学校
学校では、新クラスが始まっていた。
玲が、一人の栗色の髪の女を連れて、教室へ入って来たのを見た紗羅は、少し変な心持ちがしたが、それがなにゆえであるのかはわからなかった。
玲は、新入りの3人と紗羅に向けて、言った。
「本日から、まだ間に合うということで、このクラスに新しい生徒が入ることになりました。」と、傍らを見た。紗羅は驚いた。良く見ると、着物の下の腹はせり出している。「桜殿だ。」
桜は微笑んで、頭を下げた。
「桜と申しまする。何事もわきまえぬので、ご迷惑をお掛けするかもしれませぬが、よろしくお願い致します。」
皆が軽く返礼した。何やら廊下のほうに気配がして見ると、そこには信明が心配そうに、しかし控えめに立って、中を見ていた。
玲がそれに気付いて、苦笑した。
「信明殿。あとは我が。何かございましたら、お知らせいたしますので、ご安心を。」
信明は驚いたように玲を見たが、頷いて、まだ気遣わしげにこちらを見ながら足を出口のほうへ向けた。桜が、そんな信明を見て、大丈夫、というように微笑んでいる。信明はそれを見てホッとしたのか、微笑み返すと、サッと廊下を歩いて行った。
授業が終わり、玲が出て行くと、皆が桜に寄って行って言った。
「桜、とお呼びしてもいい?」
桜は微笑んで頷いた。
「ええ。あなた方は、人の世を学ぶの?それとも神の世?」
相手の女は答えた。
「私は神の世を学びに来たの。人の世で育ったので…。」
もう一人の女は言った。
「我は人の世を。桜は、鵬様の王女でいらっしゃるのね?」
桜は驚いて相手を見た。
「まあ、父を知っておるの?」
相手は頷いた。
「もちろんですわ。こちらへ降嫁なされたなんて、知らなかった。あの、廊下に居た軍神の将が、夫であられるの?」
桜は少し頬を染めて頷いた。
「ええ。信明様と申しまする。我が身重であるので…大変に案じてくださって。このような所にまで、付いて来てくださったの…。」
相手の女は、羨ましそうに言った。
「まあ…あのように凛々しい殿方が夫であられるなんて、羨ましい限りですわ。それに、とてもお優しいかたですのね、信明様は。」
桜は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。とても大切にしてくださるの。なので我も…何としても信明様のお心を煩わせることが無くなるように、努めているの。」
相手は夢見るようにため息を付いた。
「本当に羨ましいこと。我も、それが理想でありまする。」と、桜のお腹を優しく撫でた。「我もあやかれますように。桜、仲良くしてくださいませね。」
桜は頷いた。
「まあ、こちらこそ。」と、その胸に光る、小さなペンダントが目に付いた。「あら、とてもきれいだこと。そのような模様は初めて見まするわ。」
鈴藍は、ハッとしてそのペンダントに触れた。
「宮を出る前に、贈られたものであるのです。大切にすると約しておるので、毎日身に付けておりまする。」
桜は微笑んだ。
「まあ…」桜は少し、鈴藍をからかうような表情をした。「大切なかたからかしら?」
鈴藍は赤くなった。
「そのような!我は想い人などおりませぬもの…桜が羨ましいですわ。」
紗羅が、話し掛けようとしながらもタイミングが掴めずにいるのを、桜は気付いた。なので、こちらから声を掛けた。
「紗羅殿も、こちらへ。お話しを聞かせてくださいませ。」
紗羅は、ホッとしたように桜の横に回り込み、言った。
「我のことは、紗羅と。桜、お腹がとても大きいわね。いつ生まれるのかしら…。」
桜は、そのおっとりとした話しかたに和んで微笑んだ。
「ええ、あとひと月以上は掛かると。」
桜と紗羅は同い年であったが、桜のほうが年上に見えた。桜は立ち上がって、戸へと向かいながら言った。
「まあ皆さま、もうお暇しなければなりませんわ。迎えが参りました。」
気を感じたようだ。桜がそう言って戸を開くと、そこに、信明が立っていた。慌てて桜に手を差し出す。
「桜、大事ないか?」
桜は困ったように微笑んだ。
「まあ信明様、今すぐに生まれる訳ではありませぬのに…。大丈夫でございますわ。座っておるだけですのよ。玲様も、何もおっしゃいませんでしたでしょう。」
信明は眉を寄せた。
「がしかし、主がなかなか出て来ぬので、我は心配になったのだ。さ、戻ろうぞ。」
桜はふと、背後の教室の中から、クラスメート達がこちらを見ているのを感じて、振り返った。
「信明様、新しい我の学友ですの。端から、紗羅、聡子、美羽、鈴藍。」
4人は信明に頭を下げた。信明は紗羅を見て少し複雑な表情をしたが、軽く返礼して言った。
「妻が世話になり申すが、よろしくお頼みする。」と、桜の肩を抱いた。「参るぞ、桜。あまり長く立っていてはよくない。」
桜は頷いた。
そして、二人は出て行った。
紗羅は、それを何か考えながら見送っていたが、玲の部屋へと今日の復習の為急いで向かった。
