競技化される事で失われる本質、武道なの? スポーツなの?
武道、武術と言う物は本来、残酷で危険な物です。誤解を受けるような言い方ですが、本質的には合理的に人を殺害する技です。
成り立ちが命のやり取りから発生した物が多いため、とても残酷な行為を行う技術が多くあります。
平和な時代になり、暴力を振るう必要がなくなりました。法や警察などが抑止力になり、戦いも銃火器が登場した事によって、白兵戦の機会が減りました。
治安の良いとされている日本では、殴り合いなどした事がないという人がほとんどだと思います。
必要の無いものは廃れていくのは当然の事で、淘汰されたり時代によって変化するのは当たり前の事です。
私は空手を指導することもありますが、今の子供たちを指導する時、危険な技など教えません。
私が高校生の時に、実際に使ったらだめだけど、これも空手の本質の一部だから学んだほうが良いと、危険な技を学ばせて頂く機会がありました。
しかし、私はその技術を指導していません。何かあった時、責任が取れないと言う自分勝手な理由からです。
平和な時代に必要の無い技術だから、そう自分に言い訳をしています。
しかし、受け継がれて来た技が、私の代で継承されない事に後ろめたさを感じています。
今の平和な日本で、目の中に指を突き入れるだの、鎖骨に指を引っ掛けて圧し折るだの、そんな危険な技、必要ないし過剰防衛になってしまいます。
これも時代の変化だ。そう思っているのですが、それでも空手は武道です。
理不尽な暴力から、自分自身、家族、友人、愛すべき人たちの身を守るための技術、戦うための技術を教えています。
競技化が進む事で危険の無いルールになる事は当然の事だと思います。しかし、本質を見失い、武道ではなく空手という『競技』になってしまっています。
私が現役の時代はまだ、武道とスポーツの中間ぐらいでした。理不尽な暴力にさらされても、最低限は自衛できる技術がありました。
最近、オリンピック競技になった事もあるのでしょう。加速度的に武道としての本質が失われ『競技』になってしまいました。
空手だけではなく、柔道もそうです。柔道はとてもわかりやすい道をたどって武道から競技へと変節してきました。
柔道がメジャーになり、国際競技として競技人口が増えました。これはすばらしい事です。しかし、問題も多くなりました。
柔道では、単純に投げるだけではなく『死に体』といわれる、投げられた方が完全に体のコントロールを奪われる状態を重要視していました。
投げた方が相手を完璧にコントロールできるので、あえて危険な落とし方をして相手に致命的なダメージを負わせる事も可能。
生殺与奪権を握った状態という事です。
国際化するにつれて、この概念が理解できていない外国人が増えました。審判の誤審も多くなりました。
国際化した事で柔道は『わかりやすさ』を求められる事になります。
本質が失われ、乱暴な言い方をすれば、投げられて両肩が地面に付けば一本という風になってしまいました。
一本を狙わず、有効ポイントで勝ちを狙う。
競技としての柔道に特化したスタイルでオリンピックで金メダルを取る選手がいたりする、武道としての本質が失われてきた時期でした。
ポイント争いで武道としての本質が薄くなって来た時期に『わかりやすさ』を導入した柔道はひどい状態になります。
身体能力にすぐれた外国人選手が、双手刈というレスリングのタックルの様な技を多用するようになります。
双手刈でタックルに行き、うまく決まらなければそのまま潜り込んで肩車を狙う。ほとんどレスリングの試合でした。
結果、下半身を掴む行為などが禁止になりました。
競技としては仕方ないと思いますが、武道としては良くありません。組み技系の武道なのに、タックルに対応出来ないのは致命的です。
それでも投げは強力なので、自衛には十分な効果を発揮すると思います。私は柔道は少しかじった程度なので、間違っていたらすみません。
打撃系の空手はどうでしょうか? 空手も柔道と同じような流れをたどっています。
伝統派空手は寸止め空手と言って馬鹿にされていました。実際に殴る距離感と寸止めの距離感は微妙に違う、その微妙さが実戦では大きい。
たしかにその通りだと思います。そこが弱点だと私も思います。ミットなどで実際に本気で当てる練習もしますが、本気で人を殴る機会は少ないです。
その分、スピードがあります。伝統派空手の突きの速度はかなり早いです。もちろん威力もあます。まともに貰えば鼻や歯ぐらいは簡単に折れます。
伝統派空手出身で総合格闘技で活躍している選手もいるので、間違いなく戦う力はあると思います。
