第73話 二人の暮らしがばれました
柴田さんへの説明はひとまず後回しにして、夏樹の体温を測った。
「三十七・八度か……」
微熱っちゃ微熱だが、微熱と呼ぶにはちょっと高い。どうも熱が上がり始めている途中らしく、夏樹もしんどそうだ。
「今日はもう寝とけ」
「はぁ~い……」
素直だ。元気な時もこのくらい素直なら――いや、余計なことを考えるのはやめよう。
夏樹をベッドに寝かせ、枕元にスポーツドリンクを置く。常温のものと、冷凍庫で凍らせておいたものの二種類だ。喉の調子に合わせて好きな方を飲めばいい。
「何か食えそうか?」
「今はいらない……」
「わかった。夕飯はバイトから帰ってきてから作るよ。今日は早めに上がらせてもらうから」
「ごめんね……」
「謝るくらいなら寝ろ」
「はぁい……」
汗もかいたらしいので、今は柴田さんが身体を拭いてくれている。こういう時、女子がいてくれるのは非常にありがたい。俺がやったら、いろいろと問題が発生する。主に社会的な意味で。
その間に俺はキッチンへ向かい、卵を取り出した。食欲が戻った時、少しでもつまめるものがあった方がいいだろう。作るのは、冷めても美味いだし巻き卵。卵を割り、出汁と薄口醤油、少量の砂糖を加えて丁寧に混ぜる。
「やっぱり出汁だよな……」
病人にも優しく、冷めても美味い。出汁は日本人の心だ。
……異論は認める。
なんだかんだしているうちに、予定より家を出る時間が遅くなってしまった。
夏樹が寝たのを確認して、念のため薬と飲み物の場所をもう一度伝え、店長にも少し遅れると連絡して――なんてやっていたら、走って食堂へ向かうには少々厳しい時間になっていた。
仕方なく、今日は車だ。
「車の運転までできるのね……」
助手席に座った柴田さんが、妙に感心したように言った。
「この国では十八歳になったら免許取得できるだろ?」
「それはそうだけど……。慣れたものね」
「まぁ……親父にしょっちゅう運転させられたからな」
ウインカーを出し、夕方の住宅街を抜けていく。傾き始めた太陽が家々の屋根を橙色に染めていた。道路脇には長く伸びた電柱の影。部活帰りらしい学生が自転車で走り、犬の散歩をするおじさんがのんびり歩いている。窓越しに流れていく景色だけを見れば、実に平和な夕方だ。
「ご両親は海外で仕事しているのよね?」
「まぁ、そうだな。今は中東で治安があまり良くない地域にいるそうだ」
「……それ、大丈夫なの?」
「本人たちは大丈夫だと言ってる。問題はよく仕送りが滞ることだ。あれは本当に困る」
「心配するところ、そこなの?」
いや、連絡は取れてるんだから大丈夫だろ。生活費は待ってくれないんだぞ。
「それがきっかけで萌の家の食堂を手伝うことになったのよね」
「ま、そうだな」
信号が赤になり、ゆっくりブレーキを踏む。横断歩道を買い物袋を下げたおばあさんが渡っていく。その向こうでは夕飯時を前にしたスーパーの駐車場へ、何台もの車が吸い込まれていた。
平和だ。実に穏やかである。車内にも小さな音量でラジオが流れている。
このまま食堂まで何事もなく到着したい。
「で?」
「で? とは?」
嫌な予感がした。
信号が青になったので車を発進させる。前方よし。左右よし。法定速度よし。運転に集中しよう。
「いつから夏樹と一緒に暮らしているの?」
「…………」
夕日に染まる美しい街並みとは裏腹に、助手席から発せられる圧力が一気に増した気がする。
「一緒に暮らしているという表現には、若干の語弊が――」
「いつから?」
「…………」
柴田さん。まだ俺、何も答えてないよね?なのになぜ二回目は語気が強くなったんでしょうか。
ちらりと助手席を見る。
笑顔。
うん。怖い。
夕暮れの街は今日も穏やかだ。西の空には薄い雲が浮かび、その向こうで夕日が赤く輝いている。対向車も安全運転。歩行者も穏やか。世界はこんなにも平和なのに――。
なぜ俺の車内だけ、これから尋問が始まりそうなんだろうか。
「うーん……。いつからっていうのは、なかなか難しくてな」
「そんなに昔から一緒に暮らしているの!?」
「そんなわけないだろ……」
何でそうなる。俺は前方を確認しながら、緩やかなカーブに沿ってハンドルを切る。
「俺たちは幼馴染だろ? うちも夏樹の両親も仕事柄、家を空けることが多くてさ。昔からしょっちゅう夏樹が家に泊まりに来てたんだよ」
「いつ頃から?」
「うーん……」
改めて聞かれると難しい。昔は両親が家にいる時もあったし、夏樹の両親が不在ならうちで夕飯を食べるなんてことも珍しくなかった。
「はっきり覚えてないけど、中学の頃には二人で過ごすことが多くなってたかな」
「結構前からじゃない」
「そうかなぁ~……」
「そうよ」
断言された。
夕暮れの住宅街を抜ける。西日を受けた田んぼが黄金色に光り、その間を一本の細い農道が伸びている。遠くの山は少しずつ藍色を帯び始め、空には夕焼けと青空が混じった綺麗なグラデーションが広がっていた。
実に穏やかな景色だ。なのに助手席から飛んでくる質問には、穏やかさの欠片もない。
「夏樹が悲しむようなことはしてないでしょうね?」
「悲しむこと?」
「無責任な関係になるということ」
「無責任な関係?」
何の話だ?
