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第一章:忘れ去られた声


「黄金の希望エスペランサ・ドラーダ」の赤黒い空の下では、美こそが最も 잔酷な裏切りの形となる。

奈落の底には、看守も囚人も存在しない。そこにあるのは、ただ堕落という名の巨大な見世物小屋サーカスだけだ。

サイラスはスラムの暴力を理解しているつもりだった。しかし、真の闇には決まった形などない。それは肉と恐怖、そして強制された笑い声の融合体アマルガムだった。生き物のように増殖を続ける迷宮構造の中に囚われた彼は、耐え難い真実に直面することになる。

この腐敗した世界では、他者の首を土足で踏みつけるためだけに、我々は自らの汚泥の中に沈んでいくのだ。

ここでは、叫び声は背徳と調和し、正気は切り捨てるべき重荷でしかない。

お前は自分の顔を保ち続けることができるか? それとも、展示品の一部へと成り下がるのか?

遠く、永久とわに穢れた地平線の先に、「黄金の希望エスペランサ・ドラダ」の街が姿を現す。その空は不自然な赤黒さに染まり、煤と酸化した化学物質の天蓋が、昼と夜の区別を完全に剥奪している。それは永遠に続く、病んだ黄昏だ。

かつての名残を留める変異した動植物の奇怪な輝きは、人類がいかに自らの子らの骨をかじるまで貪り尽くしたかという、絶え間ない警告である。その虚飾の距離から見れば、周囲の難破船の墓場を辛うじて切り抜けてきた疲弊した魂にとって、この景色は束の間の慰めに見えるだろう。しかし、その腐敗した美しさの底で、美そのものが裏切りであり、あらゆる希望は終焉を迎えねばならない。

十分に近づき、旅の悪臭を生き延びた時、根源的な本能が叫ぶはずだ。いっそ無慈悲な毒の海に飲み込まれていればよかった、と。

街へ入るには、海へと這い出すコンクリートの巨人を越えねばならない。それは腐食性の塩と厚い錆によって、髄まで食い荒らされた埠頭だ。機会を失い、虚ろになった眼差しは、唯一の場所へと向けられる。そこは、袋の重みが十分であり、魂が後悔を抱かぬ限り、人間の渇望を満たす悦楽と欲望の幻想を供する場所である。

スラム街は、まさに剥き出しの潰瘍である。街の他と同じく、そこは死魚の腐臭、発酵した尿、そして染みついた汗の悪臭に溺れている。その臭気は永続的な層となり、衣類のみならず記憶にまでこびりつく。通りは彷徨える亡者、ゴミの中を這いずる亡霊たちで溢れかえっている。ヘルナンデス一族が冷笑的に支配するこの区画は、一族内の「カマリジャ(分派)」によって分割、統治されていた。彼らは血に飢えているというよりは、底なしの退屈に蝕まれた武装集団であり、喉を切り裂く湿った呻きを聞き、一瞬でも虚無以外の何かを感じられるなら、躊躇なく刃を振るうだろう。

圧倒的な人口過密により、スラムは上方へ、そして下方へと増殖していった。それは迷宮のごとき構造体であり、積み重なった無数の階層には、惨めで絶望的な魂がひしめいている。しかし、この群衆には生存の理由を、そして何よりも「畏怖」の理由を与えねばならなかった。中央の縦穴は、亀裂の入ったコンクリート、錆びついた鋼鉄、そして凝縮された人間の屑が織りなす断崖絶壁である。崩落したフロアには見捨てられた死体が横たわり、埋葬されることもなく空気と道徳を腐らせ続けているが、それを気にかける者は誰もいない。真の欲求はさらに下、表面的な救いしか提供せぬ露天商たちの遥か階下にある。そこには、悦楽と過剰に満ちた何百ものサロンがひしめいている。

しかし、サイラスの物語はそこですら始まらない。さらに深く、自然の光が決して足を踏み入れぬ深淵。太陽を審判のごとく恐れる場所。この内臓の奥底に隠された地下迷宮こそが、単なる倒錯を超えたあらゆる欲望への答えであった。

「助けて、やめて。もう、助けて……」

換気ダクトからは、嘆きの声が不協和音となって漏れ出し、周囲の背徳感と調和する。それは、くぐもった悲鳴と、不気味な恍惚の喘ぎが奏でる交響曲だ。各派閥の紋章を付けた衛兵が立ち、安っぽい布の仮面で顔を隠した客たちが往来する。彼らは、リビドーのみならず、実存的な退屈や、やがて自らを死に至らしめる好奇心を満たそうとしながら、尊厳を保とうとする無益な足掻きを見せていた。