寸止めになった事で武道の本質は薄くなりましたが、平和な時代に本気で殴りあうわけにも行かないので仕方ない部分はあります。
それでも武道としての本質は残っていました。
柔道が『死に体』を重視していた様に、空手も『極め』という物を重視していました。
この『極め』という物は非常に曖昧で、審判の主観が強いものでした。
綺麗に突きが決まっても、極めがないとか極めが弱いという理由でポイントにならない事もありました。
突きという行為は非常に複雑な動作をしています。
足で地面を蹴る力を各関節や筋肉を連動させながら加速させて行き、足から一番離れている拳へと力を伝えなければいけません。
関節と筋肉の連動だけではなく、体重移動も重要です。関節と筋肉による加速と、体重移動のピークを拳が相手に当たる瞬間に合わせる。
複雑な動作を同時に行い、拳が相手に当たる瞬間に完璧にかみ合わなければいけないのです。
もちろんこれは理想であり、天才と呼ばれる人間が一生を掛けても到達できない極地です。
空手の本質は、合理的に人を殴る技術。
ひどい言い方をすれば、そういう技術なのですが不思議な事に、合理的に正しく放たれた突きは美しく見えます。
機能美とでも言うのでしょうか、人間の美的感覚は不思議なもので、体重移動と関節の連動がうまくいった突きはとても綺麗です。
なので綺麗に見えればポイントという風になればわかりやすいのですが『極め』という謎の評価基準がジャッジを複雑にしていました。
当時は、『極め』が弱い。そう言われてポイントが取られないと、曖昧なジャッジしやがってとイライラしていました。
しかし、この『極め』が空手という武道の本質だった。失われた今になって強くそう思います。
おそらくジャッジしていた審判も、理論的に『極め』という行為を説明する事は出来なかったと思います。
審判も人間ですので主観も入るし、私のような生意気な人間には無意識にジャッジを渋くしていた可能性もあります。
空手も国際化が進み、柔道と同じように『わかりやすさ』が求められるようになりました。
その流れの中で、この『極め』という曖昧な物は重要視されなくなりました。
ここ数年で、伝統派空手の組み手が変化してきました。日本人の世界王者が負けたのですが、その相手が変則的な戦い方をする相手でした。
ダッキングやスウェーといったボクシングの防御技術、ジャブのような速度を重視した突き。
当てるだけの手打ちの攻撃や、体の軸をぶらしまくる防御。
私がこんな動きをしたら、温厚な師範でも激怒間違いなしの、空手でやってはいけないと言われている行為のオンパレードでした。
それで最強といわれた世界王者に勝ってしまったのです。昔なら、あんな当てるだけのへろへろな突きはポイントになりませんでした。
ダッキングやスウェーもやると怒られました。それは競技ではなく武道として間違っているからです。
ダッキングで屈んで避ける。伝統派空手の試合なら良いでしょう。
しかし、実際にルールの無い理不尽な暴力が振るわれる時、屈んで避けたら膝蹴りを入れられたり、髪の毛を引っ張られたりします。
中途半端なダッキングは非常に危険です。ボクサーの様なダッキングの専門家はまた別なのですが。
タ〇ソン氏の動画をみればわかるのですが、ダッキングで攻撃をかわしながら、自分が攻撃しやすく相手が反撃しにくいポジションにしっかりポジショニングしています。さらに、ダッキングをしながら次の攻撃へのタメを作っているので、回避からの反撃が非常に早いです。
ボクサーはダッキングという技術を磨いているので十分、実戦でも使える技術に昇華されています。
空手家が不用意にレベルの低いダッキングをしても、隙をさらすだけなのです。
スウェーもそうで、ローキックやタックルに対応できません。
総合格闘家などでは、スウェーをしながら後ろにさがって距離をとる。など、しっかりその後の攻撃を想定して防御しています。
伝統派空手の試合では、ローキックもタックルも反則なので警戒する必要がないと言う事です。
世界王者に勝った選手はそれでも良いかもしれません。恵まれた体格と高い身体能力があります。
しかし、そのスタイルを真似しだした一般の人はどうでしょうか。
ちょっと鍛えたぐらいの身体能力で、あのようなへろへろな突きや、隙だらけのダッキングやスウェーをしたら。
俺は空手をやってるんだ! と思っていても、そこいらの喧嘩自慢に簡単にやられてしまうでしょう。
自分や大切な人の身を守る。護身術と呼ばれるものが平和な時代に武道を学ぶ一番の理由であり本質です。
合理的に相手を殺すという技術は、自分や大切な人を守るためにだけ使用が許されるのです。
