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曹操の父の死の謎と徐州大虐殺の真意 ③

曹操の父・曹嵩殺害事件について陶謙側の記録がどう書かれているのか。

曹操の父・曹嵩殺害事件について陶謙側の記録がどう書かれているのか?



● 『三国志・陶謙伝』の記述


曹操の父・曹嵩が曹操の治めるエン州と陶謙の治める徐州との間の国境で殺害された事件に関して、今度は正史『三国志・陶謙伝』のほうの記述。

しかしそこには、


「初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水爲之不流。謙退守?。太祖以糧少引軍還。


(初平四年(193)、太祖(曹操)は陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、彭城まで行って、大会戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は万単位にのぼり泗水はこのために流れがせきとめられた。陶謙は退却して?(たん)の守りを固めた。太祖は兵糧が乏しかったために、軍をひきあげ帰途についた)」


と、相変わらずたったこれだけのことが書かれているだけ。

ただこの後に、注として『呉書』の長い文章が引用されています。


〈《呉書》曰:曹公父於泰山被殺,歸咎於謙。欲伐謙而畏其彊,乃表令州郡一時罷兵。


詔曰:「今海?擾攘,州郡起兵,征夫勞瘁,寇難未弭,或將吏不良,因?討捕,侵侮黎民,離害者衆;風聲流聞,震蕩城邑,丘牆懼於橫暴,貞良化爲羣惡,此何異乎抱薪救焚,扇火止沸哉!今四民流移,託身佗方,攜白首於山野,棄稚子於溝壑,顧故?而哀歎,向阡陌而流涕,饑厄困苦,亦已甚矣。雖悔往者之迷謬,思奉教於今日,然兵連衆結,鋒鏑布野,恐一朝解散,夕見?虜,是以阻兵屯據,欲止而不敢散也。詔書到,其各罷遣甲士,還親農桑,惟留常員吏以供官署,慰示遠近,咸使聞知。」


謙被詔,乃上書曰:「臣聞懷遠柔服,非德不集;克難平亂,非兵不濟。是以?鹿、版泉、三苗之野有五帝之師,有扈、鬼方、商、奄四國有王者之伐,自古在昔,未有不揚威以弭亂,震武以止暴者也。臣前初以?巾亂治,受策長驅,匪遑?處。雖憲章?戒,奉宣威靈,敬行天誅,?伐輒克,然妖寇類衆,殊不畏死,父兄殲殪,子弟羣起,治屯連兵,至今爲患。若承命解甲,弱國自?,釋武備以資亂,損官威以益寇,今日兵罷,明日難必至,上忝朝廷寵授之本,下令羣凶日月滋蔓,非所以彊幹弱枝遏惡止亂之務也。臣雖愚蔽,忠恕不昭,抱恩念報,所不忍行。輒勒部曲,申令警備。出芟彊寇,惟力是視,入宣德澤,躬奉職事,冀效微勞,以贖罪負。」又曰:「華夏沸擾,于今未弭,包茅不入,職貢多闕,寤寐憂歎,無日敢寧。誠思貢獻必至,薦羞獲通,然後銷鋒解甲,臣之願也。臣前調穀百萬斛,已在水次,輒?兵衞送。」


曹公得謙上事,知不罷兵。乃進攻彭城,多殺人民。謙引兵?之,青州刺史田楷亦以兵救謙。公引兵還。


臣松之案:此時天子在長安,曹公尚未秉政。罷兵之詔,不得由曹氏出。


(『呉書』にいう。曹公(曹操)の父(曹嵩)が陶謙の管下である泰山で殺害されたため、陶謙に責任がかぶせられた。曹公は陶謙を討伐したいと望んだが、しかし、彼が強大な力をもっていることを恐れていた。そこで州と郡の軍隊をいっせいに解散させるようにと上表した。


詔勅にいう、「ただいま四海の内は乱れさわぎ、州や郡が軍兵を出動させ、遠征の兵士たちは疲労困憊しているが、戦乱はいまだおさまらない。将校・官吏のうちには心根のよからぬ者もいて、賊の討伐にかこつけて、民衆を侵害し、被害をこうむった者も大ぜいいるありさまである。

