23:58:31死亡、23:59:31転生
少年は、齢十歳にして自分の運命を知る。
最初は、ただの風邪のはずだった。冬ももう終わりが近く、春が顔を見せようとしてもいいはずの3月上旬、肌を刺すような冷たい乾いた風が町を駆け抜けていく。月の明かりを雲が覆い隠し、北西の空にはアルゴルが輝いている、そんなどこか不吉な夜なのは確かだった。
静まり返った住宅街の一軒家から少年の誕生日を祝う楽し気な声が聞こえてくる。両親から送られる祝い言葉とプレゼントに少年は喜びの笑顔で返している。しかし、幸せの絶頂とも言える瞬間の少年に突如として災いが降りかかる。
急な高熱。
捻じれる視界。
足先から這い上がってくる鈍い寒気。
それらは容易く少年をリビングの床に沈めた。朦朧とする意識の中で両親が少年の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。息は浅く、手足は硬直して動かない。胸だけが海月の傘みたいに動いている。辛うじて少年の目に映ったのは、少年を抱きかかえてベッドに寝かせる父と、慌てて救急車を呼ぶ母の姿だった。
数分後、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。家の外に出た母が手を振りながら、こちらへ向かってくる救急車を誘導する。サイレンが鳴り終わると、救急車から降りてきた救急隊員の一人が問いかける。
「救急隊です。119番通報を受けて来ました。お子さんはどちらですか?」
「はい!こっちです、あの、こ…子供が倒れて…動かないんです。どうか…お願いします」
「分かりました。案内をお願いします」
震えた声で答える母に連れられて、少年のもとに隊員たちが駆け寄ると、意識状態を確認し始める。
「大丈夫ですか?名前は分かりますか?」
「うぅ…」
「ここがどこか分かりますか?私の声が聞こえますか?」
「あぁ…」
返事が弱く少年の意識が混濁していると分かると、隊員はすぐに呼吸や顔色を確認し、別の隊員は脈拍や血圧、体温を測りだす。
一通りの測定を終えると、隊員は冷静な表情で、しかし口早に告げる。
「すぐに病院へ搬送する必要があります。我々がお子さん球果病院まで搬送するので、お母さんも一緒に乗ってください。お父さんは、必要な荷物をまとめて病院までお願いします。」
「は、はい!…分かりました」
「分かりました」
二人に説明し終えると隊員たちは息の合った連携で少年を担架に乗せ、救急車の荷台へ運び込む。それに続けて母を荷台へ誘導し、最後に乗り込んだ隊員がバタンッと勢いよく後部ドアを閉める。全員が乗り終わるのを確認すると、救急車は赤色灯を点灯させサイレンを鳴らし、球果病院に向けて走り出した。父を家に残し、母に手を握られながら、揺れる荷台の中で少年は眠るように意識を失った。
「・・・・・・・!」
少年が目を覚ますと、そこは病室のベッドの上だった。あたりを見渡しても誰もいない。あるのは、左腕に繋がれたチューブとその先にある点滴、窮屈にはめられたマスクとおそらく肺に空気を送り込んでいるであろう機械、何かの数値を測定しているモニター。部屋にはモニターから聞こえてくるピッピッという電子音だけが響いている。少年が動こうにもまだ身体の感覚が鈍い。目だけが俊敏に周りを観察しようと動き、身体はゆっくりとその上半身を起き上がらせていく。熱が引いたのか気分は軽いが、身体中には重い倦怠感が残っている。ーしばらく何もしたくない。
少年が自分の寝ていたベッドのテーブルの一点だけを見つめて、口を半開きにしながらぼーっとしていると、病室の扉を開けて看護師が入ってきた。看護師は少年が意識を取り戻すのを見るや否や驚いた表情で医師を呼びに部屋を出て行ってしまった。しばらくして、40代半ばくらいのベテランの風格を漂わせた医師が病室まで来るとベッドの横にある椅子に座り、少年の顔を覗き込んだ。
「意識が戻って何よりだよ。私の声が、聞こえるかな?聞こえたら、君の名前を教えてくれるかな?」
「…亜門」
亜門は、少し緊張した声で答えた。
「うん、ありがとう。ゆっくりでいいからね」
医師は、亜門の意識を確認すると今の気分や体調を聞き、少年の身体に痛みがないかなど触診を行った。
