第9章 平凡な日々は、君たちとともに輝く
「……」
「おい、エミール」
「あ……はい、先生!どうかしましたか?」
「どうかしましたか、ではありません。私がこの教室に入ってから今まで、あなたはずっと上の空でしたよね?しかも寝ぼけたような間抜け面まで晒して」
まずい……
昨夜、帰り道で起きた出来事が、ずっと頭の中をぐるぐる回っている。
その結果、当然のように、俺は昨夜眠れなかった。
今日の俺は、深刻な睡眠不足というバッドステータスに加えて、昨夜の唇に残った柔らかな感触まで、何度も思い出してしまっている……
うっ……
指導者さんが久しぶりに怒ったせいで、クラス中が静まり返った。
みんなは自分の席から横目でこっそり俺のほうを見ながら、面白いものでも見るような顔をしていた。
「すみません。昨夜ちょっと色々あって、それで……」
「はぁ……今すぐ保健室に行って寝てきなさい」
「え?」
「「「「「「え?」」」」」」
俺だけでなく、クラスメイトたちまで、指導者さんが俺にチョークを飛ばさなかったことに驚いているようだった。
「え、ではありません。次の授業は数学です。ストーン先生に怒られたいなら、私は止めません。あの人は授業中に集中しない生徒が大嫌いなことで有名ですからね。毎日のように職員室でその手のくだらない愚痴をこぼしていて、聞かされるこちらの耳が腐りそうです」
ストーン先生って、裏では他の先生にそんな愚痴まで言ってるのか……
「早く行きなさい!」
「しょ、承知しました!」
でも、俺は思う……
やっぱり、怒った指導者さんのほうが、ずっと怖い。
——————
「ぁ……」
「こんにちは、エミ」
どうしてリヤまで保健室にいるんだよ!?
「お前までどうして保健室に来てるんだ?具合でも悪いのか?」
昨日のことを思い出すと、俺はつい、いつもより彼女のことが気になってしまう。
「別に、少しだけ……眠れなかっただけよ。それでさっきの授業中にうとうとしていたら、先生にここで休むように言われたの。あなたは?」
「あ、俺は……俺も……」
「「……」」
やっぱり彼女も、昨夜のことを気にしているんだ……
「あなたも疲れているのでしょう?先に……横になって」
「そ、そうさせてもらうよ……って、待て!別に場所を譲らなくていいから!俺は隣のベッドに行くから!」
「え!?そ、そうよね……気づいたらつい……」
何やってるんだよ、リヤ!
いつもの完璧なお前なら、そんな隙なんて見せないだろ!?
さっ——
よし、横になった。
けれど、今の俺から眠気は完全に吹き飛んでいた。
なぜかと言えば、それは全部、隣のベッドで横になっているあの幼馴染――
いや、彼女はこの呼び方を嫌がるんだった。
隣のベッドで、シーツを顔まで被っているリヤのせいだった。
「そんなことして、息苦しくないのか?」
「今の表情をあなたに見られるくらいなら、このほうがずっとましよ。昨日、あの場の空気に流されて勢いだけで突っ走った自分を、思いきり殴ってやりたいわ……」
「そ、そうか……」
なんだか、むず痒い空気が漂っていた。
いつものような、顔を合わせた途端に言い合いになって、そのまま気まずくなる感じとは違う。
今のこの感じは、たぶん……
照れ、なのだろう。
何か話題を探さないと。この静けさは、どうにも落ち着かない……
そうだ!
「リヤ……俺、昨夜聞きそびれたことを急に思い出したんだけどさ。どうしてお前、前から指導者さんのことをあんなに警戒してたんだ?」
「ひゃあ!?私は本当に、子供の頃からずっとあなたのことが好きで……って、え?何の話?あう……」
勝手に勘違いして、勝手に真っ赤になって照れるなよ!
しかも恥ずかしすぎて涙目になってるし……
まさかリヤに、こんな一面があったなんて……
「俺が聞いてるのは、指導者さんのことだよ……その件については、昨日、お前がもう十分すぎるくらい、全部の気持ちを伝えてくれただろ……」
「そ、そう……なのね……こほん。吸って……吐いて……実は、過去でも未来でも、私には指導者さんの姿が見えないの」
ようやく深呼吸をして落ち着きを取り戻したリヤは、不意にそんな言葉を俺へ投げかけてきた。
……?
指導者さんの姿が見えない?
「昨夜言ってたあれ……未来視みたいな能力って、未来の光景が見えるんじゃなかったのか?どうして指導者さんの姿が見えないんだ?」
「私にもわからないわ……彼女は、まるで最初から存在していないみたいなの。だからあの時、ショッピングモールで彼女を見かけた時、私はあなたとキャロリンに警告したのよ。あの人はおかしい、って。今の私が無理にこれから数日先を覗いてみても、やっぱり彼女の姿はどこにも見えないわ」
リヤの能力は、おそらく本物だ。
けれど、指導者さんに関するその一点だけは、俺も引っかかっている。
どうして俺たちの小隊にはあれだけ人がいるのに、よりにもよって指導者さんの姿だけが、リヤの未来視に映らないんだ?