そうした風聞は、町や村を震撼させ、田舎では横暴なふるまいに恐れをなし、善良なる者たちも悪党に変身する始末である。これでは、薪をかかえて火事を消そうとし、火をあおぎながら沸騰をとめようとするのと同じことだ。

いま、四方の民は流浪し、わが身を異郷にあずけ、白髪の老人をつれて山野を歩き、幼な子どもをどぶの中に棄て、故郷の方をふりかえっては悲嘆にくれ、四方に続くあぜ道をに向っては涙を流し、その飢餓と困窮はたいへんなものとなっている。

過去の迷いと過ちを後悔し、現在において朝命をかしこみ立ち直ろうと思っても、勝手に軍兵を集結し、郊外に武器をつらねているため、朝に軍隊を解散したならば、夕暮には逮捕されるのではないかと懸念している。そのために、軍隊を頼みとして陣営をかまえ、やめたくても思いきって解散できないでいる。

この詔勅がとどいたならば、各自武装兵を除隊させて、もとどおり農業や養蚕業に従事させ、ただ平常の員数の役人だけを残して役所に配分し、遠くの者近くの者に安心感を与え、すべての者にこのことを知らしめよ。」


陶謙は詔勅を受けとると、上表していった、「私の聞いておりますところでは、遠方の者をなつけ、服従した者をいたわることは、道徳によらなければ成功できない、ということでございます。それがゆえに、涿鹿、阪泉、三苗の郊外においては五帝の軍隊が戦い、有扈、鬼方、商・奄の四国に対しては王者の征伐が行われたのでございます。

古代より、いまだかつて、武威を高くかかげて動乱を収拾し、武勇をとどろかせて、乱暴を抑止しなかった者はございません。私は以前、黄巾の徒が治世を乱したため、ご命令を拝受して、遠方へ征伐に駆けつけ、家でくつろぐ暇もございませんでした。いましめのことばを身に体し、御稜威をかしこみ、つつしんで天誅を下し、征伐のたびに勝利を得たとは申しますものの、妖賊の仲間は多く、まったく死を恐れず、父や兄が討死すれば、子や弟が群がり起こるといったありさまで、屯営を設け、軍兵を連ね、今にいたるまで被害を与えております。

もしご命令のとおりに武装を解除し、国力を弱めみずからの備えをなくしてしまいますれば、軍備を捨てて乱の原因を醸成し、お上の権威をそこなって賊に利益を与えることになりましょう。

今日軍隊を撤退すれば、明日には災難が必ずやふりかかり、上は朝廷の地方官を任命してくださる精神をないがしろにし、下は凶悪な者どもを日に日に蔓延させる結果をまねきまして、幹(朝廷)を強くし枝(地方)を弱め、悪を根絶し乱を抑止するためのやり方とは申せません。

私は愚か者で、忠節も顕著ではございませんが、ご恩を胸に抱き、お報いしたいと念じておりますゆえ、とてもさようなことを行うに忍びません。さっそくに部下の管理を強め、ご命令を申し伝え、不法なふるまいのないように警告し対処いたしました。出陣いたしました際には、強力な敵を討ち滅ぼし、ただ武力のみを頼みにし、入朝いたしました際には、ご恩沢を宣揚し、力のかぎり職務に尽くし、できましたならば、微力をささげて、わが身の罪責をつぐなわんものと願っている次第であります。」

また、陶謙はこうもいった。「中国は大混乱に陥り、今もなおおさまらず、束ねたちがや(祭祀に用いる)は上納されることなく、貢献はほとんど無視されて行われず、私は寝てもさめても憂い歎き、一日として安楽にすごしたことはございません。貢物が必ずきちんと届くようになり、祭祀の供物がおん許に達するようになったあとで、武装を解除することこそ、私の真心から願うところでございます。私が先に調達いたしましたところの百万石の穀物が、すでに船着場まで届いておりますゆえ、すぐに軍隊に命じて護送いたします。」


