(九)
今だ、と雅は思った。
脩仁と刀を交えた暁光を見た雅は両足に力を込めた。
(迷うな)
隣に立つ景時に目配せは、一度。
彼の頷きで、雅は走り出した。
脩仁と刀を合わせて、暁光は立っている。その彼の横を通り過ぎる時、鼻を掠めたのは睡蓮の香り。その香りに胸が引き裂かれる思いがした。
自分は彼を裏切る。悲しませる結果になるかもしれない。それでも――引けない、と思ってしまった。
「雅殿!」
後ろから自分を呼び止める暁光の声がする。
彼にしては珍しい、切羽詰まった声。
いつもは静かに話す彼の、怒鳴り声に似たその声音に心が震えた。きっと彼が哀しむ。そう確信してしまった。
「行くな、――雅!」
その呼び声は、雅の心を弱くする。それでも雅は両手を握り締めることで、心を強く保った。
目前に迫り来る智重。
その目の焦点は、虚ろ。
それでも自分に向かってくる雅を見ると、口を開いた。その唇の隙間から見えた牙に、恐怖する。
――死ぬかもしれない。
そう、思った。
城の中で隠されるように育った。死からは遥かにかけ離れた場所で育てられてきた。その雅が初めて感じた死の気配は色濃く、彼女の本能を騒がせる。
それでも引けなかった。
智重と過ごした日々。いつも彼が暁光のことを教えてくれた。暁光の孤独もやさしさも、彼がいたからこそ雅は知った。
智重は暁光の友だ。その彼を、暁光に殺させることなど出来ない。
「智重!」
腕を広げる。
その自分の腕の細さに、雅は笑いそうになった。その左腕にある逆鱗を思い、雅は覚悟する。
(大丈夫)
だって。
(相手は、智重だもの)
意識は彼の身体の奥深く。
それでも彼であることに代わりはない。
いつも、やさしく、やわらかく、彼は微笑んでくれた。その彼であることに代わりはない。だから恐れることはないのだと思った。
伸ばした腕は彼の首を捕える。そのままきつく抱き締めて、雅は目を閉じた。
後方で暁光の声がする。
乞うように、雅を呼んでいる。
「智重?」
雅は彼を見上げて、微笑む。もしかしたら失敗しているかもしれないけれど。
「私が、貴方を助ける」
首筋に感じたのは、温かな吐息。
痛みを覚悟して、雅は目を閉じる。
首筋に走った痛覚は一瞬。
足元が崩れる。
地面に背中を強く打ちつけた。自分に覆い被さる影を見ながら、雅は自分の左腕を背の後ろへ隠した。
遠くで、暁光の声がする。
視線だけ、彼へ向けた。
(だめ)
貴方は、絶対にここへ来てはいけない。
雅は龍神だ。龍神の血は、龍神の逆鱗を消し去る。暁光は忌龍だが、確かなことが分からない以上傍に近付けるわけにはいかなかった。
脩仁と景時が彼を押さえていることを確認して、雅は瞳を閉じる。
(大丈夫)
だって。
(私は、貴方を独りにしない)
暁光の声に耳を傾けたまま、雅は意識を手放した。