「……何よ、その顔」
「いや、何のことだか分からんが、極力、夏樹のプライベートは守るようにしてるぞ」
「そういう意味じゃ……まあいいわ。続けて」
「俺は基本的に家じゃ本を読んでるから、こっちから話しかけることもほとんどないしな」
「本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ……」
疑われる要素がどこにある。
「俺の部屋は二階で、夏樹が使ってる部屋は一階だ。というか、そもそも夏樹の部屋じゃないんだけどな」
「どういうこと?」
「元々は客間だったんだよ。なのにあいつが着替えを置き始めて、化粧品だの漫画だのクッションだの、どんどん私物を持ち込んでさ。今じゃ完全に自分の部屋みたいになってる」
「夏樹……なかなか強かね……」
「だろ?」
分かってくれるか。俺の家なのに、徐々に領土を侵食されているんだぞ。
「最近なんて、俺が動画編集で部屋にこもってると勝手に入ってくるからな」
「……山神の部屋に?」
「あぁ。俺がパソコン触ってる横で、ベッドに寝転がって漫画読んだり、スマホ弄ったりしてる」
「…………」
「しかも、そのまま寝落ちするんだよ。あれが困るんだ」
「ちょっと待って」
「何だよ」
「部屋で二人きりで過ごしているの?」
「あのなぁ……」
思わずため息が出た。
「そもそも家には俺たち二人以外いないんだよ。俺の部屋だろうがリビングだろうが、二人きりなのは変わらんだろ」
「それはそうだけど……」
「むしろ柴田さんからもあいつに言っといてくれよ。寝る時は自分の部屋に行って寝ろって」
「え?」
「俺のベッドで寝落ちするから、俺が寝られないんだよ」
「起こせばいいじゃない」
「起こしても起きない」
「じゃあ……運んであげれば?」
「嫌だよ。面倒くさい」
「…………」
「何で寝落ちした奴をわざわざ担いで、一階まで運ばなきゃならんのだ。階段で足滑らせたら危ないし。だから俺がリビングのソファーで寝てる」
「あなた、それ本気で言ってるの?」
「本気だよ」
何をそんなに呆れているんだ。合理的な判断だろ。
赤信号で車を止める。横断歩道を部活帰りらしい中学生たちが楽しそうに渡っていく。その向こうでは夕飯の買い物帰りなのか、自転車の籠いっぱいに袋を積んだおばちゃんが走っていた。
ちらっと柴田さんを見る。何とも言えない顔をしている。
「……夏樹、不憫だわ」
「何でだよ」
「何でもない」
「気になるだろ」
「知らなくていいわ」
何なんだ。
柴田さんは小さくため息をついた。さっきまで俺を取り調べる刑事みたいだったのに、今度はなぜか疲れ切った教師みたいになっている。
「まあ……でも」
柴田さんの声が少しだけ真面目になった。
「変なことになってないなら、それでいいわ」
「変なこと?」
「高校生なんだから、勢いだけで後悔するようなことになってほしくないってことよ。特に夏樹にはね」
「よく分からんが、夏樹が嫌がることをするつもりなんてないぞ」
「……そうでしょうね」
「何だよ、その反応」
「あなたと話していると、心配していた自分が馬鹿みたいに思えてくるのよ」
「失礼だな」
「褒めてないわよ」
「知ってるよ」
信号が青になる。ゆっくりアクセルを踏み、再び車を走らせた。夕日はもう山の稜線に触れようとしている。家々には少しずつ明かりが灯り始め、どこからか夕飯を作っているらしい香ばしい匂いが漂ってきた。
もう少しで食堂やまもとだ。助手席では柴田さんが窓の外を眺めながら、もう一度深いため息をついた。
「……あなた、そのまま過ごしていたら三十歳で魔法使いになりそうね」
「何を言ってるのかさっぱり分からんぞ?」
「でしょうね」
今度は哀れむような目を向けられた。
何でだ。俺、何か間違ったこと言ったか?