「実に見事な繁盛ぶりだ。お前の祖父はこの組織構造の細部に至るまで、心血を注いでいた。ソロモンは決して運任せにはしなかったからな」

矍鑠かくしゃくとして歩く老人、エリアスが口を開いた。二人は勇敢な船乗りを思わせる風貌だったが、エリアスの制服が非の打ち所のない礼装の模倣であるのに対し、サイラスのそれは、場違いな矜持を鎧に見せかけようとしたリベットの継ぎはぎであった。

「各派閥の首領たちがこれに反対していたとは、今でも信じがたい。偉大なるソロモンに背いたことを今頃悔いているだろう……。あの老いぼれに、計画を維持することもできぬアル中の出来損ない以外の息子がいれば、話は別だったろうがな」

エリアスは流暢に語り、ソロモンの狡猾な記憶が蘇るたびに表情を変えた。ソロモンの息子は子作りにしか能のない無用な中毒者であったが、その子供たちの中には際立った者もいた。ソロモンに最も似た、執念深いお気に入りの孫、サイラスのように。彼をソロモンの息子と見紛う者もいたが、ソロモンの現状を鑑みれば、皆の関心は孫たちに向いていた。

ヘルナンデス一族の次なる首領は、果たして誰になるのか。

「止まれ」

腐り果てた黒い歯と, 絶え間ない不信感に刻まれた敵意に満ちた顔の男が言った。色褪せたカーテンの影から、同様の刺突武器を手にした数人の影が現れる。

「用件を言え……」

前触れもなく、老人は無造作に彫り込まれた複雑な紋章の印章を鈍器として使い、男の歯を叩き潰した。もろくなった歯が容易くこぼれ落ちる。

「ソロモンの使いだ。それに、その角のある魚のような口を治してやったんだ、感謝しろ。ヤブ医者に行く手間が省けたろう」

男は血と歯の破片を吐き出しながら、ヘルナンデス一族の象徴が刻まれた印章にこびりつく己の残骸を凝視した。仲間たちが自分を捨てて逃げ去ったのを見て、男は血を流しながら道を開けるしかなかった。

「今の世代は、より醜く、より役立たずになったものだ……」エリアスは腐敗を嘆くように嘲笑った。

二人は階段を降り続け、若者がその後を追った。降りるにつれ、僅かな灯火は眼前に広がる深淵に対して無力な抵抗を続けていた。サイラスの青い瞳は、狂人の妄想の中に語られる空のように、虚しく澄み渡り、剥き出しだった。

「あいつは血も繋がっていない、叔父ですらない……。肩書きだけで這いずり回るゴキブリだ。ソロモンはなぜあんな奴を野放しにする」

サイラスの憎しみは、胃の奥で冷たく固まった結節のようだった。長い間、単純な任務すらこなせなかった端役が、自分に問題を起こすほどの影響力を持っているという事実に、彼は嫌悪感で奥歯を噛み締めた。

「そんな下らぬことで黙り込むか!」

エリアスは驚きつつも、不機嫌そうに声を上げた。サイラスは屈辱の苦い味と、唯一重要視している人物を失望させたという刺すような感覚に没頭し、外の世界を遮断していた。あの奇妙な赤毛の女を捕らえる計画を台無しにしたことは分かっている。彼女は普通の意味で素早いわけでも賢いわけでもなかったが、まるで運命に守られているかのように、超自然的なまでに神出鬼没だった。そのせいで、叔父は一年以上も彼女を執拗に追い回していたのだ。下水市場の入り口を封鎖した際、一瞬だけ彼女を手にかけようとしたが、暗闇の中で露わになったあの赤毛のせいで、叔父のみならず一族の長老たちまでもが執着するその女を見失ってしまった。

「サイラス! 聞いているのか? このフジツボ野郎……。失敗を馳走のように反芻するのはやめろ!」

エリアスの乾いた声は、己の弱さの残響と同じくらい、サイラスの耳に障った。

「下水市場では俺の群れ(バンド)は上手くやっていた。あの女はただの……戦術的なミスだ」

エリアスは呆れて額に手を当てた。

若造ブカニエよ、物事は見たままではない。祖父はお前たち孫が真っ当に成長し、利益を上げることを望んでいた。だがお前は、忠誠心も何もないならず者どもに監視を任せただけだ。どいつもこいつも欠陥品で、カマリジャの構成員と呼ぶには程遠い。必要なのは筋肉ではない、『含み(サブテキスト)』だ」