「良し、今は安定しているようだ。…何か違和感があったらすぐに先生か看護師さんに教えてね。それと、お母さんとお父さんは今、看護師さんが呼びに行っているから少し待っててね」
すぐに看護師が母と父を病室まで連れて入ってきた。両親は、亜門を心配する眼差しで見つめながらも、医師の勧めで椅子に腰かけた。次に医師は、重々しい口調でこう続けた。
「まずは、お二人とも亜門くんの精密検査の許可を頂きありがとうございました。検査結果が出ましたので、ご報告いたします。…検査の結果、脳の一部に腫瘍のような特異的な組織が見つかりました。現在、脳癌である可能性を考慮して治療方針を検討しています」
「それは、治るのでしょうか?」
母の問いかけに一瞬黙ると、医師は重い口を開けて答える。
「…現時点では、何とも言えません。専門医と相談のもと、追加検査が必要になります」
母は、顔を青くして黙り込んでしまった。父は、何か方法はないのかと医師に尋ねているが医師はこれ以上の悪化を防ぐためにも下手なことはできないと言い、明確な答えは返ってこなかった。そんな二人を見てようやく自分の現状を子供ながらに理解したからか、それとも症状がまた再発したのか、再び亜門の身体を高熱が襲い意識は遠のいてゆく。
「・・・・・・・」
次に亜門が目を覚ますと、医師が母に何か説明している最中だった。父は仕事に出て今は居ないようだ。医師が亜門に気づくと、眠ってから今までの経緯を説明してくれた。亜門が高熱で意識を失ってから3日が経過したらしい、その間に追加検査も終え、確定した診断結果を母に伝えにきたそうだ。亜門の意識が戻ってから改めて本人にも説明するつもりだったが、偶然にも亜門が目を覚ましてしまったため、医師に言われるがまま本人も交えて再度説明が始まった。
「詳しい追加検査は先ほどお伝えした通りですが、診断結果を申し上げますと…亜門くんがかかった病気は前例がなく、現在具体的な治療方法がありません。加えて、脳に見つかった腫瘍が全身へ転移を始めており、神経の一部に損傷が見受けられました。このことから、未知の進行性神経壊死症と結論付けました」
信じられない言葉に隣に座る母は驚愕し、今にも泣きだしてしまいそうなのをぐっとこらえた表情をしている。それは一縷の望みがまだあると信じているからだ。
だからこそ、母は涙を流すことなく縋る思いで医師に問いかける。
「それは…治るんですよね?これからもっと調べれば、治す方法は見つかるんですよね!?」
「…可能性が無いとは言い切れません。我々も全力で亜門くんの病気が治る方法を探します。しかし…過去の似た症例では、発症して10年前後で重症化するケースが多いです。なのでご両親お二人には、二十歳を迎える前に亡くなってしまうことを覚悟して頂きたい…」
「そんな…」
精神の限界だったのか母はその場で倒れ込んでしまった。医師たちに運ばれて病室を退出する母、後で看護師から聞いた話では、母は1時間ほどで目を覚まして一度考えを整理したいからと家に帰ったそうだ。理解が追い付かないは、亜門も同じだった。一つ分かっているのは自分が二十歳を迎える前に死んでしまうということ。絶望的でありながらどこか現実味のない不安に心が支配されてしまいそうになる。それを察した医師が優しい声で語りかける。
「大丈夫だよ、亜門くん。病気は必ず私達が治すから、亜門くんも諦めちゃダメだからね。一緒に少しずつ頑張っていこう。」
「…うん」
「それじゃあ、また明日診察に来るからね。それまでゆっくり休むんだよ」
そう言って医師は部屋を後にする。
一人残された亜門は、自分の両手を閉じたり開いたりしながら身体の調子を確かめる。どこも痛みはなく、少し身体がだるい程度、病み上がりくらいの体調で、本当は病気なんかじゃないんじゃないか?などと思えてしまう。だが、ふと数分前の記憶が頭に流れてくる。医師の言ったあの10年という単語が頭の中をぐるぐると廻る。本当に自分は10年で死んでしまうのか?もしかしたら、明日急に死んでしまうのではないか?急に死ぬのならそっちの方がいい。痛いまま死ぬのは嫌だ。嫌だ。…怖い。楽観的だったさっきまでの思考がどんどん、どんどんとヘドロように腐敗されてゆく。目をつむったら二度と目を覚まさないのではないか?そんな不安を必死に我慢して自分の目をつむった。そうして数時間の長い一日が終わった。