食堂やまもとの近くにあるパーキングへ車を停め、柴田さんと並んで店へ向かう。
「まあ、お互いのご両親が知っていて認めているなら、私がこれ以上言うことでもないわね」
「そうしてくれると助かる。あと、このことは黙っといてくれよ?」
「どうして?」
「学校で広まったら俺が死ぬ」
「ああ……」
なぜそこで即座に納得する。
「特に高原たちには絶対言うなよ。箝口令だ」
「分かったわ。夏樹のためにも黙っておく」
俺のためにも黙ってください。
そんな話をしているうちに、食堂やまもとへ到着した。引き戸を開けると、すでに店内には出汁と焼き物の香ばしい匂いが漂っている。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
俺と柴田さんが挨拶すると、厨房から店長と奥さんが顔を出した。
「お疲れ様~! 今日もよろしくね!」
「よろしくお願いします」
「今日もよろしくお願いしま~す!」
ホールの奥からは山本さんの元気な声。
うむ。今日も食堂やまもとは平常運転だ。
「じゃ、着替えるか」
「そうね」
俺は厨房用、柴田さんはホール用の制服にそれぞれ着替える。
今日こそ平和なアルバイトになりますように。
……最近、この願いが叶った記憶がないんだけどな。
営業再開当日よりはマシ。確かにマシではある。ただし、暇とは一言も言っていない。
「二番テーブル、焼肉定食二つお願いしまーす!」
「はーい!」
「三番テーブル、お冷追加です!」
「私が行くわ!」
「山神君、こっちの野菜切ってもらえる?」
「はい!」
店内には食器の触れ合う音、注文を伝える声、客の笑い声が絶えず飛び交っていた。満席に近い店内を山本さんが縦横無尽に動き回り、その後を柴田さんが追う。いや、追うというより、今では別ルートを担当して見事に連携している。
「萌、四番お願い!」
「はい! 直美ちゃん、五番のお客さんのお会計お願いできますか?」
「分かったわ!」
すげぇ。いつの間にそんな連携技を身につけたんだ。しかも二人とも忙しそうなのに楽しそうだ。
常連客から「萌ちゃん頑張れよ!」なんて声が飛べば、山本さんは「頑張ってまーす!」と笑顔で返し、柴田さんには「直美ちゃんもすっかり板についたな!」と声がかかる。
「ありがとうございます。でも、注文は増やさないでくださいね?」
「そりゃ無理だ! 生中追加!」
「もう!」
店内に笑いが起こる。
平和だな。忙しいけど。
俺は厨房で店長の横に立ち、注文の入った料理の下ごしらえを進めていた。
「山神君、そっちお願い」
「はい。もう切ってます」
「早いねぇ」
店長が炒め物を仕上げている横で、俺は野菜を切り分け、次の注文に備える。そんな最中、店長がふと思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、夏樹ちゃんの様子はどうだい?」
「だいぶ良くなってはいるんですが、まだ微熱がくすぶってる状況ですね。たぶん今日も安静にしてたら、明日には治まると思うんですが……」
「そうか。心配だけど、良くなっているなら安心だね」
「ご心配おかけしてすみません」
「いいんだよ。病気なんて誰でもするんだから」
店長はそう言いながら手際よく料理を皿に盛りつける。
「あ、そうだ!」
「はい?」
「今日の賄い、持って帰ってあげてくれないかい? 消化に良くて栄養満点の、自慢料理なんだけど」
「いいんですか? ありがとうございます」
「いいよいいよ。こういう時はしっかり食べて、しっかり寝るのが一番だからね」
「私も風邪を引いた時、いつも作ってもらうんです!」
いつの間にか料理を取りに来ていた山本さんが会話に参戦してきた。
「とっても美味しくて、食欲がなくても食べられちゃう不思議な料理ですよ! それを食べたら風邪なんかすぐに治っちゃいます!」
「薬より強そうだな」
「はい!」
肯定するのかよ。医学界に喧嘩を売るのはやめておこうな?
