表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/25

第十一章 花蓮の過去編 〜薄れゆく記憶〜

 竹刀の音が道場に響いていた。乾いた打突だとつの音が連なるたび、花蓮は縁側からそっと微笑む。

夫の構えは静かで揺るぎなく、言葉少なにただ剣を振る。息子はその一振りごとの動きを必死に追いかけ、汗に濡れた額を乱暴に拭う。


「もう一度!」

息子が声を張ると、父親はわずかに頷くだけで再び竹刀を構えた。

打ち込んでは弾かれ、転び、それでも立ち上がる。繰り返す姿に、花蓮の胸は温かく、そして少し切なくもなる。

——この子、本当に父親に似てる。


稽古が一段落すると、花蓮は湯呑に茶を注ぎ、二人に差し出した。

「お疲れさま。ほら、熱いから気をつけて」

息子は「ありがとう!」と両手で受け取り、あつっと舌を出す。夫は黙って受け取るが、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。


やがて門弟たちも休憩に入り、縁側に集まってくる。

「奥さま、今日はお団子ありますか?」

「まあ、もう知れ渡ってしまったのね」

花蓮は笑いながら台所から甘味を運んできた。門弟たちは息子と一緒になって団子を頬張り、和やかな笑い声が道場に満ちる。


夫はそんな喧騒を背に、茶を一口飲み干すと再び庭へ立ち、竹刀を構えた。

——彼にとって剣は呼吸のようなもの。

花蓮はそう思いながら、楽しげに門弟たちと談笑する我が子の姿を見守る。

いつかこの子も、父のように立派な剣客になるのだろう。

その未来を疑うことはなかった。


だが、この穏やかな時間が永遠には続かないことを、誰一人、想像すらしていなかった。


夕暮れが迫る頃、道場の門弟たちは稽古を終えて家路につく。

「ありがとうございました!」

声をそろえて深々と頭を下げ、汗を拭いながら笑顔で帰っていく。


「本当に慕われているわね」

花蓮は縁側に腰を下ろしながら夫に声をかけた。

夫は無言のまま頷くだけ。けれど、その横顔にどこか柔らかな色が差す。


門弟の一人が去り際に振り返り、息子に向かって叫んだ。

「また明日も勝負だぞ!」

息子は竹刀を振り上げ、「絶対に勝つ!」と応えた。

その様子に笑いが起こり、道場にはまだ温かな余韻が残っていた。


花蓮はふと目を閉じ、その光景を胸に刻みつけた。

この家族と弟子たちとともに過ごす時間は、かけがえのない宝物だった。


夜更け。稽古の余韻に包まれた家は静まり返り、夫と息子の寝息だけが障子の向こうから聞こえていた。

花蓮は眠りにつけず、机に小さな灯をともす。

手の中には、幼い頃から大切にしまっていた古びた紙片があった。


かすれた墨の跡。震えるように乱れた筆致で、そこにはこう記されていた。


「影を鎮める器。

それは人の形を持ち、心をもつ存在。

炉を律する唯一のもの。」


幼い花蓮には理解できなかった言葉。

けれど、その一文字一文字が、父の不在と母の涙とともに胸に焼き付いていた。


——あの日。

嵐の夜、父は山へと向かった。

「必ず戻る」と笑った背中は、それが最期になった。


翌日、戻らぬ父を待つ母は、荒れる山を見つめ、待ち続けたが、父は帰らなかった。


母の背を、じっと見つめる者たち。集まる視線は沈黙を連れてきて、やがて囁きに変わる。真実は霞み、尾鰭をつけた噂ばかりが、街を流れていった。


「山神の祟りだ」

「禁忌に触れた報いだ」


その言葉は母の心を蝕み、彼女の心を少しずつ壊していった。


花蓮はまだ幼かった。

泣き崩れる母の背を抱き、ただ「大丈夫」と繰り返すことしかできなかった。

父を信じ続ける母の瞳は、やがて現実と夢の境を失っていく。


「きっと……あの人は帰ってくる。

 影なんて、祟りなんて……きっと全部、間違いよ」


その言葉を聞くたびに、花蓮は胸が締め付けられた。

——母を守らねばならない。

その思いが、彼女の強さの源になった。


そして今。

手の中の紙片を見つめながら、花蓮は思う。

あの父の残した「器」という言葉こそ、影の謎を解く鍵なのではないか。

母の心を蝕んだ闇も、家族を失わせた影も、すべてそこに繋がっているのではないか。


灯火がゆらめき、紙片の文字が一瞬、黒い影のように揺れた。

花蓮は思わず灯を消し、静寂の闇の中で拳を握りしめる。


——器とは何か。

——影を鎮めるものとは。


父が遺した問いは、いまも彼女の胸の奥で燻り続けていた。


ある日の夕暮れ時、花蓮は夫と息子を連れて母の家を訪ねた。

母はかつての明るさを失い、いつも窓辺に座り込んで山を見つめていた。

けれど息子は母によく懐いており、小石を並べたり、竹で作った駒を回したりして遊んでは笑い声を響かせた。


「お婆様、見て! 今日も勝った!」

その声に、母の顔にかすかな笑みが戻る。

その瞬間だけは、花蓮も心が救われるようだった。


だが、道を通りかかった村人の声が、その穏やかさを切り裂いた。

「まだ生きているのか……祟られた女め」