エリアスは口角を歪めながら諭した。彼は常に正論の代弁者であり、サイラスを導こうとする父性的な鞭でもあった。

「大人になったんだ、好きに振る舞わせろ。淡水(真水)の船乗りみたいに保護される必要はない」

サイラスは、誰の目にも明らかなほど虚勢に満ちた、脆く空虚なプライドで胸を張った。

「もっと己を制御することを学べ。怒りやテストステロン、虚栄心に突き動かされるだけでは意味がない。己の全て、特に『冷徹な頭脳』を使うことを考えろ」

エリアスは、実の息子のように思っている若者に語りかけた。

「勘違いするな、甘やかしているわけではない。ただ、私の仕事を台無しにするなと言っているのだ」

老人の眼差しと仕草には、重苦しい空気を切り裂くような強い決意と警告が込められていた。

「好きにしろ、クソ海亀。俺の隣でくたばるなよ」

サイラスは拒絶するように吐き捨てた。エリアスはその態度に激昂した。

「それだ、その不遜さが命取りになると言っている! 甲板掃除の孤児の分際で、艦長キャプテンのように振る舞うな!」

老人は唸った。「孤児」という言葉は、常にサイラスのプライドの最も脆い部分を刺し貫く楔だった。十五歳にもなって、一族の縄張りの中で守役を付けられていることに彼は苛立っていた。彼は反射的に、老人の首に巻かれたスカーフを強く引き絞り、黙らせようとした。それは純粋で、幼稚で、絶望的な怒りの発露だった。

「この……ドブネズミめ……驚かせやがって……」

老人は苦しげに喘ぎながらも、その顔には奇妙な誇らしげな、暗い微笑を浮かべていた。それがサイラスをさらに不快にさせた。老人の顔色は変わり始めていたが、後悔の念は見られない。ただ、数年前に失い、偽物を付けている繊細な鼻だけが、彼の硬い仮面の中の唯一の弱点として滑稽に浮き彫りになっていた。

「誰がついて来いと言った? 俺の影か、乳母のつもりか? 脆い年寄りなら、どこへでも一人で行ける」

サイラスは相棒を軽蔑の目で見下ろしながら嘲笑った。

「お前は兄弟の中で一番の愚か者で、あの馬鹿な父親に似すぎているからだ。だから祖父はお前をこの場所に送り込んだ。奴は全てお見通しなのだ」

エリアスは周囲を警戒しながら歩き出した。その階段で動いているのは、彼ら二人だけだった。

「私の役目は、お前のケツが安全かどうか見届けることだ。私はここを自分の手の甲のように知り尽くしている。馬鹿な質問はするな」

老人は未熟だが大胆な若者を指さし、一言一言を怒鳴り散らした。

「無礼なナマコ野郎だ、役立たずめ」

サイラスは、立ちふさがる老人に対して毒づいた。

「口を閉じろ。お前はこの魚群カードゥメンの中で誰よりも間抜けだ」

老人はサイラスを掴み、毅然と言い返した。二人は今にも殴り合いを始めそうだった。その騒々しく攻撃的な争いは、本質的には苦い儀式であり、彼らが名付けることのできない機能不全な愛情と深い挫折感を表現する唯一の手段だった。

「老いぼれた海狼め、誰を間抜けと呼んでいる? 俺は一人で四人の敵を倒したんだ。あんたは立っていることすらままならないくせに!」

サイラスは怒鳴り、老人の胸を叩いたが、老人は一歩も退かなかった。

「お前の年の頃、私は十人の船乗りを難なく仕留めた。飢えた四人のゴロツキに手こずるお前とは違う」

老人は若者に顔を近づけ、声を張り上げた。

「そんな安っぽい嘘に騙されるか! 俺のじいさんがあんたを母親の懐から引きずり出し、喧嘩のたびに救ってやったんだ。あんたは戦う勇気もない男だったからな」

サイラスが突き飛ばすと、老人は蹴りを繰り出し、呪詛を吐く若者を屈ませた。老人は尻餅をつく寸前、的確な一撃をサイラスに見舞おうと足を跳ね上げた。

「来い、波止場の小ネズミめ! 父親そっくりの馬鹿だが、今度こそお前を叩き直してやる!」

二人が歩みを進めると、階段は部屋の入り口へと開けた。そこは完全な暗闇で、獲物を見るのに目を必要としない獣の冷たく湿った吐息のような、奇妙な感覚が深淵から漂っていた。それは「虚無」だった。

