第十一章 花蓮の過去編 〜薄れゆく記憶〜
竹刀の音が道場に響いていた。乾いた打突の音が連なるたび、花蓮は縁側からそっと微笑む。
夫の構えは静かで揺るぎなく、言葉少なにただ剣を振る。息子はその一振りごとの動きを必死に追いかけ、汗に濡れた額を乱暴に拭う。
「もう一度!」
息子が声を張ると、父親はわずかに頷くだけで再び竹刀を構えた。
打ち込んでは弾かれ、転び、それでも立ち上がる。繰り返す姿に、花蓮の胸は温かく、そして少し切なくもなる。
——この子、本当に父親に似てる。
稽古が一段落すると、花蓮は湯呑に茶を注ぎ、二人に差し出した。
「お疲れさま。ほら、熱いから気をつけて」
息子は「ありがとう!」と両手で受け取り、あつっと舌を出す。夫は黙って受け取るが、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
やがて門弟たちも休憩に入り、縁側に集まってくる。
「奥さま、今日はお団子ありますか?」
「まあ、もう知れ渡ってしまったのね」
花蓮は笑いながら台所から甘味を運んできた。門弟たちは息子と一緒になって団子を頬張り、和やかな笑い声が道場に満ちる。
夫はそんな喧騒を背に、茶を一口飲み干すと再び庭へ立ち、竹刀を構えた。
——彼にとって剣は呼吸のようなもの。
花蓮はそう思いながら、楽しげに門弟たちと談笑する我が子の姿を見守る。
いつかこの子も、父のように立派な剣客になるのだろう。
その未来を疑うことはなかった。
だが、この穏やかな時間が永遠には続かないことを、誰一人、想像すらしていなかった。
夕暮れが迫る頃、道場の門弟たちは稽古を終えて家路につく。
「ありがとうございました!」
声をそろえて深々と頭を下げ、汗を拭いながら笑顔で帰っていく。
「本当に慕われているわね」
花蓮は縁側に腰を下ろしながら夫に声をかけた。
夫は無言のまま頷くだけ。けれど、その横顔にどこか柔らかな色が差す。
門弟の一人が去り際に振り返り、息子に向かって叫んだ。
「また明日も勝負だぞ!」
息子は竹刀を振り上げ、「絶対に勝つ!」と応えた。
その様子に笑いが起こり、道場にはまだ温かな余韻が残っていた。
花蓮はふと目を閉じ、その光景を胸に刻みつけた。
この家族と弟子たちとともに過ごす時間は、かけがえのない宝物だった。
夜更け。稽古の余韻に包まれた家は静まり返り、夫と息子の寝息だけが障子の向こうから聞こえていた。
花蓮は眠りにつけず、机に小さな灯をともす。
手の中には、幼い頃から大切にしまっていた古びた紙片があった。
掠れた墨の跡。震えるように乱れた筆致で、そこにはこう記されていた。
「影を鎮める器。
それは人の形を持ち、心をもつ存在。
炉を律する唯一のもの。」
幼い花蓮には理解できなかった言葉。
けれど、その一文字一文字が、父の不在と母の涙とともに胸に焼き付いていた。
——あの日。
嵐の夜、父は山へと向かった。
「必ず戻る」と笑った背中は、それが最期になった。
翌日、戻らぬ父を待つ母は、荒れる山を見つめ、待ち続けたが、父は帰らなかった。
母の背を、じっと見つめる者たち。集まる視線は沈黙を連れてきて、やがて囁きに変わる。真実は霞み、尾鰭をつけた噂ばかりが、街を流れていった。
「山神の祟りだ」
「禁忌に触れた報いだ」
その言葉は母の心を蝕み、彼女の心を少しずつ壊していった。
花蓮はまだ幼かった。
泣き崩れる母の背を抱き、ただ「大丈夫」と繰り返すことしかできなかった。
父を信じ続ける母の瞳は、やがて現実と夢の境を失っていく。
「きっと……あの人は帰ってくる。
影なんて、祟りなんて……きっと全部、間違いよ」
その言葉を聞くたびに、花蓮は胸が締め付けられた。
——母を守らねばならない。
その思いが、彼女の強さの源になった。
そして今。
手の中の紙片を見つめながら、花蓮は思う。
あの父の残した「器」という言葉こそ、影の謎を解く鍵なのではないか。
母の心を蝕んだ闇も、家族を失わせた影も、すべてそこに繋がっているのではないか。
灯火がゆらめき、紙片の文字が一瞬、黒い影のように揺れた。
花蓮は思わず灯を消し、静寂の闇の中で拳を握りしめる。
——器とは何か。
——影を鎮めるものとは。
父が遺した問いは、いまも彼女の胸の奥で燻り続けていた。
ある日の夕暮れ時、花蓮は夫と息子を連れて母の家を訪ねた。
母はかつての明るさを失い、いつも窓辺に座り込んで山を見つめていた。
けれど息子は母によく懐いており、小石を並べたり、竹で作った駒を回したりして遊んでは笑い声を響かせた。
「お婆様、見て! 今日も勝った!」
その声に、母の顔にかすかな笑みが戻る。
その瞬間だけは、花蓮も心が救われるようだった。
だが、道を通りかかった村人の声が、その穏やかさを切り裂いた。
「まだ生きているのか……祟られた女め」
「山神の怒りを招いた一族……関わるとまた祟られるぞ」