「そうだわ。せっかく数分後の未来も見えたことだし、あなたに教えておくわね。あと五分で、キャロリンとアイリーンがあなたのお見舞いに来るわ。順番としては、キャロリンが扉を開けたあと、アイリーンが彼女より先に走り込んできて、そのままあなたに飛びつくの。最後にキャロリンは苦笑しながら、左手で頬を掻くわ。これで、私の能力が本物かどうか確かめられるでしょう?」
「わかった。じゃあ、あとで確認してみるか……」
「それと、この妙な能力のことは誰にも言わないで。キャロリンたちにもよ。あの子たちに未来のことで余計な気を遣わせたくないの。未来のことは……私一人で悩めばいいわ」
「何言ってんだよ。俺を飾りか何かだと思ってるのか?」
「ふふ、失礼したわ。訂正させて。私たち二人で悩めばいい、でしょう?」
うんうん。
そう言ってくれればいいんだよ。
俺たちは一緒に向き合って、そして命懸けでその未来を覆してみせる。
よし。
あと少しで、リヤの能力が本物かどうかを直接確認できる。
三……
二……
一……!
スマホの時間がちょうど五分進んだ瞬間、保健室の扉が開かれた。
俺もその音に合わせてすぐ顔を上げ、本当にリヤの言った通りになるのかを確かめる。
扉を開けたのは、リンだった。
けれど次の瞬間、その後ろにいたアイリーンがリンより先に保健室へ飛び込んでくる。
「エミールさん、大丈夫ですか?さっきリンリンから、先生に保健室へ行かされたって聞いて、すぐ一緒にお見舞いに来たんです!」
アイリーンはそう言いながら、すぐに俺のベッドへ飛びついてきた。
リンはそんな彼女の慌てた様子を見て、思わず苦笑しながら左手で頬を掻き、それから保健室の扉を閉めてこちらへ歩いてくる。
まさに、リヤがさっき言っていた通りだった。
そのせいで俺は、目の前で起きた不思議な光景に、思わず目を見開いてしまう。
リヤはというと?
彼女は「これでようやく信じたでしょう?」とでも言いたげな顔で、肩をすくめていた。
すごい……
「どうしたの、ダーリン?なんだか妙に驚いてるみたいだけど?」
「ちょっと別のことを考えてただけだよ。でも、まさかお前たちが授業中に保健室まで見舞いに来るなんて、さすがに予想外だったな」
「だって、ダーリンが具合悪いのかなって心配だったんだもん〜」
「うんうん!私たち、エミールさんのことが超超超心配だったんですよ?」
ありがとう、二人とも。
「安心しろよ。お前たち二人の顔を見たら、具合の悪さなんて一瞬で吹き飛ぶから」
「そんなこと言っちゃダメですよ、エミールさん!病気はよくないです!」
「あははは、了解です、アイリーンお姫様!」
「うんうん、許してあげます!」
アイリーンは胸を張り、誇らしげにこくこくと頷いて答えた。
……可愛い。
「それで、ダーリンはどうして今日はそんなに疲れてるの?昨夜、眠れなかったの?あ……セレイアっちの顔にもクマができてる」
リン!?
今回くらい、俺を見逃してくれてもよくないか?
「え?どうして二人とも黙るの?しかもセレイアっち、顔まで真っ赤だし。まさか……」
「違う、違うからな!お前が想像してるようなことじゃない!昨夜は彼女を家まで送ったあと、俺はちゃんと家に帰ったから!」
「何よそれ!ダーリンがそんなことする人じゃないって、私はよく知ってるもん。別に変なことなんて考えてないよ!でも私の予想だと、セレイアっち、昨夜ダーリンと二人きりになった時に、ちょっとした“進展”があったんでしょ?」
「……!」
その言葉を聞いた瞬間、リヤの身体が明らかにびくっと縮こまった。
それを見て、リンは安心したように微笑みを浮かべた。
「……どういうことですか?」
アイリーンだけは、まだ状況についていけていなかった。
「もちろん告白だよ、告白!それでどうだったの?うまくいった?」
「おおお、そういうことだったんですね!ついにセレイアさんの番が来たんですか?これからもよろしくお願いしますね、セレイアさん!」
お前たち、それはリヤにとって公開処刑と大差ないぞ?
彼女の顔はもう、熟れたリンゴみたいに真っ赤になっている。
これ以上続けたら、そのうち爆発するんじゃないか。
「ち、違うの……私はエミに……ちゃんと考えてほしいって言っただけ……無理に私と付き合ってほしいわけじゃないから……」
「「じぃ————」」
二人分の刺さるような視線が、同時に俺へ向けられた。
どうやら二人とも、俺の優柔不断さが信じられないらしい。
「そんな目で見るなよ!お前たち二人、いったいどっちの味方なんだ?」
「今の私たちは当然、恋に落ちた乙女の味方だよ!」
「その通りです!私たちは告白戦線の戦友ですからね?」
違うぞ、アイリーン。
そもそも告白戦線って何だよ?