「・・・・・・・」
自分を呼ぶ声が聞こえた気がして目覚めると、看護師が朝の検温と血圧測定をするために亜門を呼んでいたのだと分かった。亜門は安堵と同時に憂鬱になる、まだ自分は生きていることと、希望の見えない現実に。そんな悲喜交々な気持ちから亜門の毎日は始まる。
朝食と医師の回診を終えると、運動も兼ねたリハビリを行う。ここ数日、手足がたまに痺れてくる。廊下で不意に転んだり、物を落としたりしてしまう。思考ははっきりしているのに何故か身体は言うことを聞いてくれない。まるで身体が別の生き物になったみたいだ。昼食を摂り、窮屈な検査、またリハビリ。自由な時間は、午後のリハビリ後と夕食の後だけ、正直言って退屈だ。
悶々としていた亜門のもとに一人の看護師が一冊の本を持ってきてくれた。不安を紛らわすためにも自由時間に読書をすることにした。気がつくと、院内にある患者のために建てられた大きな図書館からいくつも本を借りて、消灯するまで読むのが亜門の楽しみになっていた。読むのは入院生活では味わうことのできない料理や旅行、小説、スポーツから哲学に至るまでの様々な本、特に亜門の興味を引いたのが海外の文化や芸術、建築物を紹介する本だった。「世界には、こんなすごい建物があるのか~」、「もっと色んな国を見て回りたいなぁ…」と羨望するように呟き、のめり込んでいった。
毎週、週末になると両親がお見舞いに来てくれる。母はいつも心配そうな面持ちで亜門に会いに来ていた。
「亜門、病院に独りで寂しいでしょう?毎日会いに行けなくてごめんね。欲しいものがあったら何でも言うのよ。大丈夫だからね、病気もすぐに良くなるわ」
父は、亜門を元気づけようと励ましの言葉をかけてくれる。
「先生が絶対治療法を見つけてくれるから、亜門も頑張るんだぞ。お父さんたちな、色んな病院を回って話を聞いてるんだ。だから必ず治る方法は見つかるはずだ。心配しなくても、大丈夫だからな」
「うん、ありがとう。お母さん、お父さん。」
両親とする一時の会話が亜門の沈みかけている心の支えだった。度々していた手足の痙攣もこの時だけは治まっていた気がする。
*
入院してから2年、症状は進行し転ぶ頻度が増え、頭痛や疲れやすさなどが出るようになる。ある日、目が覚めて胸の上に乗っていた左腕をどかそうとしても、動かないことがあった。違和感を覚えたがまだ寝ぼけているだけだと思い、右手で左腕を持ち上げたら、その重みに耐えきれず左腕がストンッと物みたいに落ちてきた。左腕を動かそうと強く意識したらすぐに感覚は戻ったが、それまでは、別の誰かの腕が自分の身体にくっついているような恐怖に襲われた。それから、身体の一部の感覚が一瞬無くなることがたまに起こるようになった。今まで無意識にしていた身体の動きも意識して行わなければいけない、そんな生活が亜門の日常になってしまう。
両親も治療方法を見つけようと奮闘していたが、探せば探すほど治療方法など無いことが目に見えてくる。そんな折ー両親との間に二人目の子供、つまり亜門の弟が生まれた。亜門にとっての不幸か、両親にとっての幸いか、その子供は至って健康に育っていった。両親が生まれたばかりの弟を連れてきて見せてもらったが、それ以来弟の顔は見ていない。なぜなら、両親が自宅で弟の育児を始めたからだ。その育児で忙しいのか、両親も亜門のお見舞いに来る頻度が減った。始めは、お見舞いの代わりに両親から病院に電話がかかってきて、話をすることもあったが半年ほどでそれも途絶えた。ついに亜門が十三歳を迎える頃には、両親が亜門に会いに来ることは無くなった。
齢十三にして、亜門は両親から見捨てられる絶望を知った。
それから人と話すのは、朝と昼の回診の時だけ。それ以外は誰とも口を利かなくなった。話す相手がいないのだから、誰とも“話せない”のが正しいのだろう。たまに声をかけてくれる看護師にも答えるのは、うん…か、はい…のみ、人生で心を開ける相手がいなくなってしまった子供の心境は筆舌に尽くしがたい。
