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心はどこに

紗羅の向かった先は、玲の部屋だった。どうしても、聞いて欲しいことがある。本当は休みの日にまで押し掛けるのは駄目だと思っていた紗羅は、休みの日はどんなに話したくても遠慮していた。だが、紗羅はそんなことにも考えが及ばず、一目散に最上階の、職員の執務室と居住区域が一緒になっている階の廊下を走った。

戸の前に着くと、紗羅は息を整えた。いつも、軽く声を掛けるだけで我だとわかってくれる玲様。だが、本日は来るとも思っていないはず。紗羅は、思い切って声を掛けた。

「玲様。」

しばらく待つと、中から驚いた顔の玲が出て来た。

「紗羅?どうしたんだ。今日は皆とピクニックだと言っていたのではないのか。」

紗羅は、玲の顔を見ると、なぜだかホッとして涙が出た。玲はびっくりして、紗羅に部屋の中へ入るように促した。

「とにかく中へ。」

紗羅は頷いて、涙を拭こうともせずに部屋へ入った。玲は傍のポットでお茶を入れてやり、紗羅の向かいに腰掛けた。

「どうした?何か話したいことがあったのか?」

紗羅は、頷いた。そして、少し黙った。紗羅が言葉を出すまで時間が掛かるのは知っているので、玲はいつものことだと気にもせずに待っていた。紗羅は、言った。

「玲様…我は、やはり明人様を想ってはおりませなんだ。」

玲はびっくりした。明人?

「…なぜ急に、そんなことを。」

紗羅は湖のほうを指した。

「我は、今日皆と一緒に湖のほうへ向かいました。そして、皆の速さに付いて行けずに森をジグザグと歩いていると…明人様が、我も一度会ったことのあるのですが、美しいかた…あの、紅雪様と抱き合って立っておられた。」

玲は衝撃を受けた。明人が…紅雪と。だが、紅雪も王族のはず。いくら複数の妻を娶るのが通例とは言っても、王族を二人、普通の軍神には無理ではないのか。だが、それを見てしまった紗羅の気持ちは…。

「…紗羅…。」

玲が暗い表情で紗羅を見ると、紗羅は首を振った。

「違うのです。我は、それを見ても何も思わなかった己に衝撃を受けたのです。やはり…明人様を想うてはおらんなんだ。そう思うと、なぜかとても辛くて…。お互いに、想ってもいない夫婦も、神の世には居るのでしょうか。我は、人の世で物心ついたので、それが不毛な気がしましたの。少しでも、想うておるものだと、己では思うておりました。でも、これほど何も感じないなんて。」

玲は眉を寄せた。

「…だが、明人は何も言わぬのだろう。紗羅、主はどうしたい?」

紗羅は首を振った。

「わかりませぬ。我は…でも、我が宮に帰る訳にもいきませぬもの。月の宮へ嫁がせると決めたのは父ですし、帰ることを許してくださるとは思えませぬ。なので、生きて行くには、明人様の妻でおるより、他は…。」

玲は、紗羅の手を取った。

「では、我の妻に。」紗羅は、びっくりして目を見開いた。「紗羅、そうしたら、ここに残って生活して行けるじゃないか。我では、嫌か?」

紗羅は、じっと玲を見ていたが、悲しげに微笑んだ。

「嫌ではありませぬ。我はいつも玲様に頼ってばかりで…。お優しいのですね。我のために、そのような犠牲を払って頂く必要はございませぬ。もうこれ以上、誰かの重荷になるのはいやでございます。」

玲は首を振った。

「犠牲などであるものか。我は、ずっと主を想うて来た。こちらへ来た始めから…だが、友の妻であったから、ただ幸せであるならと見守っていたのだ。紗羅…我は、主をずっと望んでいたのだ。」