「……いいだろう。なあ、タラ面(面構え)のじいさん、ここを知っていると言ったな……」

サイラスは兄弟たちが仕掛けた罠ではないかと周囲を警戒し、低く呟いた。しかし、老人は彼の頭を小突いた。

「お前がソロモンの血を引いているとは信じ難い。怯えたクマノミかお前は。どれだけ見ようとしても、聞こうとしても無駄だ。ただ『感じろ』。目を閉じて歩け」

エリアスは、先ほどまでの威勢とは対照的な若者の態度に不満げに鼻を鳴らした。

「本当、あんたは大嫌いだ。目障りなんだよ」

若者は、闇の中へと消えていく老人の背を追った。影は、戦慄を覚えるほどの容易さで彼を飲み込んだ。少年の視界は不吉な影の帳に引きずり込まれ、幼い頃から知っていたはずの老人の姿は、幻影のように虚空へと霧散した。一歩進むごとに、履き潰したブーツの足音は遠のき、生まれる前に死にゆく残響となった。静寂とは音の欠如ではなく、深い泥のように重く、肩にのしかかり、一瞬の永遠の中で彼を蝕む実体のある「重圧」だった。

次に訪れたのは寒気だった。だがそれは肌で感じる類のものではない。内側から湧き上がる、凍てついた水の中で溺れる者が抱くような、純化された恐怖とパニック。感覚の欠如が彼から広がり、彼そのものへと変質していった。己の肉体が輪郭を失い、四肢はもはや命令に従わぬ霧の柱のように感じられた。手は、触れることのできぬ影と化した。

そして最も恐ろしいことに、思考と感情までもが溶け出し始めた。エリアスへの怒り、兄弟たちの裏切りへの恐怖、彼を焼き尽くしていたいつもの怨恨。全てがスポンジから絞り出される汚水のように流れ出し、空虚な繊維だけが残された。精神は空っぽになったのではない。それは、ぼやけた空白のキャンバスとなったのだ。怒りは恐ろしい「平穏」へ、無気力な受容へと変わった。恐怖は奇妙で冷ややかな「慰め」へと変貌した。恐れるものが何もないのなら、失うものも何もないのだから。

霧散していく意識を、最後の一つの思考が貫いた。

「この、老いぼれ海狼……! どこにいやがる!」

若者は叫んだが、己に声がないこと、存在を証明する術がないことに気づいた。それは音のない声、心なき思考だった。

「クソジジイ……ナマコ頭のろくでなしめ……聞こえるか……。先に行けよ……。眠いんだ。と戦い続ける理由なんて、どこにもない……」

サイラスは、かつて肉体だった不定形の何かが、ついに闇に溶けていくのを感じた。暗闇の中で、彼はもはや「何者」でもなくなった。

虚無の静寂は、暴力的な衝撃によって打ち砕かれた。背中を押す無慈悲な力が、彼を前方へと突き飛ばした。意識の残骸は引きずられ、遠方に一つの光点が形を成した。その光は巨大に膨れ上がり、彼を飲み込んだ。衝突は、回避不能だった。

「シャキッとしろ、淡水の若造が!」

エリアスが、サイラスに対して憤慨したように怒鳴った。

「なあジジイ、言っただろ」

巨漢の男、ルーファスが、馬鹿げたほど大きな笑みを浮かべて言った。

「黙れ、この間抜け。こいつは入り口の儀式を生き延びたばかりなんだ」

エリアスは、若者が番兵たちの前で恥をさらしていることに苛立ちながら答えた。朦朧としたサイラスは、先ほどの異常な体験のせいで、目の前の番兵たちの姿を辛うじて捉えることしかできなかった。感覚と痛みが圧倒的な暴力となって戻り、彼は胃に残っていた僅かな胆汁を吐き出した。

