森の中に転移したクズ
誠二が異変に気付いたのは、煙草に火を点けようとしてライターを探った瞬間だった。いつものように店の事務所で一服しようとズボンのポケットへ手を入れたはずが、指先に触れたのは安物の使い捨てライターではなく、冷たく湿った土だったのである。
反射的に目を開いた誠二は、そのまま数秒間、何も言えずに固まった。頭上には深い緑色の針葉樹が幾重にも重なり、その隙間から高い青空が覗いている。頬を撫でる空気はひどく冷たく、鼻の奥には腐葉土と針葉樹特有の青臭い匂いが入り込んでいた。夢にしては寒さも湿り気もあまりに生々しい。誠二はゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。
森だった。見渡す限り、どこまでも針葉樹が続いている。人の手が入った痕跡はなく、遊歩道どころか獣道すら見当たらない。木々の間隔は不規則で、地面は厚い苔と落ち葉に覆われていた。観光地として整備された山林ではないことだけはすぐに分かる。最後の記憶を辿ろうとした誠二は、昨夜の出来事を思い出した。勤務していた店の営業終了後、売上を誤魔化していた新人を事務所へ呼び出し、話をしていたところまでは覚えている。警察に突き出すつもりはなかった。適当に脅して借りを作らせるか、金を吐かせるか、その程度のつもりだった。しかし、それ以降の記憶が綺麗に抜け落ちている。
酒は飲んでいなかったし、薬物にも手を出していない。そもそも四十を過ぎてからは、翌日に響くような飲み方もしなくなっていた。事故や拉致を疑ったものの、財布もスマートフォンも手元にある時点でその可能性は低い。試しにスマートフォンを取り出してみると、予想通り圏外だった。再起動し、設定を確認し、それでも駄目なら諦める。長年生きていれば、機械というものは叩いたところで直らないと知っているからだ。電池残量は七十二パーセント。誠二は即座に電源を落とした。遭難した場合、最も重要なのは通信手段と光源の確保だ。圏外とはいえ、時計やライトとして使える以上、無駄に消費する理由はない。
ひとまず高い場所へ向かうべきだと判断し歩き始めた。遭難時にはむやみに移動するなという話も知っていたが、それは捜索隊が来ることを前提としている。こんな場所に自分がいることを知る人間は誰もいない。待っていても死ぬだけだろう。
一時間ほど歩いたが、景色は何一つ変わらなかった。二時間歩いても同じだった。針葉樹、苔、落ち葉。時折、小さな鳥の鳴き声が聞こえるだけで、人の気配はまるでない。地形も妙だった。山なら尾根や谷があるはずだが、この森は異様なほど均一で、どこまで進んでも同じ風景が続いている。嫌な予感が胸の奥に湧き上がったが、意識的に考えないようにした。考えて答えが出る問題ではないからだ。
問題は水だった。人間は数日食べなくても死なないが、水がなければ終わる。空腹はまだ我慢できる。しかし喉は既に乾き始めていた。歩きながら水源を探していると、不意に木々の間を大きな影が横切った。鹿だった。そう思ったのは一瞬だけで、すぐに違和感に気付く。体格は大型のエゾシカほどあるが、脚が六本生えていた。しかも額からは三本の角が伸びている。誠二は目を擦った。見間違いではない。六本脚の獣は周囲を警戒する様子もなく、森の奥へ消えていった。
「疲れてるな、俺」と呟いた直後、森の奥から獣の唸り声が響いた。続いて現れたのは、全長五メートルはあろうかという巨大な羽毛に覆われた肉食獣だった。鋭い鉤爪で六本脚の鹿を押し倒し、その喉笛を一瞬で食い千切る。
誠二は無言で地面へ伏せた。心臓は嫌になるほど激しく脈打っていたが、不思議と悲鳴を上げようとは思わなかった。叫んだところで助からないからだ。むしろ余計な音を立てないことの方が重要だった。肉食獣は数分にわたって獲物を食い荒らした後、巨大な死体を咥えて森の奥へ消えていく。周囲から気配が消えたことを確認してから、誠二はようやく立ち上がった。手が震えている。煙草を吸いたいと思ったが、火を使うのは危険だと判断してやめた。代わりに深く息を吐く。少なくとも日本ではない。そう結論付けるには十分すぎる光景だった。
日が傾き始めた頃、ようやく小川を見つけた時には、誠二は心底安堵した。川幅は一メートルほどしかないが、水は澄んでいる。問題は飲めるかどうかだった。知識としては煮沸した方がいいと知っている。しかし、今の誠二には火も容器もない。しばらく悩んだ末、両手ですくった水の匂いを嗅ぎ、少量だけ口に含んだ。鉄臭さも薬品臭さもない。三十分ほど様子を見て異常がないことを確認し、ようやく喉が満たされるまで飲み続けた。冷たい水が胃へ落ちていく感覚に、生き延びられるかもしれないという希望が少しだけ湧いてくる。
しかし希望は長く続かなかった。日が沈み始めると急激に気温が下がり始めたのである。日本で言えば北海道の秋口に近いだろうか。パーカー一枚では明らかに寒い。しかも寝床がない。夜の森で眠れば、先ほどの肉食獣の夕食になる可能性が高かった。誠二は倒木の陰を見つけると、周囲の枝や落ち葉をかき集め、風除け代わりに積み上げ始めた。キャンプ経験は数回しかないが、それでも何もしないよりはましだろう。黙々と作業を続けながら、誠二は自嘲気味に笑った。四十を過ぎて神隠しだか異世界遭難。漫画なら笑える設定だが、当事者になると全く笑えない。
夜空には、見覚えのない星々が瞬いていた。少なくとも誠二の知る星座は一つも見つからない。北極星らしきものも分からない。そこでようやく、誠二は自分が本当に元の世界から離れてしまった可能性を考え始めた。常識的に考えれば馬鹿げた話だ。しかし六本脚の鹿と羽毛に覆われた巨大な肉食獣を見た後では、否定する材料も存在しない。帰れるのか。家族はいないが、住んでいた部屋も、貯金も、集めた漫画も、全て失ったのか。そんな考えが頭を過ったものの、誠二はすぐに振り払った。今考えるべきことではない。明日の朝を迎えることが先だ。
冷たい地面へ背を預けながら、誠二はぼんやりと空を見上げた。もし本当に異世界だとしても、死ぬつもりはなかった。善人ではないし、胸を張れる人生を送ってきたわけでもない。それでも、ここまで生き延びてきたのだ。見知らぬ世界だからといって簡単に諦める気はない。どんな場所であろうと、人間が生きているなら商売がある。商売があるなら金になる。金になるなら食っていける。そんな半ば現実逃避にも似た結論を胸に、誠二は浅い眠りへ落ちていった。翌朝、自分が常識を超えた力を手にしていることなど、この時の彼はまだ知る由もなかった。