今、亜門が自死を選ばずに生きているのは、希望の薄い治療法を親身になって探してくれている医師への申し訳なさと、もし本当に治ったのなら世界に広がる国々を見て回りたいという儚い夢のおかげだ。人が今死なないのは、「死にたくない」というエゴと自分が死んだら悲しむ人がいると分かっているからだと、どこかで聞いた気がしたのを思い出した亜門はその言葉を自らに問いかける。
「今、死んでも悲しんでくれる人はいない。でも死にたくはない、だけど生きていて楽しいことなんて一つもない。本で“見た”世界もどうせ見れやしない。それなら…、、…いや、ダメだダメだダメだ、まだ僕は何も見ていないじゃないか。知らないまま終わるなんて嫌だ…」
皮肉なことに亜門には有り余るほどの時間があった。亜門は、自由な時間を全て読書に費やすことにした。心のどこかで、世界を見て回るという叶うはずのない幻想を夢見て…
「・・・・・・・」
三年後、亜門は十六歳になった。今まで一瞬だけだった手足の運動機能の喪失も少しずつ長期化し、ついには腰から下が全く動かせなくなった。移動は常に車いすになり、用を足すだけでも一苦労だ。両腕も頻繁に痺れるようになってきたが、まだ本のページはめくれる。不思議と思考は未だにはっきりして言葉も話せるので、立ち上がる気力もない時は、ある看護師に頼んで図書館から本を借りてきてもらっている。その人は、亜門が入院して間もないころに厚意で本を持ってきてくれた優しい女性だ。嫌な顔一つせずいつも笑顔で本を借りてきてくれる看護師の女性を思春期の亜門は気になっていた。しかし、患者の身で、ましてやあと数年で死ぬ年の離れた自分に振り向いてもらえるはずがないと、すぐに諦めた。
この三年間で手足に起きていた痺れは、鋭い痛みに変わった。動かなくなった足でも神経は繋がっているのか、酷い激痛が足から全身に駆け巡る。夜はその度に眠りから叩き起こされ、滝のような汗をかいた。思考と神経がクリアに繋がっているせいで、痛みが脳に直接伝わって涙が出る。動かなくなる箇所が増えていくにつれて、激しさも増していく痛み。医師から処方された鎮痛薬を飲んでやっと熟睡できる。辛い痛みと投薬の日々、日に日に大きくなる外の世界への憧れとは裏腹に、亜門の身体は病魔に侵されていった。
*
更に三年後、十九歳になる頃には四肢全てが動かなくなった。大好きだった読書も、もうできない。
食事もできない。寝返りも打てない。自分じゃ何もできないのに、痛みは毎日やってくる。移り変わるガラス越しの景色を眺めるだけの一日。身体の自由を奪われて、生きる喜びを奪われて、正しく夢も希望もありはしない。治療法が見つかったところで、もう今更手遅れだ。
ただ座して死を待つだけの亜門は、無力に生きる絶望を知った。
そしてーー亜門が二十歳の誕生日を迎える数分前、最期の時が迫っていた。症状が急変し、病室に警報音が鳴り響く。すぐに医師たちが駆け付けて、救急処置を取り始めた。全身は小刻みに痙攣し、横隔膜が止まり呼吸ができない。苦痛だけが今、亜門に生きていると教えてくれている。みんな何か言っているが、痛みで何も聞こえない。翳んでゆく視界の中で、亜門の思考は今際の際でもはっきりと冴えわたっていた。だが頭の中にあるのは、失意に染まった未練だけ…。亜門は自分を見捨てた両親を憎んだ。希望を与えなかった世界を憎んだ。この世に生まれながら、何も成せぬまま死んでゆく己を憎んだ。無力な己を恨んだ。
涙で瞳を満たしながら、天を仰ぎ、十歳のまま時が止まった少年の人生が終わった。
23:58:31死亡
暗闇なのか何処なのか分からない場所へゆっくりと沈みゆく中で、別の誰かの声が俺に語り掛けてきた。
「…その願い、しかと受け止めた!」
「誰だ…?」
「世界を覆いつくさんとするその絶望…このパハドが引き受けた!」
誰もいないはずの虚構に穴が開き、奥から真紅の鱗に包まれた巨大な手が俺の体目掛けて突っ込んできた。身動きが取れないのだから、当然避けられるはずもなく俺の身体はすっぽりと手の中に納まってしまう。訳の分からないままの俺を掴んだその手は、俺の魂(?)を身体から引き離すと一気に虚構の穴へと引き上げてゆく。置き去りになる身体を見下ろしながら、俺…もとい俺の魂は、穴の奥から輝きだした眩い光に包まれて眠りについた。
23:59:31転生




