第四話 与えられた攻略本
「アレキサンドライト、眠れないのか?」
ベランダに出て夜風を感じていた彼女の肩を抱いたのは、夫のジラソーレだった。
「はい…明日には、妹達がこちらに来るので、つい嬉しくて」
スファレライトとの婚約解消の次の日、アレキサンドライトは逃げるように隣国へ留学した。
これほどまでに速やかに動けたのは、ずっと前から準備をしてきたからに他ならない。
八歳の時、アレキサンドライトは、突然スファレライトに突き飛ばされて地面に転がされた。
その瞬間、それまで疑ってすらいなかったスファレライトへの好意が、全て消えてしまったことに驚いた。
あれから、何度も、彼を愛そうと努力したが、無理だった。
そして1年が経ったある日、エメラルドが、見慣れない本を携えて彼女の元を訪れた。
「おねーしゃま、どーじょ」
三歳年下の妹から手渡されたのは、一冊の手書きの本。
表紙には、
『攻略本』
と書かれていた。
「エメラルド、これは?」
「てんししゃまが、くれたの」
六歳のエメラルドが言うには、教会で迷子になった時、助けてくれた天使のような少年から渡されたらしい。
「おねーしゃまに、わたしてねって」
アレキサンドライトは、恐る恐る中を開けてみた。
すると、なんと1ページ目には、彼女が秘密にしていることや、思い出の品を入れた宝箱のことが書かれていた。
そして、最後に、
「もし、救われたいなら、僕を信じて」
という一文が添えられていた。
理知的な人間なのだと分かる美しい文字。
恐ろしく感じながらも、アレキサンドライトは、読み進めるのを止められない。
本の内容は、これから起こる出来事が中心だった。
そして、それに対して、どう行動すれば、どんな成果が得られるのか。
特に、スファレライトから離れる為の方法に関しては、細かく指示が書き込まれていた。
プライドが高く、自分が傷つくことに慣れていない彼は、優秀過ぎる婚約者に対して劣等感を抱くようになるだろう。
あれこれと禁止し、自由を奪おうとするが、逆らってはならない。
命令には従うが、決して、相手のご機嫌取りなどしてはいけない。
常に彼を上回るよう努力して、奴の気分を逆なですること。
そうして、命令には、奴隷のように従うこと。
そうすれば、奴は君へ愛情を抱くことなく、興味を失い、自ら婚約者より魅力的に見える女に乗り換えるだろう。
予言のような断言が並ぶ『攻略本』に、アレキサンドライトは、思い当たる節があり、唇を噛んだ。
この1年、なんとか会話の糸口を掴もうと、作り笑顔を浮かべ、スファレライトの後ろを必死に追いかけてきた。
しかし、全く相手にされず嘆き悲しむ日々。
自分が辛そうな表情を浮かべるほど、スファレライトは、歪んだ笑みを浮かべていた。
虐めることに、喜びと嗜虐的な愛情を見いだしている人間の顔に見えた。
愛そうにも、相手がこれでは、信頼関係すら築けない。
しかも、スファレライトの傍若無人ぶりは皆の知る所だったが、何故か両親は婚約解消をしてくれなかった。
この本の筆者が言うように、相手から婚約解消を申し出てもらえれば、どれだけ良いだろう。
どうせ、駄目で元々だと、アレキサンドライトは、この『攻略本』に従いスファレライトの理不尽な命令に逆らうことを止めた。
髪を切られても、剣を奪われても、何も言わずに大人しく従った。
そうすると、禁止できることが一つもなくなり、スファレライトは、アレキサンドライトで鬱憤を晴らすことが出来なくなっていった。
そんな彼の元に、可憐で美しいと評判のガーネットが近づいていった。
既にスファレライトに対する愛情の一欠片も残っていなかったアレキサンドライトは、早く奪って欲しいと心から願っていた。
そして、『攻略本』の指示に従い、逃亡の準備を始めた。
先ずは、隣国フィオレの留学生受け入れ制度に応募した。
九歳で、この本に出会った時、既に、フィオレ語習得を指示されていたのだ。
母国語並みに読み書きが出来る彼女は、長年密かに研究してきた「花の栽培における肥料の役割」についての論文をフィオレ語で書き上げた。
九歳から十六歳まで、様々な種類や配合を試し、安価で、それでいて成果を得られる肥料を探し続け、その過程と実験内容を事細かに記録していたからこそ出来たことだ。
それは、直ぐに女性審査官の目にとまり、彼女の個人名で、アレキサンドライトに直接封書が届いた。
何故なら、論文の最後に、毒親に知られると、留学が危うくなることを書いていたからだ。
自身も親のことで苦労した審査官は、アレキサンドライトに親身になってくれ、無償での留学資格も得ることが出来た。
『攻略本』には、指示は書かれているが、何を研究し、どんな論文を書けとは書かれていない。
これは、アレキサンドライトの努力が掴んだ未来への片道切符だった。
その後、フィオレに入国した日、体が驚くほど軽くなっていた。
『攻略本』に書かれていた『強制力』が、完全に抜けたのを感じた。
それからは、何事も、自分の思うまま自由に考え行動することが可能となり、本当の恋を知ることとなる。
まさか、同じクラスに王太子がいるとは思っておらず、彼と恋に落ちるとも思っていなかったが、今、アレキサンドライトは人生で一番幸せだった。
「早く、妹達にも、自由になって欲しいわ」
夫の胸に顔を寄せながら、アレキサンドライトは、美しい微笑みを見せた。




