其の弐
「でかい」というウマの乱暴な表現を聞いたときに不安は感じていた。
建てられて間もないと思われる、汚れのない白壁の建物は、トオルが想像していた以上に大きかった。天空に続くイメージなのか、二階部分まで直結した幅広の石段を上り、昔のキャバレーには必ずあった派手なシャンデリアがぶら下がったロビーを通って客席の厚く重い防音扉を開けた時、トオルの不安は現実のものになった。
普段は、広くてもせいぜい体育館の舞台や土地の芝居小屋程度だから、それに合わせた舞台装置しか用意する必要がない。しかし、いまトオルがいる公会堂は八百を超える客席があり、コンサートの開催を想定して大きなスピーカーが左右にこれみよがしに張り出している。座席の臙脂色の背もたれがゆったりとしたカーブを描いて下った先にある白木の広い舞台は、とても旅芝居一座の大道具や、紙やベニア板に風景を描いた『書き割り』で埋められるスペースではなかった。
出し物は『与話情浮名横櫛』、いわゆる『お富与三郎』なのだろう、「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富、久しぶりだなあ」のせりふで知られる『源氏店』の場なのだが、あまりに空間が多いため、黒塀の先に植木鉢が置かれている。
珍妙な舞台を見詰めて立ちすくんでいるトオルに、舞台美術の徳三が声を掛けた。
年は六十に近く、一座の裏方の責任者で、書き割りの達人であることから『書き徳』とも呼ばれ、舞台美術に関しては旅芝居の世界で一目置かれる存在の男だ。少し出た腹にぶら下げている、使いこんだ金槌やドライバーを入れた腰道具の袋が、職人の誇りと技術の確かさを語っているようで、この姿でいるときの徳三がトオルは一番好きだった。
「おお、ボン、帰って来たんか?」
徳三は頭に巻いていた白いタオルを外して首筋を拭った。
「うん、学校が休みだから」
「そうか、久しぶりだな、元気にしてたか?」
「うん、元気だよ。徳さん、それにしても大きな舞台だね」
「そうなんだ。とてもじゃないが俺の書き割り程度じゃ間に合わないよ」
「それでいろんな植木鉢を置いたんだね」
「そうだな。公会堂のロビーに置いてあったやつを借りたんだが、植木鉢ひとつ借りるのにも何枚も書類を書かされたよ。面倒な世界だな」
何事もなく一日が終わる事が施設を管理する者の仕事だ。そこに工夫や発展があってもいけない。彼らにとって植木鉢を動かすことは一大事なのだ。
「なんか、いろんな植木の種類があるみたいだね」
「ああ、おかげさんで覚えちまったよ。あれはゴムの木、手前はドラセナ、幸福の木とも言うんだとさ。何が幸福なんだか。まあ、ゆっくりしていきな」
徳三は五枚コハゼの地下足袋で中央の幅広の階段をリズムを取りながら下りて行った。足の運びが心なしか重く見えた。昔堅気の美術の連中がどんな気持ちでこの植木を置いたのか、トオルにはその葛藤が手にとるように理解できた。
開演時間が迫ったというのに、客席はというと、町から招待された敬老会の一団が最前列を埋めているほかは入りがまばらで、数えるほどの人数だ。老人たちも連れて来られただけなのだろう、芝居を楽しみにしている様子はなく、互いに遠くなった耳に口を近付けて何事か話し、そして顔の皴が伸び切るかと思うほどの大口を開けて笑っている。
それでも舞台は定刻に始められた。
最後の演目は忠臣蔵の中でも人気の『お軽・勘平』で、勘平を座長の『亀之助』が、お軽を女形の最長老である『初桐』が演じていたが、ブツブツ顔をおしろいで埋めた座長の『勘平』はどうみても「金平糖」にしか見えないし、ふっくらを完全に通り越した初桐の『お軽』は、どちらかというと「重い」という、奇妙な取り合わせだ。村の神社の仮設舞台なら手の届きそうなほどに近い距離が緊張感とでも呼べるものになるが、本格的な公会堂の舞台では珍妙を通り越した、不気味な見世物以外の何物でもない。数日前から再発したという痛風で引きずり気味の初桐の足の運びが、勘平にすがるお軽の仕草の助けになっていないこともないことが唯一の救いだった。