しかし、合理的に相手を殺すという恐ろしい技術が本質を失い、それっぽい動きをするスポーツになった時。実際にその技術を用いて大切な人を守る時。
失われた本質はその効果を発揮できないのです。
空手の本質からかけ離れた空手で、世界王者を倒した。その事で、このスタイルが海外で流行るのは目に見えています。
ただでさえ、本質をしっかりと捉えて指導できる指導者は少ないです。
競技として勝つだけのスタイルが流行った時、伝統派空手という存在は、自分の身すら守れないスポーツになるでしょう。
海外だけの問題ではありません。今後、変則的なスタイルの外国人選手が大会で活躍しだすと、それに対抗するために日本人もスタイルを変更する。
そういう可能性もゼロではありません。
今後10年20年と時を重ねた後、空手っぽい動きをするスポーツが、伝統派空手と名乗っていても不思議ではないのです。
番外編
ここからは本編と関係の無い事を書きます。興味の無い方は注意してください。
結局、『極め』って何なの? そう思われた方もいらっしゃると思います。
おそらくこれと言った正解は無く、流派の数だけ、指導者の数だけ答えがあると思います。
ですが、基準がないと考察のしようが無いと言う方もおられると思うので、私の解釈を書きたいと思います。
ぜんぜん違うぞ! と思われる方もおられると思いますが、あくまで私個人の解釈なのでそこらへんは暖かい目で見ていただけると嬉しいです。
私が極めについて科学的な理解をしたのは、昔見た動画でした。情報ソースは忘れてしまって提示できません、ごめんなさい。
アメリカの運動エネルギーを研究している科学者が、ボクシングの秘密を解き明かすという内容でした。
ボクサーでパンチが重い、そう言われている選手のパンチの重さとは何か? 曖昧な重さと言う物の秘密を科学で解き明かす。
そう銘打ったタイトルに引かれた私は、その動画を見て初めて、感覚的にやっていた『極め』を理論として理解しました。
当然ですが、人間には関節があります。相手を殴るとき、この関節がクッションの役割をして衝撃を分散させています。
パンチの威力が下がるのですが、同時に自分の腕も衝撃から守られていると言う側面もあります。
パンチが重いと言われている選手は関節でロスするエネルギーが少ないという結果が出ました。
ジョイント付きの棒で突くより、一本の棒の方が威力が高いのは簡単に理解できると思います。
関節は筋肉によって支えられています。今ではインナーマッスルという言葉はメジャーになりましたが、昔はそんな概念すらありませんでした。
このインナーマッスルが発達していると、関節をしっかり固定でき、パンチのエネルギーロスが減り、相手にしっかり衝撃が伝わるという結果でした。
空手の基礎練習の時、極めが弱い! 体をきゅっと絞って背筋を締めろ! と指導されていました。
あれは関節の固定を意識していたのだな。その時理解しました。
もちろん関節の固定だけでなく、インパクトの瞬間に拳を強く握ったり、突きがぶれないように筋肉を引き締めるという意味もあると思います。
某格闘漫画で、全身の関節を固定したら体重すべてが拳に乗る。という技が書いてありました。
実際はありえません、まぁ漫画なのでと言った感じですが。
全身の関節を固定する。たしかにイメージとしてはわかりやすいと思います。実際は土台となる下半身が反動でぶれない様にしっかりと踏ん張り、突きが対象物に衝突した反発でぶれて、衝撃が逃げないように体幹で引き締め、腕の関節の固定を意識して、突き衝撃を逃がさないようにする。
これを細かく説明していると長くなるので、全身を固定して衝撃を逃がさないようにするという表現になったのだと思います。
関節の固定を意識して始めて気付きました。空手がなぜ『突き』なのか。パンチを打つではなく『突く』。
関節の固定を意識する事で、拳や腕といったパーツではなく、腕全体を一本の棍や槍だとイメージして突くのだと。
拳をしっかり握らないと衝撃が逃げます。筋肉を締めないと突きがぶれます。関節の固定を意識しないと衝撃が分散します。
これらをすべて統合して『極め』と言うのだと思いました。
関節の固定以外はなんとなく理解していたのですが、最後のピースがそろったという感じでした。
よく空手の突きは威力がすごいなどと言われていますが、秘密は『極め』によりエネルギーのロスを少なくした攻撃にあったのです。
同じ力で攻撃してもロスが少ないほうが威力が出ます。
『わかりやすさ』を求めて淘汰された『極め』こそ、空手の突きを、突きたらしめる『本質』だったのです。