「ほら見ろ! 全部吐き出すって言ったろう!」

大男が爆笑した。番兵たちは彼と同じく、インコと波の紋章が粗末に刺繍されたぼろ布を纏っていた。男の笑いは、別の番兵の拳によって遮られた。

「何も当たってねえぞ! ルーファス、この嘘つきめ。吐くと言ったのはガスパールだ。お前は、このガキが吐いてクソを漏らすと言ったんだ!」

男が叫び返したが、裏拳一発で部屋の反対側まで吹き飛ばされた。部屋はひどい有り様だったが、何年も湿気にさらされた壁紙が辛うじて貼られていた。

「俺を嘘つきと呼ぶんじゃねえ! 誰であってもだ!」

ルーファスは制御の利かない獣のように咆哮した。

「……だが、お前の言う通りだ。俺の勘違いだったかな」

彼は、先ほどまでの凶暴な態度をあっさりと捨てて付け加えた。

サイラスは周囲を見渡し、数歩先に階段があることに気づいて混乱した。その近さが、先ほどの体験を疑わせた。あれは現実だったのか、それとも精神が崩壊しただけなのか。

「あれが何だったのか、気になっているな?」

エリアスは、悪意というよりは無関心に近いぶっきらぼうさで、サイラスを立たせようとした。

「あれは『入会儀式』のようなものだ。通るたびに慣れていく。この階層の特異性の一つ、心理的なフィルターだ。だが、ここを越える時にこれを通らねばならんのは、我々だけだ」