「とにかく、私たちはセレイアっちと同じ陣営の仲間なの!ダーリン、自分が彼女にどんな感情を抱いてるのか、まさか自分でもわかってないわけじゃないよね?私はダーリンと付き合う前から、ずっとあなたを見てきたんだから。隣で見てれば、もう全部お見通しだよ?」
「いや、俺はつい最近アイリーンと付き合い始めたばかりなんだぞ?それでまた一人彼女を増やしたら、外を歩いた瞬間、天罰で雷でも落ちてくるだろ?」
幸せがあまりにも急に押し寄せてきて、まるでドッキリでも仕掛けられているみたいに感じてしまう。
もちろん、昨夜のリヤがどれほど本気だったのかは、俺にもよくわかっている。
だって彼女は、初めてのキスまで……
うっ……
「ないない〜。もし天罰が下るなら、ダーリンはアイリーンちゃんの告白を受け入れた時点で、とっくに雷に撃たれてるよ」
「そういう言い方はやめてくれ、リン……」
「違う?とにかく、ダーリンは自分の気持ちに素直になればいいだけだよ。相手がセレイアっちなら、私は大歓迎だし!」
お前、俺の逃げ道を全部塞いできたな……
ほら見ろ。リヤまで期待するような目で俺を見てるじゃないか。
はぁ……
「その言葉、信じていいんだな?」
「もちろん。アイリーンっちも異論はないよね?」
「はい。セレイアさんは前から私に優しくしてくれましたし、私もセレイアさんのことが好きです」
それなら、もう逃げない……
「それじゃあ、リ……セレイア。もし俺でよければ、俺と付き合ってください!」
「昨夜、初めてのキスまでしたのに、今さらあなたを嫌がるはずがないでしょう!もちろん、喜んで!もう後悔しないでね?」
リヤはそれを聞いた途端に一気に元気を取り戻し、さっきのアイリーンみたいに、俺のベッドへ飛び込んで抱きついてきた。
ああああ、また理性を試される一日だ!
「あっ!?セレイアさんに先を越されちゃいましたか?」
残念だったな……
そういうことだ、アイリーンお姫様。
「そういえば、どうしてさっきは私の本名で呼んだの?いつもはリヤ、リヤって呼んでいるでしょう?」
「いや、その……こういう場面では、ちゃんと本名で呼んだほうが正式な感じがするかなって……」
「「「ぷっ」」」
お前たち三人、笑うなよ……
変に格好つけようとしたことを、俺は少しだけ後悔し始めた。
「ダーリンらしいよね〜」
「はい。エミールって、いつも変なところで頑固になりますよね」
「あははは……エミって、本当に子供の頃から変わっていないのね。よかった……」
穴があったら入りたい……
「どうせ他に誰もいないし……アイリーンっち、セレイアっち、あのハーレム漫画に出てきた例の場面、ちょっと試してみない?」
「え?いいですよ。面白そうです!」
「どの場面……?ああ、あれね。思い出したわ!それなら、私がカウントするわね?」
お前たち、今度はいったい何をするつもりだ?
「三、二、一……」
リヤがそう数え終えた、その瞬間……
「これからもよろしくね、ダーリン!」
「これからもよろしくね、王子様!」
「これからもよろしくね、旦那様!」
三人は最高に可愛くて、それでいて少し照れたような笑顔を浮かべながら、俺の前で軽く身をかがめてそう言った。
うわ……
俺、エミール。
この人生に、もう悔いはない。
「やった、ほとんど同時に言えました!」
アイリーンは嬉しそうに手を叩き、ベッドのそばでぴょんぴょん跳ねていた。
「待って、アイリーンっち、セレイアっち……今、最後にとんでもない単語を言ったのはどっち?」
「……」
リンがそこに気づいた途端、リヤは少し気まずそうに目を逸らした。
「旦那様って何よ?彼の正妻は私なんだから、勝手にその座を奪おうとしないでよね!」
「嬉しすぎて、うっかり言い間違えちゃったわ……えへっ〜☆」
「えへっ〜☆じゃないよ!セレイアっち、告白一回でクールな仮面を全部剥がしちゃったの?そんなの、前のセレイアっちなら絶対に言わなかったでしょ!」
「実は最近、色々と考えていたの。人と接する時は、もう少し明るいほうがいいのではないかって。そうすれば、私たちの子供も将来、もっと楽しく過ごせるでしょうし……」
「そこまで考えるのは早すぎるから!」
ここうして、保健室にいた三人は、俺の平凡な一日を賑やかにかき回してくれた。
それでも……
彼女たちがそばにいてくれることが、本当に嬉しい。
でもさ、リヤが見た未来の先で、本当に世界は滅びるのだろうか……?
ふぅ……
守りたいものが、また増えた。
これからは、もっと頑張らないとな。