「そうなんだ。夏樹も喜ぶと思う。ありがとう」
「はい!」
「萌~! 六番テーブルのバッシングお願い~い!」
ホールから奥さんの声が飛んでくる。
「は~い! すぐにいきま~す!」
山本さんは完成した料理を持つと、くるりと方向転換してホールへ向かっていった。
……本当に走るなよ?朝の『駆け回ります』が比喩だったことを、俺はまだ信じてるからな。
「いらっしゃいませ!」
山本さんの元気な声が店内に響く。新しい客かと思って何気なく入口へ目を向けると、そこに立っていたのは川村と西海だった。
……本当に来たのか。
「こんにちは! 山本さん。言っていた通り来てあげたぞ」
「あ、西海君、川村君、いらっしゃいませです!」
来て『あげた』ねぇ……。相変わらず微妙に引っかかる言い方をする奴だ。まあ、金を払って飯を食ってくれるなら客には違いない。俺が気にすることでもないか。
「あら? 萌の知り合い?」
奥さんが二人を見ながら尋ねる。
「はい! 同級生です」
「そうなの。じゃあ、八番テーブルへ案内してあげて。お二人さん、ゆっくりしていってね?」
川村は奥さんに軽く会釈した。一方、西海はちらりと見るだけ。
……対照的だな、お前ら。
「こちらへどうぞ~」
山本さんが先導し、二人がその後ろについていく。
「本当に来たのね……。来なくてもいいのに」
料理を運ぶため厨房まで来ていた柴田さんが、ぼそっと呟いた。
「こらこら。お客さんに向かって来なくてもいいとか言わない」
店長が苦笑しながら窘める。
「……はーい」
まったく反省してなさそうな返事だ。俺は笑いそうになるのを堪えながら、切りかけの野菜へ視線を戻した。
「あの子、株式会社西海さんとこの息子さんだったかな?」
店長が包丁を動かしながら何気なく聞いてくる。
「えぇ。そうですよ」
「やっぱりそうかぁ」
店長はそれ以上特に気にした様子もなく、再び料理へ集中する。御曹司だろうが高校生だろうが、この店に入れば等しく一人の客。たぶん店長にとっては、その程度なんだろう。
……まあ、俺としても、面倒なことさえ起こさず普通に飯を食って帰ってくれるなら、それでいい。普通に帰ってくれるなら、な。
八番テーブルに案内された西海と川村は、向かい合ってメニューを眺めていた。こうして客として座っている姿を見ると、二人とも普通の高校生に見える。
……いや、川村は普通じゃないかもしれん。
「ねえ、あの子、格好よくない?」
「高校生かな?」
近くのテーブルに座っていた若い女性客が、小声でそんなことを話している。
川村は背も高いし、サッカー部のエース。黙って座っていれば爽やかな好青年だ。黙っていれば。本人は視線に慣れているのか、特に気にした様子もなくメニューを眺めている。
「もう一人の子はあまり見かけないな」
店長も二人の様子をちらりと確認する。
「あれは西海君ですよ。川村君といつも一緒にいる仲良しさんです」
料理を運びに来た山本さんが答えた。
「へぇ~。じゃあ、彼もサッカー部なのかい?」
「そうですよ。川村君ほど注目されていませんけど、球技大会の時は結構目立っていました」
「あれは悪目立ちよ」
即座に柴田さんが割り込んできた。柴田さん、西海の球技大会での一件をいまだに根に持っているからな。
「山神へのラフプレーを私は忘れないわ。もう少しで大怪我するところだったんだから」
「へぇ~。球技大会といえど真剣勝負だったんだね。勝負事になると、夢中になってしまう部分があるからね」
店長はあくまで穏やかだ。
「どうだか……」
対する柴田さんの声は低い。
怖い怖い。
俺は我関せずとばかりに、まな板の上のキャベツを刻む。千切りキャベツは何も悪くない。俺は今日もキャベツと平和に向き合うのだ。
「山神君はどう思ってるんですか?」
「へ?」
突然山本さんに話を振られ、包丁を止める。
「西海君のことです。球技大会の時、危なかったじゃないですか」
「どう思ってるも何も……」
俺は八番テーブルへ視線を向けた。西海は川村と何か話しながらメニューを指差している。
「俺は大怪我せずに済んでるんだし、球技大会は終わったことだろ? なんとも思ってないぞ」
「……山神らしいわね」
柴田さんが呆れたように言う。
「なんだよ」
「別に」
「その『別に』は絶対何かある奴だろ」
「別に?」
「ほら二回目!」
こいつ、絶対楽しんでやがる。店長は俺たちのやり取りを見て、くすくす笑いながら鍋を振っていた。
「まあまあ。何事もなかったなら良かったじゃないか」
「そうですよ! 山神君が怪我していたら大変でした!」
「おお。ありがとう」
「動画編集する人がいなくなりますから!」
「そっち!?」
「冗談ですよ~」
山本さんが楽しそうに笑う。
……最近、山本さんまで俺の扱いが雑になってないか?
