誕生
信明は、敵の軍神達が退いた後、後の始末を他の軍神達に任せて、宮の治癒の対へと走った。
そこでは、外の騒ぎなど気付かなかったかのように、治癒の龍の声が響いていた。
「さあ、あと少し!桜殿、今少しですよ!」
信明は息を切らせて桜の横へ掛け寄った。
「桜!おお…無事で。」
桜は薄っすら目を開けた。
「信明様…?」と、その姿を見とめると、汗を流しながらも微笑んだ。「ああ、来てくださったのですね…。今少しでございまする。」
信明は頷いて、桜の手を握った。思えば、自分は明人の誕生はこうして見ることはなかった。人の世のことで、陽花は病院、自分は仕事中だったのだ。
桜は顔をしかめた。
「はい、いきんで!」
治癒の龍が足元で言う。握っている桜の手に力が入った。思わず自分も力が入りながら、信明はそれを見守った。
「もう少し…」治癒の龍が叫んだ。「はい、力を抜いて!」
桜が息をハアハアと吐く。急に力を抜くなど、そんな難しい事を。信明が思っていると、何かが足元から取り上げられ、そしてしばらく、元気な産声が響き渡った。
桜は、ホッとしたように足元を見る。しかし、子は見えなかった。桜の処置をしている龍の他に居た、治癒の龍が向こうで赤子を洗っているのが見える。二人は、こちらへ連れて来られるのを待った。
「さあ」その龍は笑顔で布にくるまれた赤子を二人に見せた。「女のお子でございまする。」
信明はそれを受け取って、やっと泣きやんだ子を見た。目元は桜にそっくりで、髪も栗色、瞳も緑であったが、それは信明の血を引き間違いなく龍であった。
「桜、大儀であったの。このように愛らしい子は初めて見る。主をそっくり写しとったかのようぞ。」
桜は微笑んだ。
「まあ信明様…お名を付けてくださいませ。」
信明は頷いた。
「主が桜であるので、主の宮の名づけに従ってこれは椿ではどうか。」
桜はとても嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、父もどれほどに喜びますことか。」と、赤子の頬に指を触れた。「椿は我の父の母、つまり我の祖母と同じ名でありまする。嬉しいこと…。」
椿はそんな二人を珍しげに見ているようだったが、うとうととし始めた。治癒の龍が微笑んだ。
「さあ、ではお子をこちらへ。しばらくはこの治癒の対の部屋でお子と桜殿はお預かりいたしまする。七日ほどでお屋敷へお戻りになれまするので。」
信明は、屋敷と聞いて少し眉を寄せたが、黙って椿を渡した。桜もすっかり処置が終わったようで、着物をきちんと着せられ、掛け布団を掛けられて、治癒の対の部屋へと運ばれて行ったのだった。
宮の守りは、維心一人に任せられている状態だった。
維心自体は特に負担を感じて居ないようだったが、十六夜はため息を付いた。
「オレの力が降ろせないなんて。」十六夜は自分の手を見た。「正確には、目いっぱい降ろせない。絞り出すような感じて、このエネルギー体を維持して、後は飛んだりとか出来るが、いつものように結界を張ったり出来ねぇんだ。何かの仙術が働いているのは確かなんだが…。」
維心が、ため息を付いた。
「ほとんどの仙術は、術者が死ぬことで解けるではないか。だから我があの時滅してしまえばよかったのよ。今からでも遅うない、捕えた軍神達を片っ端から斬り捨てて行けばよいわ。あの中に術者が居るやもしれぬ。」
蒼が首を振った。
「殺すのは、いつでも出来ます。確かにこのままでは月の宮は丸裸でありますが、仙術の解き方を今、領嘉が検討しておりまするので…。」
維心はため息を付いた。
「甘いことよ。それでは月は侮られるぞ。まあ、良い。たまたま我が居る時でよかったわ。このまま結界が張れないのなら、龍の宮の結界をこちらへ広げて一つにまとめて我が守ろうぞ。少し広すぎるが、こうして二つに分けておるよりは我も楽であるからな。」
維月が気遣わしげに維心を見上げた。
「まあ維心様。もしかして、ご無理をなさっておいでなのでは…。」
維心は、維月を見て微笑んだ。
「問題ないことよ。我は龍王ぞ。二つに分かれておるので、ややこしいだけであるのだ。維月、ここは主の里であるのだからの。我が守って当然であるぞ。」
維心は得意そうだ。十六夜はそれを見て、またため息を付いた。
「…力のない月なんて、存在意味ないじゃねぇか。ほんとにオレは、もっと仙術を学んでおけばよかったな。」
維月は十六夜の頬に触れた。
「十六夜…困ったら、私の力を使って。少しだけど、無いよりいいでしょう?」
十六夜は維月を見てフッと微笑んだ。「維月…。」
維心が少し眉を寄せた。
「…それで、あの小娘の話は聞かぬのか。」
蒼は頷いた。
「牢の方に皆収まったようでございますので、参りましょうか。」
蒼は立ち上がった。維心も立ち上がる。
「嗣重とは、しばらく会っておらぬ。最後に見かけたのは、会合の折…200年ほど前か。」
蒼は先に立って歩きながら驚いて振り返った。200年がしばらくか。まだこの時間感覚に慣れない。
