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(七)

 昼間庭を濡らした雨の匂いが夜の帷を満たしている。朝方のような清々しい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、雅は縁側から庭を眺めていた。


 屋敷の中は、いつもよりもさらに濃い静寂に包まれている気がする。これも、今朝方脩仁が傷を負ったことが関係しているのだろう。仲間の一人が誰かに殺されかけたのだ。それで陽気にしていられるような皆ではないことを雅は知っている。


 彼らは今まで支え合ってここまで生きてきた。島流しにされた暁光をここに住まう四人は支えてきたのだ。そして、また皆は暁光の存在を道標に生きてきた。それは少しの間しかこの場で生活していない雅にも分かる。だからこそ、誰もがこの環境を壊したくないと願っていることも、痛いほどに感じていた。


 焦燥感に似た不安が胸の中で渦巻いている。見上げた夜空には既に雲はない。その代わりに、雅の心におぼろげな霧がかかっている。


 信じていたいと思った。その想いを強くするために、雅は歩き出す。落とした視線の先には、足袋を纏った自分の白い足が見えた。



「雅殿」



 名を呼ばれ、顔を上げる。暁光だった。帰って来たばかりなのだろうか。昼間と変わらない服装の彼はわずかに険しい顔をしている。



「今朝は驚かせて悪かった」


「いえ……」



 貴方は何も悪くないのだと言おうとした唇が、固まった。同時に込み上げた涙を飲み込んで、雅は唇が震えないように祈る。真っ直ぐに顔を上げた。暁光の瞳と目が合う。


 綺麗な瞳の色だと思った。今では、こんなにもこの人に惹かれている。この瞳にはきっと嘘など全て見抜かれてしまう。静観するような彼の瞳を受け止めて、雅は口を開いた。



「暁光さまは……」


「……」


「私に、何か隠しておいでですか?」



 暁光は黙然としている。彼の返答を静かに待つべきだったのだろうが、雅にはできなかった。静寂が圧迫に感じられ、途端に彼の存在を怖がってしまいそうな自分を知った。それが恐ろしく、雅は言葉を続ける。