曹公は陶謙の上表文を手に入れ、彼に軍隊を解散する意志のないことを知った。そこで彭城に進撃し、多数の人民を殺害した。

陶謙が軍兵をひきいてこれを攻撃し、青州刺史の田楷もまた軍兵をひきつれて陶謙を救援した。

曹公は軍隊をひきあげて帰途についた。


臣 斐松之は考える。この当時、天子は長安におり、曹公はまだ漢王朝の政治の実権を掌握していなかった。軍隊解散の詔勅が、曹氏の意志から出されたはずがないのである。)〉




● 『後漢書・陶謙伝』の記述


陳寿の『三国志』と並ぶ正史二十四史のうちの一書、范曄によって編纂された『後漢書』のほうにも「陶謙伝」がある。


ではその『後漢書・陶謙伝』では、曹嵩の殺害場面がどのように描かれているのか?


なお、『後漢書』の成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、書かれた時代は陳寿が『三国志』を書いたころよりもずっと後の時代になる。



初,曹操父嵩避難琅邪,時謙別將守陰平,[一]士卒利嵩財寶,遂襲殺之。初平四年,曹操擊謙,破彭城傅陽。[二]謙退保郯,操攻之不能克,乃還。過拔取慮、雎陵、夏丘,皆屠之。[三]凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,自是五縣城保,無復行多。初三輔遭李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。[四]


注[一]縣名,屬東海國,故城在今沂州承縣西南。

注[二]縣名,屬彭城國,本春秋時偪陽也。楚宣王滅宋,改曰傅陽,故城在今沂州承縣南。

注[三]取慮音秋閭,縣名,屬下邳郡,故城在今泗州下邳縣西南。雎陵,縣,在下邳縣東南。夏丘,縣,屬沛郡,故城今泗州虹縣是。

注[四]殲、盡也。左傳曰:「門官殲焉。」


興平元年,曹操復擊謙,略定琅邪、東海諸縣,謙懼不免,欲走歸丹陽。會張邈迎呂布據兗州,操還擊布。是歲,謙病死。



初め、曹操の父曹嵩は琅邪に避難していたが、そのとき陰平を守っていた陶謙の別将の、[一]士卒たちが曹嵩の財宝をもうけようとして、とうとう彼を襲って殺してしまった。

初平四年(193)、曹操は陶謙を攻撃し、彭城の傅陽を破った。[二]陶謙が引き返して郯(タン:陶謙の本拠地)を保とうとすると、曹操はこれを攻めて克つことができず、還っていった。

とおり過ぎに取慮・雎陵・夏丘を抜き取り、みなこれを屠った。[三]およそ殺した男女は数十万人、鶏や犬さえ残ることなく、泗水はそのために流れを止めた。これより、五県は城を保ったが、行く人は多くはなくなってしまった。

初めて三輔(長安)が李傕の乱に遭ったとき、百姓たちは流れ移って陶謙をよりどころとしたが、みな殲されてしまった。[四]


[一] 県名である。東海国に属す。故城は今の沂州承県の西南にある。

[二] 県名である。彭城国に属し、もと春秋時代の偪陽になる。楚の宣王が宋を滅ぼしたとき、傅陽と改称した。故城は今の沂州承県の南にある。

[三] 取慮の音は秋閭シュウリョ、県名である。下邳郡に属す。故城は今の泗州下邳県の西南にある。雎陵も県であり、下邳県の東南にある。夏丘も県で、沛郡に属す。故城は今の泗州虹県がその地である。

[四] 殲とは尽くすことである。『左伝』に言う:「門官はこれを殲す。」


興平元年(194)、曹操がまた陶謙を撃ち、琅邪・東海の諸県を奪い平定した。陶謙は許されないと恐れ、(故郷の)丹陽へと走り帰ろうとした。ちょうどそのとき張邈が呂布を迎え入れて兗州を拠り所としたため、曹操は還って呂布を撃った。この歳、陶謙は病死した。































































まだ書き足していきます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 興味深いです。 最近では青州兵を食わせるために徐州で略奪させたのが真相だとかそんな説もありますし、陶謙も劉備を絡めて温厚な仁の人と描かれる事が多いですか、陶謙は武闘派の勇将で血の気が多かった…
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