< 7 >
音楽家は、背負い袋から大きな包みを出しました。
布を取り中の箱の蓋を開けると、そこには彼が片時も手放すことのない美しいヴァイオリンが入っていました。
調弦を手早く行った音楽家は高く持ち上げるようにヴァイオリンを構え、顎と肩で支えるとゆっくりと弓を当てて奏で始めました。
静かな調べがこぼれて落ちるように流れていきます。切なくも繊細に響くそれはレクイエムとなって辺りに美しく響き渡りました。
どれほどの時が流れたでしょうか。
ひとしきり奏で終えると、音楽家は静かにヴァイオリンを肩から外しました。マカロニ屋は目を瞑ったまま微動だにせず、静かにうなだれていました。
ほうっと艶やかな溜め息が傍から聞こえてきました。見やると、湖の精が両手を頬に当て、うっとりと音楽家を見つめていました。
「素敵。今の音が、音楽というものなのね。
話として知ってはいたのだけれど、鳥達の調べ以外でこんなにも美しい音があるなんて。まるで果実酒でも飲んだかのような気持ちにさせられたわ」
しっとりと上気した頬に潤んだ瞳の美女に見やられ、音楽家はにっこりと微笑みながら応えました。
「お褒めに預かり光栄です。
しかしながら音楽というものは、先程の曲よりもまだまだ美しく素晴らしい曲がごまんとあるのですよ。
もしよろしければ、お聞かせしましょうか」
「まあ」
無邪気に喜びながら湖の精は音楽家に近寄りました。片膝を折ながらその手をとり、指先にうやうやしく口付けしながら音楽家は続けました。
「ただし、その為にはそれなりの高いお代を必要とさせていただきます。
そう、例えば失った命の芽を、もう一度取り戻すような」
「……呆れた。
お前、私と取引でもするつもりなの」
「取引は妥当でないと。そうでしたね?」
音楽家はにっこりして答えました。
美貌の主は口元に手を当てて笑いました――心底楽しそうに。
「そうだったわ、確かにそう言ったわね。
いいわ、あなたの『音楽』というものにはそれだけの価値がある。永い時を生きる私を楽しませてくれる程度には。
たまには酔狂も良いでしょう」
「だってさ」
音楽家は、呆然としているマカロニ屋の背をポンポンと叩きました。
「勘違いしないで欲しいのだけれど」
湖の精は言いました。
「彼女の命が再び芽吹くことがあっても、それはこの器に入り直すだけということ。
負荷がかかった肉体はそれ以上の変化に耐えることはもうできないでしょうし、戻ったところでそう長いこと生き永らえることはできないわ。
それでもいいのかしら」
小首をかしげながら彼女はじっとマカロニ屋を見つめました。
それはつまり、娘の命を戻したところで鳥の姿で短い生涯を終えるだけであり、人間の身体を持った娘に彼がもう会いまみえることはないということなのでした。
マカロニ屋はしばらくの間黙っていました。
たった今失ったものが、もう一度手に入る。それだけでいい、どんな姿であろうが構わないと彼は思っていました。
しかし、それが果たして彼女の幸せへとつながるのでしょうか。目覚めた時に目にするのは、ボロボロのままの鳥の身体。人間である自分は、苦しみに耐えながら再びゆっくりと弱っていく彼女を見ているだけしかできない。今度こそ最期まで見守っていたいというこの想いが、彼女の為でなどではなく単に利己主義な考えに他ならないとしたら。
「……それでも」
うめくようにしてマカロニ屋は言いました。
「それでも俺は、取り戻したい」
そして、決意したように湖の精に向き直って切り出しました。
「あんたはまだ、俺の願いを叶えちゃいない。
俺はあんたに願いを言う」
「ふうん」
湖の精は面白そうな顔をしました。そしてちらりと音楽家を見やり、
「まあ、確かに今の取引はあなたとしたものね。
言い分としてはさほど間違っていないわ」
と言いました。
「それに、言い草は気に入らないけど青臭いのは嫌いじゃなくてよ。暇潰し程度には面白いもの。
代わりに私に何を差し出すのかは、分かっていて?」
「俺の全てを渡す」
迷わずマカロニ屋は応えました。
「願いさえ叶い終われば、その後は俺をどう扱ってくれてもいい」
「良い度胸ね。
それでは今度こそ、あなたの願いを教えてもらおうかしら」
マカロニ屋は湖の精の顔をまっすぐ見つめ、迷いの無い顔で言いました。
「彼女が死ぬまででいい。
俺をツバメにしてくれ」
* * * * *
「それからどうなったんだい」
ひとしきり麦酒をあおりながら聴いていた青年達は、語り主に尋ねました。
大きな仕事がひと段落した夜は、少々値の張るこの酒場で酒と腸詰の肉を詰め込むのが最近の彼らの楽しみとなっておりました。
今夜はたまたま近くにいた男と話しをしているうちに、彼が流しの音楽家だということを知り、それじゃ一曲やってもらおうという運びとなったのでした。
こういう申し出は良くあることであり、良い稼ぎにもなったので、彼も快く承諾しました。そして、酒場の主に了承を得ると、朗々とした声で歌い語りました。
時折ヴァイオリンを交えながら語ったその唄は、人間の若者と鳥の娘の恋の唄でありました。
「これで物語はお終いさ」
彼はそう言って、傍らにおいていたワインを美味しそうにあおりました。
「不器用な男の、最初で最期の恋の歌。
それで終わりでいいじゃないか」
聴いていた酒場の酔っ払い達は不満気な声を上げました。色っぽい酒場女が音楽家の傍に座り、しなをつくるようにしてもたれかかると彼の髪を指ですきながら、
「ねえ、野暮かもしれないけどさ、ここはあたしに免じてもうちょいとだけ続きを話しておくれよ。
あんたの分の酒代はいいからさ」
と言いました。
音楽家は微笑むと、グラスを片手にゆっくりと話し出しました。
――なあに、本当に続きなんて、そうたいしたことじゃないのさ。
御伽話のお終いは、いつもめでたしめでたしだろう。
ひとつ付け加えるとするならば、息を吹き返した雌ツバメはすっかり元気になってたってことかな。
面白がった湖の精の、ちょっと粋な計らいでね。
まあ、鳥としての生を終えたら、その命はどちらも彼女のものとなるのだろうけれど。
ほら、そこに覆いのかかった鳥籠があるだろう。
あの中に、例のツバメ達が眠っているんだ。
寒い冬の終わるまで、こうして僕が保護していたんだが、やっとこ春になったんで明日にでも放してやるつもりさ。大空をのびのびと飛ばしてやりたいからね。
嘘だろうって?
それはご想像にお任せするよ――
近くの宿を店主に尋ねて礼を言い、扉を閉じると音楽家は歩き出しました。
後ろから酒場の喧騒が聞こえてきます。春の初めの夜はまだしっかりと澄んだ寒さで、酒で火照った頭を心地よく冷やしてくれるようでした。
今夜は少し飲み過ぎた、と音楽家は思いました。
思っていた以上に長居をし、仕事をしてしまいました。
「まあ、あのくらい唄ったっていいだろう。
しっかり稼がせてもらったしね」
そう呟くと、音楽家は片手に持っていた鳥籠の覆いを、そっとめくりました。
そして、中で静かに寄り添って眠るつがいのツバメを、優しい瞳で見つめたのでした。
< 了 >
最後までお付き合い下さりありがとうございました。
ツバメのデザインって素敵です。
鳥の中でも本当に仲睦まじい「つがい」だそうです。
不器用な者同士の不器用な恋物語、
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。