紗羅はただ驚いて、玲を見上げた。玲は、立ち上がって紗羅に近付くと、紗羅を抱き寄せた。

「我の妻に。明人を愛せないというのなら、我を愛してはもらえないだろうか。」

紗羅は下を向いて、小さく言った。

「でも…我はこのようにとても鈍くて、利発でもないし…玲様とは正反対でございます。こんな我なのに…。しかも、一度は嫁いだ身でもあるし…。」

玲は言った。

「何もかもを知っていて、主がいいと申すのだ。紗羅、我の妻に。」

玲は必死に言った。我なら絶対に幸せにする。放っておいたりもしない。何事も努力して、乗り越えて…。玲は想いのたけを込めて、紗羅を抱き締めていた。

紗羅は必死に考えた。我は、この四年間、いつも玲様に頼って来た。明人様が居ないから、明人様に話さないようなことまで、玲様が穏やかに聞いてくださるから、話した。今度の事も、真っ先に迷いもせず玲様の所に来た…そして何より、我はあの美しい桜を連れて玲様が教室に入って来た時、とても胸が傷んだ…なぜか分からなかったけれど、玲様を取られるような気がしたのだ。元より自分のものではない、玲様なのに…。

もしかして、我も玲様を想っているのだろうか。辛い時も、悲しい時も、嬉しい時も共に居て、話を聞いてくださった玲様…。

「…玲様…。」

紗羅は玲をまじまじと見た。思えばこんなにじっと見るのは初めてだった。だが、いつもこの姿を探し、そして、見付けるとホッとした。そして何より、玲はいつも自分にすぐに気付いて微笑んでくれた。それがどれ程に紗羅にとって救いになったことか。明人が居なくても寂しくなかったのも、きっと玲が居たからだったのだ。

玲は、紗羅の頬を拭った。また涙を流しているのを、紗羅はそれで知った。

「紗羅…。」

玲は紗羅に唇を寄せた。そして紗羅はそれを受けて、こんなにも優しく暖かい気持ちになるのは初めてだと思った。


桜は、迎えに来た信明に抱き上げられて、宿舎へ戻っていた。そして、今日の事を話すかどうか悩んでいると、信明が気付いて言った。

「…どうしたのだ。何やら落ち着かぬの。」

桜はハッとして信明を見た。そして、やはり話そうと信明に向き合った。

「信明様、お話がございますの。」

信明は頷いた。

「何かあったのか?」

桜は、少しためらった。紗羅は、この信明の息子、明人の妻だと聞いている。だが、桜は話始めた。

「本日湖で、皆で森まで足を伸ばして散策しましたの。紗羅は遅れて戻って参ったのですが、様子がおかしゅうございました。気になって訊ねようとしたのですが、紗羅は用を思い出したと帰ってしまいまして…我は、そのあとも皆と話しておったのですが…」

桜は下を向いた。信明は眉を寄せた。

「…それで?」

桜は、また顔を上げた。

「他の者は気付かないようでしたが、信明様と気が似ておるので我にはわかり申した。明人様が、森からソッと訓練場に向けて飛び立たれたのです。」

信明は両眉を上げた。

「明人が?…休憩時間であったのであろうの。それにしても、なぜに一人でそのような所へ。」

桜は首を振った。

「恐らくお一人ではありませぬ。」と、言いにくそうに続けた。「もうひとかた…女のかたが宮へ飛ばれました。」

今度こそ驚いて、信明は絶句した。明人が…いったい誰と?

「…主は知っておる者であったか?」

桜は頷いた。

「はい。嫁いで来る前にも何度か会ったことごございますので。」と、息を付いた。「紅雪でこざいまする。」

信明は驚いて、そして考え込んだ。ならば、明人があのような所で会っていたのも頷ける…。明人、我らを気遣ったばかりに、このような事に。

「…そうか。しかし紗羅が気付いたかどうかはまだ分からぬのだな。」

桜は頷いた。

「はい。ですが…恐らく…。」

信明は黙った。明人から、話を聞く事などついぞなかった。これは、聞いてやらねばならぬな。

信明は立ち上がった。

「よう話してくれたの。我は明人の所へ参る。すぐに戻るゆえ、待っておれ。」

桜は黙って頷いた。信明は同じ宿舎の下の階へと急いだのだった。

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