それから毎日、信明は甲冑姿であろうが、着物姿であろうが、桜を送り、そしてきっちり時間に迎えに来た。
しかも、教室の戸の前で待っていた。
軍務があっても、緊急でない限り抜けて来ているようだった。どれほどに大切なのかと、他のクラスの生徒の間でも噂になるほどだった。
桜は、お忙しい時には歩いて帰りますのでと、いつも言っていたが、信明はとんでもないとでもいうように、毎日しっかりと桜を抱き上げて連れて帰った。桜は、ため息をついた。
「たまには皆さまとお茶でもしたいと思いまするのに。それも叶いませぬわね…。」
鈴藍が笑った。
「まあ桜、信明様のお気持ちも汲んでおあげなさいな。きっと、桜が大切で仕方がないのよ。」
桜は赤くなった。
「ま、まあ…鈴藍…。」
美羽が頷いた。
「そうそう。お茶なら、お休みの日にいかが?ねえ、湖にピクニックに行かない?」
「ピクニック?」
桜が不思議そうに美羽を見た。聡子も頷く。
「そう、食べ物を持って、散策に行きますの。人の世では、友人同士でお話ししながら行くのですわ。そして、敷物を敷いて、その上でお茶をしますの。」
桜は目を輝かせた。
「まあ、とても楽しそうね!我はそんなこと、したことがないわ。ぜひ、参りましょう。次のお休み?我は何を持って行けば良いかしら。」
美羽は首を振った。
「これは人の世のことだから、持って行くものは私達に任せて。でも、信明様がお許しくださるかしら…。」
桜は少し困ったような顔をしたが、頷いた。
「これも、勉学の一つと言えば、きっとお許しくださるわ。だって、人の世を学べるのですもの。」ふと、信明の気が廊下にした。時間通りだ。「ああ、信明様が。では、明日また詳しいことを教えてくださいませね。」
桜は言うと、急いで戸を開けた。そして待っていた信明の手を取ると、帰って行ったのだった。
明人は、まだ迷っていた。
紗羅を見捨てる事など出来そうにない。だが、愛しているのは紅雪で、それを違える事もまた出来なかった。
しかし、毎日紅雪に会う事はやめられず、嘉韻や慎吾とよく話して歩いた、森で待ち合わせては、会って話して歩いた。
そのお陰か体調は戻り、気の補充はまたいつものように空気を吸うように滞りなく出来ていた。
こんなところで隠れるように会うにも関わらず、紅雪は文句ひとつ言わず、まだはっきりとしない明人を責める事もなく、ただ幸せそうにしていた。そんな紅雪を見るたびに、早く何とかしなければと思うのに、明人は紗羅に、何も言い出せず、また屋敷へ帰る事すら出来ていなかった。
そんな自分を不甲斐ないと思いながらも、明人は身動き取れずにいた。
今日も、日が落ちると紅雪が心配なので、明るいうちから待ち合わせていた。
「明人様!」
紅雪が、先に来ていて駆け寄って来る。明人は紅雪を受け止めた。
「…待ったか?」
甲冑姿の明人は言う。紅雪は首を振った。
「いいえ。ただ今着きましたところでございます。明人様には、お仕事の最中なのでは…。」
明人は首を振った。
「今は休憩時間であるのだ。なので、また戻らねばならぬ。明日は休みであるので、ゆっくり出来るかと思う。」
紅雪は微笑んだ。
「我のためにお時間を割いて下さり、ありがとうございまする。」
明人は、紅雪に唇を寄せた。紅雪は驚いたようだが、少し赤くなりながらそれを受けた。
明人は紅雪を抱き締め、本当に早く何とかしなければと思った。
桜は、無事にピクニックに参加出来た。最初信明はとんでもないという感じだったが、少し運動もしなければ子を易くうめないと訴えて、やっと許しをもらったのだ。
だが、信明はまた演習が終わったらここへ迎えに来ると言う。仕方なく、桜はそれを飲んだ。
月の結界の中の清浄な空気を、桜は存分に楽しんだ。皆は近くの森や散歩道を探索して、存分に屋外を満喫した。湖の畔に敷物を敷き、そこに座って聡子と美羽が色々な食べ物や飲み物を並べ始めた時、紗羅がやっと敷物の所まで戻って来た。桜は、紗羅が他の者よりどうやらとてもおっとりしているらしいことに、もう気付いていた。迷子のような表情で所在なさげにしている紗羅に、桜は言った。
「紗羅、こちらへお座りなさいな。今、お茶を準備してくれているの。」
紗羅は、頷きながらもまだ座る様子がない。聡子と美羽と鈴藍は怪訝な顔をしたが、桜は少し心配になった。
「紗羅?どうかしたの?」
紗羅は桜に何か言おうとしたが、言葉が出ない。話すまでに時間が掛かることは、知っていた。なので桜は待っていたが、鈴藍が苛立たしげに口を挟んだ。
「とにかくお座りなさいな。それから話をなされば良いわ。お茶が冷めてしまうから。」
紗羅は驚いた顔をした。桜が諌めようと鈴藍の方を向いたが、紗羅は頭を下げ、言った。
「…忘れていたことを思い出しましたの。失礼を…。」
「紗羅?」
桜が声を掛けたが、紗羅は学校の方へ飛んで行った。




