第十二章 誰も知らぬ布石
夜が明けた。
久遠はまだ人影のない一室で、静かに膝を組んでいた。目を閉じ、胸の奥で呼吸を重ねる。手にはまだ、花蓮の温もりが残っているようだった。
久遠の気がかりは「器」のことだった。
それは確かに存在しているはずなのに、まるで深い霧に包まれた遠い山影のようで、掴みどころがない。己の空白の記憶の中に、その答えが眠っているのかもしれない。
だが、記憶を掘り返す術を持たぬ以上、思考はただ同じ輪を描いて回るばかりだった。
やがて、久遠は瞑想を解いた。
ひとつ思い当たる斎のこと。書庫に行けば、わずかであっても器に繋がる手掛かりを得られるかもしれない。そう考え、腰を上げる。
「かんがえごと」を胸に抱えたまま、街を歩き出す。
斎が待つであろう書庫へ向かって。
ぐるぐると巡る思いは形を結ばぬまま、ただ足取りだけが答えの在処に近づいていく。
朝の街路はすでに活気を帯び始めている。行商の声、薪を割る音、子供たちの笑い声。人々の営みが折り重なるなか、久遠の耳は不思議とあるひとつの足音を拾った。
偶然、薬籠を抱えた澪が、角を曲がってきた。
清楚な薄衣に包まれたその姿は、まるで朝靄の中に立つ白百合のよう。細くしなやかな腕には小さな包みが抱えられている。薬の届け先へ向かう途中なのだろう。通りすがる人々に軽く会釈を返しながら歩む姿は、静かな優しさに満ちていた。
ふと目が合う。
澪の瞳に、驚きと、それに続く柔らかな笑みが浮かんだ。
「……久遠さん」
声は控えめでありながら、澄んだ鈴の音のように通りのざわめきの中で際立った。
久遠は軽く頷き、立ち止まる。
「薬の届け物か」
「ええ。朝一番で頼まれて……。でも、こんなところでお会いできるなんて」
澪は薬籠を抱え直しながら、胸に広がったのは、小さなよろこびだった。
思いがけず姿を見かけたことへの驚きはあったにしても、それ以上に心が温まる感覚があった。
澪は、久遠の姿にどこか懐かしさを覚えた。
父を知らぬ澪にとって、その眼差しは威厳と安らぎを兼ね備えたものであり、同時に胸を揺らす憧れでもあった。
「すぐそこですし……よければお茶を入れますから、寄っていきませんか?」
澪は、ためらうようでいてどこか嬉しげに言った。
久遠は短くうなずく。
「うむ」あるいは「いただこうか」そんな一言を残し、彼女の歩みに寄り添うように家まで付き添った。
店内は小ぢんまりとしているが、棚に並ぶ瓶や草の束はどれも手入れが行き届き、清らかな香りが漂っている。
澪は薬籠を置き、静かに袖を払った。
動作ひとつひとつが、まるで水面をすべる小舟のように淀みなく、柔らかい。
茶を淹れる仕草もまた、見慣れた日常のひとコマであるはずなのに、そこには凛とした品の良さがあった。湯を注ぐ腕の曲線はしなやかで、湯気に包まれた横顔は花弁のように淡く揺れている。
久遠は黙してその様子を眺めていた。
澪の背に宿る静かな気配が、この場所をひとつの聖域のように感じさせる。
やがて、茶が卓に置かれた。ふっと甘く香ばしい湯気が立ちのぼる。その香りは、緊張した心を撫でるように静かに広がり、言葉より先に胸をやわらげた。
澪は座り、両の手を膝に重ねながら、少し逡巡してから口を開いた。
「……少し、お話を聞いてもらえます?」
久遠が頷くと、澪は細い息をひとつ落とし、続けた。
「癒しの力を使う時……私がただ手をかざしているように見えるかもしれませんけれど、実際には……何か、とても大きなものを飲み込んでいるような感覚があるんです。」
彼女は自らの胸に手を当てる。
その仕草は、透きとおる器に水を注ぐように繊細で、しかし微かな震えを伴っていた。
「…そう、痛みや苦しみが、影のように私の中に入り込んできて、小さなものなら、すぐに溶けて消えるのですが……大きな苦しみや怒りに触れると、まるで底の見えない井戸から闇を汲み上げているようで……。飲み込むたびに、自分の心や気力が削られていく気がするんです」
久遠は戸惑いながらも黙って耳を傾けた。
彼女の声の奥に、まだ言葉にできない恐れが潜んでいるのを感じ取る。