「すみませーん! 注文いいですか?」
八番テーブルから声が飛んできた。
「あっ、はーい! ただいま伺います!」
山本さんの表情が一瞬で店員のものに切り替わる。
「じゃ、行ってきます!」
そう言い残し、注文用の端末を手に八番テーブルへ小走りで向かっていった。
8番テーブルでやり取りをしている山本さんの様子を何気なく見ている。色々と注文してくれているようだ。
「かしこまりました!」
山本さんが注文を取り終え、端末を胸元に戻す。
「山本さんのエプロン姿もよく似合ってるな!」
「そうですか? ありがとうございます!」
西海に褒められた山本さんは、満面の笑みを浮かべた。
……まあ、山本さんにとっては普通の接客なんだろう。
その様子を柴田さんが少し離れた場所から怪訝そうな顔で見ている。そんな警戒しなくても、公衆の面前で何もしやしないって……たぶん。
「山神君、八番テーブルお願いします!」
「おー」
受け取った注文を確認する。
ほぉ……。
焼き野菜、冷やしトマト、ほうれん草のおひたし。それに焼き魚とご飯か。思ったより野菜中心だな。サッカー部ともなれば食事にも気を使うのかもしれない。特に川村はプロを目指している選手だ。身体が資本なんだから、そのくらいしていても不思議じゃない。
俺が野菜を取り出したところで、
「よっ! 店長! 今日も賑わってるね!」
聞き慣れた威勢のいい声が入口から飛んできた。見ると、常連の大工二人が揃って入ってきたところだった。
「おや、いらっしゃい。いつもありがとうございます」
「いやぁ~、再開してくれて助かったよ。仕事終わりの楽しみがなくなるところだったぜ」
「大袈裟ですよ」
店長が楽しそうに笑う。二人はいつものようにカウンターへ陣取り、柴田さんがおしぼりと突き出しを運んでいく。
「とりあえず生で!」
「俺も!」
「はい。生二つですね」
奥さんが慣れた手つきでジョッキを用意し始める。
「店長、聞いてよ~。明日仕事が入ってたのに、急遽キャンセルになったんだよ~」
「へぇ……何かあったんですか?」
店長が鍋を振りながら尋ねる。
「いやぁ~、詳しいことはわからないんだけど、どうやら胴元のところで何かあったっぽいんだよね」
「胴元?」
「ああ。俺たちが勝手にそう呼んでるだけ。仕事を斡旋してくれるところのことさ」
「株式会社川村とか?」
柴田さんが生ビールを二つ、カウンターへ置く。
「直美ちゃ~ん! ありがとう! 今日も相変わらず美人だね~」
「それ以上はセクハラなので訴えますよ? 店長に」
「ごめん! もうしない!!」
即答だった。警察でも弁護士でもなく店長なのか。古の刑罰が待っているせいか、効果は抜群だ。
俺は包丁を動かしながら、戦々恐々とその光景を見守る。食堂やまもとの治安維持機構はどうなっているんだ。
「それで?」
店長が笑いながら話を戻した。
「詳しいことはわからないみたいですけど、どんなことがあったんです?」
「それがさぁ……」
大工の一人がビールを一口飲んでから首を傾げる。
「何でかわからないけど、今やってる工事が無期限の中止になったって言われたんだよ」
「中止?」
「そう。明日から来なくていいって。再開する時は連絡するから、それまで待ってくれってさ」
「俺らみたいなのは仕事が止まると困るんだけどなぁ」
「とか言いながら飲んでるじゃない」
奥さんが笑う。
「困ってるから飲んでるんですよ!」
「そうそう! これはヤケ酒!」
「いつも飲んでるでしょう?」
「「それはそれ!」」
息ぴったりだな、このおっさんたち。
店内には笑い声が広がる。俺も苦笑しながら野菜を切り分けていく。
ただ――。
工事が突然、無期限中止。その言葉だけは、妙に頭の片隅に引っかかった。まあ、建設業なら予定変更くらい珍しくもないんだろう。ただ、明日、山道の旧道の奥の広場に調査が入るらしいからな。それと関連があるのではないか?
まだ憶測の域を出ないから公言することはしないけど…。
それよりも今は目の前の注文を片付ける方が先だ。八番テーブルの野菜たちが、俺の出番はまだかと待っている。




