぞ。嗣重を討って参る!」
維月は叫んだ。
「その必要はありませぬ!」
十六夜が驚いて維月を見た。維月は青い顔をして維心を見ている。維心は維月を振り返った。
「どういうことぞ?主が討って参るとでも言うのか!」
維月は涙を流した。
「嗣重様は、もう長くはありませぬ。」維月の言葉に、十六夜も蒼も絶句した。「…老いが、参りましたから…。」
維心の気が、スッと収まり出した。
「…あやつはもう、900歳近いはず。あの姿のまま留めておったのに、老いが参ったか。」
維月は頷いた。
「昨夜は、それを私に言いたいがため、危険を承知であちらへ力を使っていざなったのです。」維月は言った。「…いつもは消す記憶も、消えませんでした。私は、昨夜のことを覚えております。おそらく、もうあちらへ私を呼ぶだけの力はありませぬ。昨夜が最後の事であったでしょう。あまりに急速に老いて行かれるので、私はただただどうしたら良いのかわからなかった…。」
十六夜は、維月を抱き締めた。神の王は、時として普通の神より長く生きる。若い姿を保ったまま、本当ならば長く生きても800歳から1000歳の寿命を、人のようにゆっくりと老いて行くはずが、何百年も長く生きる。維心はその一番の長命な神で、1800年を生きている。しかし、前世炎嘉もそうであったように、いきなり老いがやって来て、数日から数週間で一気に老い、死んで逝く。これが長命な神の王の最期であった。
それが、嗣重にもやって来たのだ。全くの突然に。蒼は、それがこの世での責務を果たした時にやって来ると碧黎から知らされて知っていた。嗣重は、一族に未来を与えるという責務を果たし、その生を終えることになったのだろう。
「責務を果たされたのですね。」蒼は言った。「あちらへ逝くことが出来るようになった。嗣重様は、きっとやり遂げたのです。」
十六夜は顔を上げた。
「…あいつの一生ってなんだったんだ。ここまで耐えて来て、やっと楽になったってのに。」
維月は言った。
「それでも、幸せであったのだと言っておられました。」維月は涙を流した。「輝重と、鈴藍を成した後に死んでしまったたった一人の妃と、それは仲睦まじかったのだと。その時はまだ気を制限する必要は無かったのだと言っておられました。それから、どんどんと気が減って行き、今に至ったのだと…。なので、最後までつらかった訳ではないのだと。」
それに、と維月は思った。嗣重はこうも言った。主が居ったから、最期を心安らかに迎えられると。愛してもらえぬかもしれぬが、それでもこの溢れる気の中、愛することが出来たことが、何より幸せだったと…。
維月は十六夜に抱きついた。十六夜はそれを抱き締めて、頭を撫でた。
「じゃあ、最期まで見送ってやらなきゃな。どうせあれやこれやする元気ももう残ってないんだからよ。」
維月は頷いた。維心はそれを見て、顔を背けた。十六夜は、なぜにいつもこうなのだ。なぜに、相手のことまで思いやれる。なぜに、維月の気持ちを自分のことのように理解し、同じように感じることが出来るのだ…。我には出来ぬ。愛しているのに、そのような事を考えて許せる心持ちを理解することが出来ない…。
「…我には、無理だ。」維心は小さく言った。「我は…夫たる資格もないのやもしれぬ。」
蒼は仰天した。今まで、口が裂けても言わなかった事を。十六夜が顔を上げた。
「…それがお前の判断なら、仕方ねぇよ。維月は元々オレの嫁だ。ここで暮らして行くだけだ。あとの事は心配するな。」
維月は、ソッと維心を振り返った。維心がそれを見て、呟くように言った。
「…維月…。」
しかし、手は差し伸べなかった。維月は悲しげに維心を見て、頭を下げた。
維心は、何か言いたそうにしたが、結局何も言わず、口を引き結ぶと、その部屋を後にしたのだった。