「私はそれを、当たり前のことだと思ってきました。でも……このところ、以前よりも“重さ”のようなものが残るようになってきて……。まるで、少しずつ何かが積み重なっていくような……そんな気がしているんです。だからと言って、目の前で苦しんでいる人たちを放っておくことはできなくて」
澪の瞳は、澄んでいながらも奥に翳りを帯びていた。
彼女自身はまだ気づいていないが、その「重さ」が限界を迎える時、思いもよらない代償を払うことになる。だが、2人はまだそのことを知る由もない。
しなやかな指先が茶碗を包む。
その細やかな動きに宿る優しさは、彼女の宿命の重さと裏腹に、今はまだ穏やかに久遠の前に広がっていた。
澪の声が途切れ、薬屋の静けさが戻る。
外からは行商の呼び声がかすかに聞こえるが、この空間だけは深い水底のように澄んでいた。
久遠は、茶を口に含みながら目を閉じる。菊花茶だ。菊の香りがほのかに鼻先をくすぐる。ひとくち含めば、苦みと甘みが舌の上でほどけ、胸の奥に絡んでいた靄がほどけていく。頭の中に冷たい泉が湧くようで、思考が冴え渡る。
澪の言葉。「何かを飲み込むような感覚」「重さが増している」それらが心の奥でひとつに繋がっていく。
澪の所作は、清らかな水面を渡る風のように柔らかく、ひとつひとつの動きが周りの空気までも澄ませていく。その姿を見るたび、久遠の胸は安らぎに包まれた。
だが同時にあの得体の知れぬ感覚が、影を目覚めさせる合図となっているのではないかという思いが離れない。もしそうなら、澪の体は知らぬうちに次第に蝕まれていくのではないか。癒しをもたらすその手が、実は彼女自身を削っているのだとしたら……。光に見えるほどのしなやかさの奥に、崩れ落ちる予兆が潜んでいる気がして、久遠は目を逸らすことができなかった。
器。力を留め、秩序を保つもの。
もし澪の癒しの力が人々の痛みや影を吸い取り、その流れを制御しているのだとすれば……それはまさに器の役割と重なる。
澪の力は、器を補うために残されたものなのか。
あるいは、器そのものの一端を担っているのか。
久遠の胸中に、これまで霧に包まれていた輪郭がわずかに浮かび上がった。
空白の記憶と、澪の存在。二つを結ぶ見えない糸が確かにある。
「……器を探していたのかもしれん」
思わず洩れたその声は低く、澪には意味が伝わらなかったかもしれない。
澪は小首を傾げ、しかし深くは問わなかった。
ただ、その眼差しには「この人になら委ねてもいい」という安堵が揺れていた。
久遠は再び瞼を閉じる。
彼女が語った「飲み込む違和感」が、やがて限界を迎えたとき影による厄災は止められなくなるのか?
久遠はそこまで考えてから、首を振る。
茶碗を置いた久遠の瞳には、静かな決意の色が宿っていた。
◇◆◇◆
山の麓、苔むした遺跡に一人の影が佇む。
線の細い体躯、すらりと伸びた手足。長身の輪郭は鋭く、冷ややかさが滲む横顔さえ、光を受けるとどこか彫刻のように美しい。久遠の優しい眼差しとは、まるで別ものだ。
その長身から振り下ろされる刃は、竿を振るうかのように無駄なく滑らかで、速さは目には捉えられない。だが今、その手は刀に触れず、苔むした石壁の刻印をただ見つめていた。
〈CHOEI〉 風雨に削られた文字が、男にとっては自らの存在理由を示す道標であり、使命の証でもある。
その眼差しは揺らがず、冷たくも凛とした美しさで、周囲の空気すら凍りつかせるかのようだ。無駄を許さぬ動き、整った呼吸、ひとつひとつの所作、それらすべてが、この刻印に従い、彼自身の在り方を体現していた。
低く、静かに声を落とす。
「補完計画は進行中だ。すでに手は打ってある。全ては平穏のために。」
微かな息遣いとともに、空気がわずかに震える。
声の主の目は石壁の刻印を捉え、まるで誰かに応答を求めるかのように視線を揺らす。
返ってくるのは風のざわめきだけだが、それでも確かに交信は成立しているかのようだった。
誰も知らぬ計画の全貌。影のように潜む意志。
そして、その意志を見守る、ある存在の気配が静かに遺跡の闇に溶けていった。
お話を楽しみに待ってくださる方々、ありがとうございます。読んでくださる人がいるということが、背中を押してくれています。書き続けられているのもそういった方々のおかげです。もう少しお付き合いください。




