シマアジと眩い光
佐伯悠真がバイト先の魚屋を出たのは、夜の九時を少し回った頃だった。
春とはいえ夜風はまだ冷たく、帰り道を行く指先が…じんと痺れる。
だが、彼の足取りは軽かった。
なぜなら、今日の売れ残り…立派なシマアジを一本、店長の厚意で持ち帰ることができたからである!
「ふふ、今日は当たりだな……」
ワンルームの部屋に帰ってきた悠真は、すぐさまエプロンを身につけ、まな板を出し、愛用の包丁を手に取った。
……大学に入って一人暮らしを始めた頃から料理にハマり、特に魚を捌くことに魅了された。
魚屋でバイトを始めたのも、もっと魚を触りたかったからという理由のもとだ。
シマアジをまな板に置くと、蛍光灯の光を反射した銀色の体表がキラリと光った。
「うん、これは絶対うまいやつだ!」
包丁を入れると、脂の乗った身が滑らかに割れ、ふわりと潮の香りが立ち上る。
三枚におろして…半身は刺身、残りは西京漬け、焙った中落ちで潮汁を作って、カブトは塩焼き、皮は唐揚げ。炊きたての白米と合わせれば、それだけで最高の晩飯&朝飯になる。
ひとり暮らしの大学生とは思えないほどの豪華さだが、材料費はほぼゼロ。気のいい豪快な大将のもとでの魚屋勤め、米農家に嫁いだ姉ちゃんの差し入れ…、料理好きであるがゆえの特権ではある。
「……はぁ、幸せだった…、今日もうまいメシをありがとうな」
食後、しばし満腹の余韻に浸った悠真は、いつもの儀式に取りかかることにした。
満たされた胃袋と穏やかに凪ぐ心で包丁に向き合い、ただただ真摯に…研ぐ、時間。
……包丁は、料理人の命。そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。
料理人でも何でもない、ただの大学生ではあるけれど…包丁は大切な相棒だ。一仕事終えたあとは、きちんと労って…長く共にあってほしい。
シャッ、シャッ……。
砥石の上を滑る音がワンルームの部屋に響く。
これをやらないと一日が終わらないと言っても…過言ではない。
「明日は何を作ろうかな……」
そんなことを考えながら、砥石に水を足し、角度を微調整し、刃を丁寧に磨く。
刃物の町にあるSAに寄った時に、何となく惹かれて買った…銘入りの包丁。職人作とあって、研げば研ぐほどに切れ味が増す逸品だ。…いい買い物をしたと、今でも自画自賛している。
集中していると、時間の感覚が曖昧になる。
気づけばずいぶん…時間が経っていた。
丁寧に包丁の水気を拭き取り、シンク下の定位置に収納し。
研ぎ石を水切り棚に置いた…そのとき。
――パァァァァァァァァァッ!
突然、視界が真っ白に染まった。
「へっ?!」
蛍光灯が爆発したのかと思ったが、違う。
光は天井からではなく、足元から…、いや、部屋全体から湧き上がっている!!
「え、ちょ、まっ……!」
悠真の身体は光に包まれ、ふわりと浮き上った。
心臓が跳ね、呼吸が止まる。
何が起きているのか理解できないまま、光はさらに強くなり…目が、くらんだ。
悠真は、数秒間の浮遊感を味わった後…、足の裏に重みを感じた。
いつの間にか、見知らぬ大広間の真ん中に…立っている。
ここは…いったい……?
ぼんやりとかすむ視界で、あたりを…確認すると。
「……は?!」
石造りの床、高い天井…壁には巨大なタペストリー。
目の前には…、王冠をかぶった老人と、鎧を着た兵士たちがずらりと並んでいる。
「勇者よ! よくぞ召喚に応じてくれた!」
王冠の老人…どう見ても王様らしき人物が、両手を広げて叫んだ。
悠真はきょろきょろと辺りを見回した後、おずおずと…自分を指差した。
「ゆ、勇者……?」
誰がどう見ても、ただの大学生。
中学の時に作ったエプロン着用のジャージ姿。
どこそこ生魚くさい手は…まだ少々湿っている。
「そなたが…魔王が蔓延るこの世界を救うために選ばれし伝説の勇者、サエキ=ユウマ殿であるな!」
「伝説?! 勇者?! いやいやいや…、ちょっと待ってください! 俺、ただの魚屋のバイトなんですけど!!! 違います、無理!!」
テンパりつつもキッチリ否定の言葉を返す悠真に、王冠爺さんがニコニコとした笑顔を向けた。
「心配無用じゃ! 勇者は皆、最初はそう申す!」
いや、そういう問題じゃ…ない!!
悠真は頭を抱えた。
異世界転生?
召喚?
そんなの…ラノベの中だけの話だと思ってたのに!!!
王様の後ろに控える兵士たちの真剣な眼差し、広間の荘厳な空気。
自分の身体を包んだ不可思議な感覚…、たしかにどれも現実味があるけれども。
「……マジかよ」
悠真の、困っている人を見捨てられない性格が顔を出す。
心配そうな面持ちでこちらを見ている大勢の大人たちを無碍にすることなど…できそうに、ない。
事実、王様の必死の説明を聞くうちに、悠真は絆されてしまった。
「では勇者よ、まずはステータスを開いてみるがよい」
「ステータス……?」
ゲームみたいだなと思いながら、言われた通りに心の中で念じてみる。
――ステータス
視界の端に半透明のウィンドウが現れた。
「うわ、本当に出た……!」
────────────
サエキ=ユウマ
伝説の勇者
レベル 1200
HP 5200
MP 2200
攻撃力 3365
防御力 3362
俊敏 1102
魔力 4112
武器(未実装)
魔法(未収得)
────────────
ずらりと並ぶ、高レベルの数字。
HP、MP、攻撃力、防御力、敏捷、魔力……どれも四桁越えだ。
一部心もとない表記もあるが、どう見てもチート持ちの勇者である。
もしかして、俺…、世界救っちゃう系?!
これからあふれるパワーで世直ししたり、仲間と出会ったりしながら、サクッと魔王を倒して…ハッピーエンド的な?!
数々のラノベを読破してきた悠真のテンションが、ずんずん上がっていく。
「勇者の武器は、そなたが名を与え、その名を呼ぶことで召喚されよう。伝説の武器は…勇者のみが扱える特別なものなのじゃ!」
王様が誇らしげに言う。
「名を……つける?」
「勇者の武器は、そなたが名を与えることで魂と結びつき、呼び声に応じて姿を現すのじゃ。慎重に選ぶがよい、そなたの唯一無二の武器に最もふさわしい名を与えよ! 勇者の魂に寄り添う、世界に二つとない伝説の一振りの名を!」
勇者の魂にふさわしい名前て……。
そんなご大層なもの、急に言われても…困る!!!
悠真は思わず自分の手を見つめた。
魚屋のバイトで鍛えた、手。
包丁を握り続けてきた、この手。
(俺にとって一番しっくりくる“武器”って、やっぱり包丁なんだよな……)
しばし首をひねったのち、悠真の頭に浮かんだのは…ひとつの名前。
――匠。
日々の自炊生活を支えてくれているマイ包丁に刻まれた、銘。
技を磨く象徴のような名前だし…何より一番しっくりきた。
「……じゃあ、『匠』で」
「よい名じゃ。では、今、この場で…呼ぶがよい!」
王様が期待に満ちた目で見つめてくる。
…胸の鼓動が早まる。
悠真は、深呼吸したあと、ごくりと唾を飲み込み…そっと口を開いた。
「……来い、『匠』!」
その瞬間、眩い光が広間を満たした。