「でも、ご存知なのですね。」
維心は維月の手を取りながら頷いた。
「知っておる。桜の父の鵬も、紅雪の父の緑青も、紗羅の父の漠もの。あれらが生まれた時、我にあれらの父王が挨拶に来おったのが、まるで昨日のことのようであるのに…あれからもう、800年ほどになるか…。」
維心は懐かしそうだが、蒼は眉を寄せた。おそらく、皆それ相応の歳格好になっているだろう。だが、維心はずっとこのまま…なのに、千年近くも年上なのだ。
地下へと降りて行くと、入り口近くの牢に、鈴藍が入れられて中でじっと座っていた。蒼が言った。
「鈴藍、主の話を聞きに参った。捕えた軍神達はここより奥の、下の階に居る。皆命は落としては居らぬ。安堵せよ。」
鈴藍は頷いた。ホッとしたような感じだ。
「なんでもお話しいたしまする。このような大変なことをするなど…我は知らずにここへ参りました。毎日細かに文を送るようには言い使っておりましたが、父は我には何も言いませなんだ。なので、どこまでお応えできるかわかりませぬが…。」
維心が、口を開いた。
「まず、宮の状態はどうであるか?」
鈴藍は頷いた。
「宮は、近年より増えておる人の影響で、命の気が大変に減少して参って、不足して参っておりまする。なので、父は臣下達の婚姻も認めることが出来なくなり申した。子が出来て増えると、現存している神達の気が足りなくなるからでございます。誰かが世を去って、初めて誰かが子を成すことが出来る、といった状態でございます。」
蒼は驚いた。確かに近隣の宮々辺りでは、人による開発が進み、木が伐採され獣も棲家を失い、それに伴って大地から得られていた命の気がなくなってしまっていると。仕方なく宮の近くで食物などを栽培したりして、本来なら食さなくても良いのにそこから細々と気を摂取しているという話も聞いたことがある。
紅雪の宮も、そのせいで一族が滅びかけていると聞いた。ここはほとんどを次元を変えて建てている宮であるので、両方から吸い上げる命の気が豊富で、しかも月の守りがあって、そのような心配はしたこともなかった。
維心の守る龍の領地も然りだった。
龍は古来から人に信仰されていたので、龍のために人が建てた社まであり、その中心にある滝周辺は完全に神域とされ、人は手を出さなかった。
そのうえ、その回りの山も小さな社があり、龍の宮を中心に広く人に手を入れられることはなく、命の気は昔から変わらず一定の量を保っていた。
その代わり、維心は自分の結界の中に知らずに住む人々を大きな災害から守り、安定させて来た。しかも、半分以上を別次元に突っ込む形で建てられている龍の宮は、気が不足するなどという心配は皆無であったのだ。
しかし、近隣の小さな宮はそうはいかなかった。
次々に滅んで行っていると聞き、蒼も維心に相談して救済の手を差し伸べるのだが、結局はその地は住めなくなり、別の地へ移るしかないということが多かった。
人は、かなり山深くまで開発を進めて来ているのだった。
「…それは、ここ最近の傾向と同じだな。しかし、嗣重殿は主をここに預ける時何も言わなかったが。」
鈴藍は下を向いた。
「はい…ただ、父はここへ嫁がせたいと、そればかりを申しておりました。なので、ここへ留学していいとおっしゃってもらった時には、そのままここで誰かに娶ってもらえと命じられたほど。なので、なぜに父がここへ侵攻して参ったのか、我には分からぬのです。毎日寄越すように言われておった文には、なので何も書いておりませぬ…我の学校で見聞きした出来事ばかり。元より我には、軍がどうのといったことは分かりませぬので。」
鈴藍は途方に暮れているようだ。蒼は維心を振り返った。維心は頷く。
「…侵攻して来るのを知っておって、あのようにのんびりと桜など見ておられぬだろう。おそらくこの娘は何も知らずにおったの。」
「では、牢などに入れずとも良いのではありませぬか?」維月が言った。「皇女であるのに、こんな所では…。」
維心が困ったように維月を見た。
「維月、皇女であるから入れて置かねばならぬのだ。王族とはそんなもの。臣下が他の宮に迷惑を掛けたとあっては、代わりに責任を取らねばならぬ。つまりは、もし嗣重が命じたのではなくとも、これは嗣重の責であるのだ。それは、この鈴藍の責でもある。知らぬでは済まぬ…主もそれを覚えておかねばならぬの。」と、鈴藍を見た。「まあ、仮に嗣重が責を負うのなら、罪は免れるやもしれぬ。そこは王である蒼の判断であるぞ。」
蒼は、ため息を付いた。
「…とにかく、逃した軍神も居ります。しばらくは鈴藍もここに居てもらう。」と、踵を返した。「維心様、あの記憶の玉を見て、知り得たことをお教えください。対策を考えるのにお力を貸して頂きたい。」
維心は頷いた。
そして、そこを後にしたのだった。
鈴藍は不安げに、一向を眺めていた。その中で、月の十六夜だけはじっと黙って鈴藍を見ていた。鈴藍はその目に、少し背筋が寒くなったのだった。