「山神の怒りを招いた一族……関わるとまた祟られるぞ」


無遠慮な囁きが、母の心に刃のように突き刺さる。

母の表情がこわばり、肩が震え始めた。

「……違う……あの人が悪いんじゃない……あの人は誰もが見て見ぬ振りをしていることから、目を背けなかった……ううっ…」

次の瞬間、母の体から黒い靄が滲み出した。


「母上!」

花蓮が駆け寄ろうとした刹那、靄は激しく渦を巻き、母の体を包み込んだ。

苦しげな声はすぐに飲み込まれ、母の姿は黒い影に溶けていった。


「やめて! 戻ってきて!」

息子が必死に叫び、母の影に手を伸ばす。

だが、その幼い手は届かない。影はむしろ孫を引き寄せようと腕のように伸びてきた。


「危ない!」

夫が飛び込んで息子を抱き寄せる。竹刀ではなく真剣を抜き放ち、影に斬りかかる。


「義母上を、救い出さねば!」


鋭い剣閃が黒い靄を裂くが、すぐに形を取り戻して押し寄せる。

彼は無言で立ち向かい続けた。——その背中は、どこまでも頼もしい。花蓮は心の中で「この人なら、なんとかしてくれるはず!」そう思った。


だが淡い期待を抱いた次の瞬間、影の奔流が大きく波あったかと思うと、あっという間に彼を呑み込み、力強い剣客の姿は黒に沈んでいった。

「いやだ……いやあああ!」

目の前の信じ難い光景に叫び声を上げていた。

花蓮の絶望の中、彼は闇に消えた。


息子は花蓮の腕の中で泣きじゃくりながら叫ぶ。

「父上! お婆様! 戻ってきて!」

その声さえも影を刺激したのか、黒い靄が我が子をも包み込む。

必死に抱き締める花蓮の腕ごと、影はその命を引き裂くように奪い去る。


——愛おしい家族が、目の前で消えていく。

花蓮の心は悲鳴をあげ、同時に闇に呑まれていく。

「もう……いや……」

抵抗する気力さえ失われ、花蓮自身も影に取り込まれる。黒く薄暗い渦の中で、心の奥に眠っていた理不尽への怒りや悲しみがあふれ出す。だがそれらはすぐに闇へと吸われ、同化し、かき消されていく。感情の灯が燃え尽きたその先。理屈ではない。直感が囁いた。――これは戻れぬ道だと。


その時だった。

淡い光が闇を裂いた。

不思議な旋律のような気配とともに、一人の少女が立っていた。

澪。


彼女の手が空をなぞると、黒い靄はたちまち収束し、嵐のように荒れ狂っていた影は静かに鎮まっていった。

闇に溺れかけていた花蓮は、その光に包まれ、人の姿へと引き戻される。


「……あなたは……」

花蓮の視界に映ったのは、静かな瞳でこちらを見つめる澪だった。

その瞳の奥に、何故か悲しみを映すような深い光があった。


花蓮の腕の中には、もう誰もいなかった。

母も、夫も、息子も。

残されたのは、自分と、目の前に立つ少女だけだった。


-------------------


「……名前が、思い出せないの」

花蓮は小さな声で呟いた。

「夫の名も、息子の名も。いつも一緒にいたはずなのに……遠い霞のように、掴めないの。

 このままでは、その顔さえ忘れてしまうのではないかしら」


夜の庭に、枯葉を燃やす焚き火がぱちぱちと音を立てていた。

火の粉が闇に舞い上がり、道場の白壁を赤く染める。


花蓮は焚き火を見つめながら続けた。

「影に呑まれかけたとき、何かが私の中で壊れたのだと思う。

 それから……影の気配を察せられるようになった」


久遠は黙って彼女の言葉を受け止めていた。

火の揺らぎに照らされる花蓮の横顔は、悲しみと強さが入り混じっている。

だが、今の彼にできるのは、ただそこにいることだけだった。


「器のことも、父の記録にあったわ。

 人の形を持ち、影を鎮める唯一の存在……。

 けれど、それが何なのか、まだわからない」


花蓮は焚き火に手をかざしながら、ふと微笑んだ。

「あなたを見ていると、どうしても夫を重ねてしまう。……勝手よね、私」


その言葉に久遠は返す言葉を見つけられない。

ただ、花蓮の差し出した手に自分の手を重ね、静かに握り返した。

温もりが伝わり、花蓮は瞼を閉じる。


言葉はなかった。

だが、消えゆく記憶の痛みも、未来への不安も、この沈黙の中で確かに分かち合えていた。


焚き火の炎が一際大きくはぜ、二人の影を揺らす。

その光の中で、二人はまだ答えのない問いを胸に刻む。


——器とは何なのか。

——そして、影を巡る戦いの先に何が待つのか。


花蓮は父の遺した手がかりを胸に、

久遠は「この女を守りたい」という理由なき願いを胸に、

静かに未来への一歩を踏み出した。

夜の焚き火が二人の影を揺らす。

花蓮は静かに火を見つめ、声にならない吐息を漏らした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

花蓮というひとりの女性の過去を描くことは、彼女の強さと同時に、消えていく記憶や喪失の痛みを見つめることでもあります。


これからの物語の先も、またご一緒いただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