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(五)

 雅はそっと障子を開いた。その部屋の中央に置かれた褥の上では随分と回復したらしい脩仁が上体を起こしていた。



「脩仁さん、起きていたんですね」


「……おう」



 脩仁はぶっきら棒に雅に返す。


 その声に苦笑しながら、雅は彼の傍に腰を下ろした。


 沈黙は数秒。


 耐えられなくなったように、脩仁が問うた。



「暁光はどうした?」


「智重のところに行かれました」


「そうか……」



 頷いた脩仁が不意に顔を歪めた。そして手をぎゅっと握りしめる。それを見た雅は彼に一歩近づく。



「傷が痛みますか?」


「当たり前だろーが」



 苛立ったように告げた彼に雅はため息を落とす。



「私の血を口にすれば治るかもしれないのに……」



 そう口にしたところで雅は息を止めた。



「テメェなあ、いい加減にし――どうした?」



 額に青筋を浮かべた脩仁も雅の様子を見ると眉根を寄せて、彼女の顔を窺った。


 雅は自分の言葉を口の中で繰り返す。


 そしてゆっくりと瞬きを一度。



「……――私の、血」


「……」



 雅は、龍神だ。


 この血は何度人を救ってきただろう。



「何考えてやがる」


「……龍神の血は不治の病をも治すとされています」


「テメェ、まさか……」



 脩仁が悟ったように目を見開く。


 雅はその彼に微笑んだ。



(何で今まで忘れていたのだろう)



 ここではあまりに皆が『人』として接してくれるから、忘れていたのだろうか。それとも余りにも唐突な出来事が多すぎてそれを考えるに至らなかった、か。


 だが今はそんなことはどうでもいいのだ。


 救える、――そう思った。


 雅は決意と共に立ち上がる。



「私、行ってきます」


「おい!」



 脩仁が声を発する。それが止めるための声だと分かっていた。だが雅はやめるつもりなどない。


 自分の身体で、救うことができるかもしれない。


 雅は部屋を出るために踵を返す。後ろで立ち上がろうと苦戦する脩仁の呻きが聞こえるが雅は振り返らなかった。



「待て、雅!」



 だが不意に叫ばれた名前。


 雅は驚きのあまり足を止め、振り返った。



「脩仁さん、今、名前……」


「っ、今はそんなことどうでもいいだろーが!」



 脩仁は顔を真っ赤に染めて叫ぶ。その彼に目をぱちくりとさせる雅に、脩仁は真剣な表情で問うた。



「暁光がテメェを連れて行かなかった理由がわからねえのか?」


「……」


「俺が知ってるってことは、暁光も智重も知ってるんだろ。テメェがその龍神って奴だってことを」



 雅はそれに静かに頷く。


 脩仁は短い舌打ちを一つ打ち、言った。



「だが二人ともお前を頼らなかった。その理由は簡単だ。――テメェを巻き込みたくなかったんだろ」



 そうなのだろう。


 暁光と智重が考えなかったはずがないのだ。雅が龍神だと知り、その血が何を齎すのか。知っていて、きっと彼らは頼らなかった。



「それを分かった上で、行くのか?」


「行きます」


「……」



 雅の声に迷いはない。


 その彼女の瞼の裏に蘇る、暁光の姿。


 痛みを受け止め、その瞳を覚悟と決意に燃やす彼。その背に背負う重荷と沈痛を思えば、自分の血を誰かに与えることなど苦痛ではない。



「智重は暁光さまの友です。友を自らの手で殺して、それでは暁光さまは救われない」



 今まで雅は相手に頼まれてから誰かを救ってきた。


 だが今は違う。


 自ら、そうしたいと願った。誰かを救いたいと思った。



「私は暁光さまの妻です。妻は、夫を支えるものでしょう?」



 護られてばかりではいられないのだ。


 支えるために、支え合うために、雅は可能性を諦めたくなかった。


 そんな雅の決意が通じたのだろうか。脩仁は深いため息を一つ落とすと言った。



「着替える。手伝え」


「え?」


「俺も行くっつってんだよ」


「でも……」



 脩仁は顔を歪め、息を止めると同時に身体を起こしている。その彼を遠目に見て、雅は首を傾げた。



「その身体でどうやって馬に?」


「っ!」



 脩仁はハッとした表情で雅を見遣る。


 馬に乗るのは意外と体力が必要だ。乗馬をあまりしたことのない人物は翌日には体中の筋肉が痛んでしまうほどに。


 雅の視線の先で脩仁は目を泳がせていた。



「それは、あれだ。……気合で」


「無理です。私が意地で馬に乗った方が――」


「テメェの意地で乗るくらいなら俺が気合いで馬に乗る方が早ぇだろ!」



 そう叫んだ声は傷に響いたらしい。脩仁は横腹の傷口を抑えて、動かなくなった。


 だが脩仁の言う通りだ。雅は一人で馬に乗れない。だが先ほど暁光に渡した智重の文に書かれていた場所には馬に乗らなければ行けないだろう。そうしなければ、雅が辿り着く前に暁光が智重を殺してしまう。


 どうすれば良いのだろう。


 そう思っていた時だった。



「騒々しい奴らだな」


「景時……」



 開いた障子。そこから現れたのは不快そうに顔を顰めた景時だった。


 彼を見た雅の脳がある考えを生み出す。雅は思案する間もなく、景時の傍に駆け寄った。



「景時、お願いします」



 雅は両手を組み、頼む。



「私に、力を貸してください」



 景時は眉を寄せている。


 彼は少しの沈黙の後、冷たく告げた。



「お前のしようとしていることが暁光の意思と反するのならば、俺は手を貸せない」



 その台詞で、雅に迷いが生まれる。


 自分のしようとしていることは、きっと暁光の意思に反するだろう。素直に話せば景時は協力してくれないかもしれない。何せ、景時はこの屋敷で唯一、友ではなく暁光の家臣としてここにいるのだ。自らの領主に逆らうことなど、彼にできるだろうか。


 雅が逡巡していると、目前に立つ景時が深いため息をついた。



「――それで、」



 その声に顔を上げた雅が見たのは。



「お前は何をしようとしてる?」



 不敵に微笑む、景時だった。

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