「私も自分が龍神であることを黙っておりました。だからといって、貴方様の抱えているものを全て晒してほしい、というわけではないのです。ただ――」


「雅殿」



 暁光が雅の言葉を遮った。雅は口を噤むと同時に、息を飲んだ。その彼女を見据えて、彼は言う。



「疲れているようだ。早く休んだ方が良い」



 彼の瞳に映るものは、怒気ではなかった。軽蔑でもなかった。だが、確かな制止を彼の瞳が放ち、彼の唇は雅の思考を拒絶する。


 雅はそれ以上彼に問いかけることができず、小さく頷いた。



「はい。少し、智重と話してから寝ます」


「……智重と?」


「はい。少し、伺いたいことがあるのです」



 暁光は目を細めて、雅を見ている。何かを探っているというよりも、考え事をしている様子だった。


 失礼します、と告げて横を通り過ぎようとすると、暁光に呼び止められた。



「智重に、後で俺の部屋に来るように伝えてくれ」


「……分かりました」



 暁光に背を向けて歩き出す。雅はその背に彼の視線を感じていたが、振り返ることなどできなかった。


 智重の部屋を訪れると、彼は小さな灯りの許で何かの書物を読んでいた。目を悪くしそうだと思ったが、雅はそれを口に出さずに、ただ彼の名を呼ぶ。



「智重」



 振り返った彼に、少し話をしたい、と言えばいつものやわらかな微笑で彼は部屋に招き入れてくれた。そのやわらかさに、雅は昼間の脩仁の台詞が頭を過った。


 自分はひどいことをしようとしているのかもしれない。だが彼を信じていたいからこそ、このままではいられなかった。


 書物を引き出しの中に仕舞う彼を見ながら、雅は尋ねた。



「昨日の夜、どこに行っていたのですか?」


「昨晩ですか?」


「はい」



 雅は智重の様子を何一つ見逃さないように見詰めた。だが、彼は動揺する様子などなかった。いつもの穏やかさで、陰りのない微笑を浮かべて言った。



「私は部屋で寝ていたはずですよ」



 形のない恐怖が雅の皮膚の上を這った。そんな彼女に目を向けず、智重は縁側に出て行く。



「雅様、今晩は月が綺麗ですよ」



 誘われるように部屋を出ると、確かに空に浮かぶ月は綺麗だった。白い光を放ち、濃紺の空を照らしている。



「でも、まだ少し欠けておりますね」


「ふふ。そうですね」



 雅に返された智重の声は、いつもと変わらない。そっと顔を盗み見ても、そこにある表情も何一つ。


 昨晩自分が見たものは、人違いだったのだろうか。雅はだんだんとそんな気になってきた。彼と過ごした時間を思い出せば、その考えの方が相応しいような気がするのだ。



「智重」



 呼びかけて、智重が雅を見た。目が合う。その彼の瞳を見詰めたまま、雅は尋ねた。



「智重は、どうしてこの屋敷に?」



 それは、今まではぐらかされていたことだった。だが今晩の智重は違った。


 彼は眉根を寄せる、どこか困ったようにさえ見える微笑みを浮かべて、口を開いた。



「暁光には恩があるのです」


「恩?」


「ええ」



 それは景時が道場で話していたことと何か繋がりがあるのだろうか。雅が再び尋ねる前に、視線を空に戻した智重は言った。



「私は、それを返すためにここに来ました」


「……恩は、返せたのですか?」


「どうでしょうか」



 智重は首を傾げる。その彼が、どこか寂しげに見えた。



「今度、暁光に訊いてみます」



 そう冗談のように言って、智重は笑った。それからふっと息をつくと彼は再び口を開く。



「雅様は、」



 問いかけは、呟くほどの声で。



「ここに来て、何かが変わりましたか?」


「……はい」



 答えて、自然と浮かんだのは笑顔だった。



「ここでは、私を『人』として扱ってくれるので。とても幸福です」


「……そうですか」



 智重も穏やかな微笑を浮かべる。そのやわらかな表情に、なぜか心に広がっていた靄が解かれていくようだった。


 大丈夫だと心の中で呟きながら空に視線を投げる。瞬く星は白く輝き、闇を照らしていた。その光にふっと心を綻んだ、その時。


 智重が、膝をついた。



「智重?」



 呼びかけながら、雅は同じようにその場に膝をついた。彼の顔を覗き込む。彼は自分の首元を抑えて、苦しそうに唸っている。額に滲んだ汗が、彼の苦しみを表していた。


 そういえば、先日もこうして苦しそうにしていたのを雅は見かけた。少しでもつらさが和らぐようにと雅はそっと彼の背を撫でる。



「どうしたのですか? 具合が悪いのですか?」


「大丈夫です……直ぐに、よく……――っ」



 そこで、声は途切れた。


 自分の首を抑えていた智重の手が静かに身体から離していく。その動作があまりに緩慢で、雅は怪訝に思う。



「智重?」



 身体を起こした智重。同じように立ち上がった雅は彼の瞳を見て、ぞっとした。その瞳があまりに黒々としていた。虚ろなその双眸には、見覚えがあった。



(――餓鬼!)



 この島に古くから存在する病。智重の生まれも、――この島だ。


 雅の肩に触れた智重の手。振り解こうと抵抗したが、男の力に敵うはずもなかった。



「智重っ」



 呼び声虚しく、雅は智重に体を押された。床から足が離れる感覚。直後、床に後頭部を強かに打ちつけた。視界がぐらりと大きく揺れた。同時に打ち付けた背中。勢いよく吐き出した空気。苦しさに、身体が痺れた。それでも雅は本能のまま腕を動かし、智重の肩を押し返す。



「やめ……」



 下ろされた着物。肩口が月夜に露わになる。羞恥よりも、首筋に触れる彼の生温かい吐息に恐怖した。


 だが叫ぼうと勢いよく息を吸い込んだ雅は、口を閉じる。その気配に気付いた智重の動きも、一瞬止まった。その一瞬の間に、雅は智重の背に落ちた影に気付いた。影の伸びた先を視線で辿る。そこに佇んでいたのは、赤い瞳。



「暁光、さま……」



 名を呼ぶと同時に耳を打ったのは、金属の音。暁光が鯉口を切ったのだと気付いた雅は目を見開く。だがそれに気付いたのは雅だけではなかった。智重もまた、その気配を感じ、雅の上から飛び降りた。そのまま庭の方へと駆け出す。その背を追おうとする暁光の右手には、抜き身の刀があった。



「暁光さま!」



 考えるよりも先に、身体が動いた。着物の裾で転びそうになりながら、雅は庭に下りた暁光の腰へ素足が汚れることも忘れて抱き着いた。



「っ!」



 すがりつく雅の身体で、暁光が足を止める。その間にも逃げ行く智重の背は遠くなる。



「待て、――智重!」



 去りゆく友の名を叫びながらも、暁光は雅を振り解かなかった。自分の胴に腕を回す彼女の腕に左手を添える、そのやさしさに雅は胸が裂かれるようだった。


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