無遠慮な囁きが、母の心に刃のように突き刺さる。
母の表情がこわばり、肩が震え始めた。
「……違う……あの人が悪いんじゃない……あの人は誰もが見て見ぬ振りをしていることから、目を背けなかった……ううっ…」
次の瞬間、母の体から黒い靄が滲み出した。
「母上!」
花蓮が駆け寄ろうとした刹那、靄は激しく渦を巻き、母の体を包み込んだ。
苦しげな声はすぐに飲み込まれ、母の姿は黒い影に溶けていった。
「やめて! 戻ってきて!」
息子が必死に叫び、母の影に手を伸ばす。
だが、その幼い手は届かない。影はむしろ孫を引き寄せようと腕のように伸びてきた。
「危ない!」
夫が飛び込んで息子を抱き寄せる。竹刀ではなく真剣を抜き放ち、影に斬りかかる。
「義母上を、救い出さねば!」
鋭い剣閃が黒い靄を裂くが、すぐに形を取り戻して押し寄せる。
彼は無言で立ち向かい続けた。——その背中は、どこまでも頼もしい。花蓮は心の中で「この人なら、なんとかしてくれるはず!」そう思った。
だが淡い期待を抱いた次の瞬間、影の奔流が大きく波あったかと思うと、あっという間に彼を呑み込み、力強い剣客の姿は黒に沈んでいった。
「いやだ……いやあああ!」
目の前の信じ難い光景に叫び声を上げていた。
花蓮の絶望の中、彼は闇に消えた。
息子は花蓮の腕の中で泣きじゃくりながら叫ぶ。
「父上! お婆様! 戻ってきて!」
その声さえも影を刺激したのか、黒い靄が我が子をも包み込む。
必死に抱き締める花蓮の腕ごと、影はその命を引き裂くように奪い去る。
——愛おしい家族が、目の前で消えていく。
花蓮の心は悲鳴をあげ、同時に闇に呑まれていく。
「もう……いや……」
抵抗する気力さえ失われ、花蓮自身も影に取り込まれる。黒く薄暗い渦の中で、心の奥に眠っていた理不尽への怒りや悲しみがあふれ出す。だがそれらはすぐに闇へと吸われ、同化し、かき消されていく。感情の灯が燃え尽きたその先。理屈ではない。直感が囁いた。――これは戻れぬ道だと。
その時だった。
淡い光が闇を裂いた。
不思議な旋律のような気配とともに、一人の少女が立っていた。
澪。
彼女の手が空をなぞると、黒い靄はたちまち収束し、嵐のように荒れ狂っていた影は静かに鎮まっていった。
闇に溺れかけていた花蓮は、その光に包まれ、人の姿へと引き戻される。
「……あなたは……」
花蓮の視界に映ったのは、静かな瞳でこちらを見つめる澪だった。
その瞳の奥に、何故か悲しみを映すような深い光があった。
花蓮の腕の中には、もう誰もいなかった。
母も、夫も、息子も。
残されたのは、自分と、目の前に立つ少女だけだった。
-------------------
「……名前が、思い出せないの」
花蓮は小さな声で呟いた。
「夫の名も、息子の名も。いつも一緒にいたはずなのに……遠い霞のように、掴めないの。
このままでは、その顔さえ忘れてしまうのではないかしら」
夜の庭に、枯葉を燃やす焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
火の粉が闇に舞い上がり、道場の白壁を赤く染める。
花蓮は焚き火を見つめながら続けた。
「影に呑まれかけたとき、何かが私の中で壊れたのだと思う。
それから……影の気配を察せられるようになった」
久遠は黙って彼女の言葉を受け止めていた。
火の揺らぎに照らされる花蓮の横顔は、悲しみと強さが入り混じっている。
だが、今の彼にできるのは、ただそこにいることだけだった。
「器のことも、父の記録にあったわ。
人の形を持ち、影を鎮める唯一の存在……。
けれど、それが何なのか、まだわからない」
花蓮は焚き火に手をかざしながら、ふと微笑んだ。
「あなたを見ていると、どうしても夫を重ねてしまう。……勝手よね、私」
その言葉に久遠は返す言葉を見つけられない。
ただ、花蓮の差し出した手に自分の手を重ね、静かに握り返した。
温もりが伝わり、花蓮は瞼を閉じる。
言葉はなかった。
だが、消えゆく記憶の痛みも、未来への不安も、この沈黙の中で確かに分かち合えていた。
焚き火の炎が一際大きくはぜ、二人の影を揺らす。
その光の中で、二人はまだ答えのない問いを胸に刻む。
——器とは何なのか。
——そして、影を巡る戦いの先に何が待つのか。
花蓮は父の遺した手がかりを胸に、
久遠は「この女を守りたい」という理由なき願いを胸に、
静かに未来への一歩を踏み出した。
夜の焚き火が二人の影を揺らす。
花蓮は静かに火を見つめ、声にならない吐息を漏らした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
花蓮というひとりの女性の過去を描くことは、彼女の強さと同時に、消えていく記憶や喪失の痛みを見つめることでもあります。
これからの物語の先も、またご一緒いただければ幸いです。