エリアスは真剣な口調で言った。

「……じゃあ、降りるたびにあれを経験しなきゃならないのか? 数メートル降りるためだけに、心も、自分自身も、怒りさえも失えってのか?」

サイラスは口元を拭いながら、必死に状況を飲み込もうとした。麻痺した感覚に代わって、ソロモンへの恐怖よりも深い、根源的な恐怖が這い上がってきた。

「分からんのか、スポンジ頭め」

老人は苛立って答えた。

「それが唯一の『安全な道』だ! 他の道は、終わりのない幻覚を見せる。狂気は戻るが、平穏は戻らない。家畜どもが通る道だ。そんなものは精神を腐らせるだけだ」

彼は不満げに鼻を鳴らし、暗い廊下へと続く半開きのドアを指さした。中で何かが動いていた。

「次、歩け、何も考えるなと言ったら、ただ従え。いいか? 虚無にお前を浄化させ、単なる道具として使わせるんだ」

エリアスはまだサイラスに腹を立てていたが、若者はふらつく頭を必死に持ち上げ、軽蔑を込めて彼を睨み返した。

「……あんたはそんなこと言わなかった。何も言わずに、俺を虚無の中に置き去りにした。クソジジイ」

若者が言うと、老人の表情に一瞬、罪悪感の閃光が走った。

「……どのみち、大したことじゃない……お前なら分かるだろう!」

老人はリラックスした態度を装って責任を逃れようとしたが、サイラスはそれを無視した。彼の頭の中に、疑念の声が響き始めた。

「誰だ? 新入りか?」遠くで誰かが尋ねた。

「すぐに死ぬだろうな、先が見えない。黙れ、準備しなきゃならん」別の声が言った。それは事務的で、まるでお荷物を扱うような響きだった。

「……愛らしい……まるで子羊。上から来たのに、なんて甘美なの。心が壊れているわ」

その声は甘く調和が取れていたが、狂った腐敗を纏っていた。まるで内側から美しさが食い荒らされているような響き。それは彼の魂に直接囁きかけてきた。

「……紐が切れる……子供は忘れる……」

何かが鳴った。異様で、それでいて止まらない音。空間の布地を引き裂くような、現実を解体していく音。

「誰が喋っているんだ?」

サイラスは、これも何かの試験なのだと考えようとした。

「何を言っている、小僧。落ち着け、誰もいやしない。聞くのをやめろ」

エリアスは、サイラスの様子を不審に思い尋ねた。

「分かってるだろ、俺たちのことを話している奴らだ。聞こえないのか?」

サイラスは周囲を見渡したが、他の者たちは全く動じず、その声に対して耳を貸していないようだった。彼らは現実に盲目だった。

「まさか、メカジキ野郎みたいに頭がイかれたわけじゃあるまいな。あれくらいの経験で」

エリアスは若者の態度に居心地が悪そうにした。

「……扉が……開いている……私たちを見ている……」

音の中から、多くの声が重なり合って現れた。

「扉?」

若者は困惑して繰り返し、来た方を見たが、部屋の反対側には何も変わった様子はなかった。

「考えすぎだ、坊主。何もありゃせん。まだ感覚が狂っているんだろう」

老人は手で合図を送りながら、場を和らげようとした。だが、それは嘘だった。その嘘は、彼の顎の緊張に露呈していた。

「……何だと!? これも試験じゃないのか、クソジジイ! わざと俺を狂わせようとしてるんだろ!」

サイラスは、何かを探すように視線を走らせながら老人に怒鳴った。

「狂ってるのはあんたの頭だ、俺には聞こえてるんだよ……」

サイラスが神経質にエリアスを指さしたその時、老人の表情がいら立ちから、暗く抑え込まれた「恐怖」へと変わった。エリアスは、少年が何を見ているのか、最初から知っていたのだ。

「そこにあるはずだ……」

その時、彼は「それ」を見た。そこには、以前は存在しなかったはずの扉があった。凝固した血と引き伸ばされた皮膚のような、不気味な赤色に細工された扉。

「満足か? もう少し待つつもりだったが、連中は急ぎたいようだな……気が短いことだ」

老人は力なく呟いた。その扉の先から、深淵がこちらを観察していた。そこには、何かを見つめる「形」があった。その姿も理解も、完全には捉えられない。定まった形はなく、肉と皮と骨が、不可能なサイクルで結合と分離を繰り返す融合体。顔は絶望と恍惚の渦であり、その上にはさらに三つの顔の輪郭が同時に浮かんでいた。それは決して見てはいけないものだったが、その怪物は、二人に自分を見られていることを喜んでいるようだった。

「……何だ、あれは? あいつ……俺の中を覗いてる。全部、知られてる」

サイラスは怯え、扉を指さしながら尋ねた。

「ちっ、驚かせようと思ったんだがな。どこの馬鹿が扉を開けっ放しにしやがった。……紹介しよう。彼らがこのサーカスの『興行主』だ。観客の熱気を集め、演目を盛り上げるのが仕事だ。お前たちがここに金を払って居座る理由は、彼らなんだよ」

エリアスは少し苛立ちつつも、少年の反応に満足していた。この場にいる他の者たちを含め、大抵の人間は、この恐怖の権化が休息をとる姿を目にすれば、泣き叫ぶか発狂するからだ。

「……一人じゃないのか? 境目はどこだ? 説明しろ、何を見せている! さもないと逃げ出すぞ!」

少年はエリアスに問い詰めた。顔が一つあっても、それは融合体に過ぎないということが理解できなかった。

「いいか坊主。英雄が迷宮の怪物を倒したというお伽話がある。だが、あれは全部嘘だ。英雄なんて最初からいなかった。いたのは、この世界を埋め尽くす迷宮の中の、数え切れないほどの怪物だけだ。勝つための唯一の方法は、『遊ばないこと』だ」

エリアスは静かに語り、サイラスの目を穏やかに見つめた。その言葉は宣告であり、あらゆる純真の終焉であり、悪夢の肯定だった。

背後でルーファスが素早く動き、若者のうなじを強く叩いた。衝撃の痛みよりも、裏切りの衝撃の方が大きかった。世界が粉々に砕け散り、サイラスが最後に見たのは、エリアスの恐ろしく、それでいて奇妙に悲しげな微笑みだった。

そのまま、彼は意識を失った。


排泄物と血が混じり合った腐った泥が泡を立てる。その憎悪の中から、人間を自称する生ける屍の肉片どもに溺れさせられぬための力が生まれていた。

街路は生命の熱に焼かれている。それは生命の黎明期から見られたような、瀕死で揮発的な命の輝きだ。スラムの拒絶者たちは、民衆が民衆を包囲するこの地を維持するために、休みなき犠牲を求め続けている。

各区画には監視役が必要だが、衝突は避けられない。富裕層の一族が、下層からの圧力を操るために自らの血統を歪ませて送り込んでいるからだ。そうして生まれたのがヘルナンデス一族だった。他者の不幸の上に耽溺するだけの暴力的でサディスティックな野蛮人ども。……あるいは、大多数はそう考えていた。

だが、ソロモン・ヘルナンデスの代から、一族の派閥は変貌を遂げた。彼らは連携し、資源を共有している。飢えた犬の群れが、いつしか統率された「猟犬の群れ」へと変わる恐怖こそが、一族を繋ぎ止める理由だった。

しかし、あの老いた疫病神に代わる適任者は、果たして誰なのだろうか?

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