「重いと金平か……」
舞台の袖幕の後ろから眺めながら、トオルは左の胸の空気袋がしぼんでいくのを感じていた。
「ボンさん、雪降らせるの、手伝ってください」
ハイと返事をして振り返ったものの、声の主は見たことのない娘だった。
濃紺の作務衣を着て、頭に濃い茶色の日本手拭をかぶっている。明らかに裏方の格好なのだが、作務衣の上からでも想像できるむっちりとした体と、その首の上の子狸のような顔には見覚えがない。
娘は当たり前のようにトオルの手をとると、舞台裏まで引っぱって行く。雪に見立てた紙片の入っている籠につながった紐を握らせると、自分はもう一本の紐を持ち、トオルに目で合図をしてから小声で続けた。
「早く雪を降らせろ、と言われました」
ソロリ、ソロリと紐を操るトオルに向かって娘はもっと激しく、と自らの動作で示して見せた。
トオルはこの一座で生まれ、この一座で育った人間だから、ひと通りのことは知っている。『お軽・勘平』は花も盛りのころの物語だったはずと思いながらも、一座には困ったときには雪を降らせるという伝統があることを思い出した。
「なるほど」
トオルの手の動きが早くなった。舞台ではお軽と勘平が吹雪の中で組んずほぐれつしているはずだ。滑り落ちるような緞帳の音がして、一瞬止まり、残りのわずかな距離をストンと落ちて閉まるのが手に取るようにわかった。緞帳を早く下げるための技術だ。舞台を早く終わらせたいという、関係している人間の共通した願いと意思がトオルに伝わってきた。会場の寂しい拍手が心に痛かった。
客が少なかったこともあって、送り出しはすぐに終わった。自分が降らせた雪の掃除にかかっていたトオルを、さきほどの作務衣姿の娘が呼びに来た。
「ボンさん、座長がお呼びです」
そう言うなりトオルが手にしていた箒と塵取りを取って、舞台の大道具の縁台で寛いでいるウマの目の前にグイと突き出す。
「ウマさん、少しは働いてください」
口調からしてこの娘はすでにウマの上の立場にいるようだ。振り返って、
「ボンさん、案内します」
と、トオルの返事も待たず、さっさと歩き始めた。トオルは娘のよく動く子犬のような尻を見失わないようについていくしかなかった。
普段の公演では座員の楽屋は狭いものと決まっていたが、公会堂ともなると、お茶や習字の練習に使っているのだろう、二十畳ほどもある和室を座長の亀之助が独り占めにしていた。上り口に『爽涼』と書かれた色紙が飾ってある。書道教室の生徒のものだろうか、季節からいって少なくとも一年以上飾られているものだと思えた。
トオルの母親である姉が、血筋の良いところを全て持って行ってしまったような四角い顔が写りこんだ化粧鏡の中にトオルと娘の姿を見つけると、亀之助は座布団ごとくるりと回転して、
「おう、ボン来たか。着いたばかりなのに手伝わせてしまったようだな、悪かったな。まあ座れ、座れ」
と、亀之助はまだおしろいが残る、雪解けの季節の農耕地のような顔に嬉しそうな笑みを浮かべながら、横にあった座布団を滑らせた。トオルは座布団を外すように座り、亀之助に頭を下げた。
「いいから、いいから」
何が良いのか良くわからなかったが亀之助が続ける。
「そうだ、ふたりとも初対面だったな。え~まず、この娘は『おりん』。高校で柔道をやっていて、日本の強化選手にまでなって、オリンピックも期待されていたのに、どこをどう間違ったか卒業と同時にうちに転がり込んできた変わり者だ」
オリンピックだから『おりん』なのだろう。この一座の渾名はいつも安易で短絡的なのだ。
「よろしくお願いします」
おりんは、柔道の型の手本のように両手をつき、額が畳に触れそうなほど深々とした座礼をした。
「こちらこそ」
これから柔道の試合が始まりそうな雰囲気に、トオルは慌てて浅い座礼を返した。
「ボンのことは聞いているだろう、おりん。俺の義理の兄貴、俺の姉貴の子、だから甥っ子ってことだ。まあ舞台のことはひと通り知っているから手伝ってもらいな」
「ハイ、もうさっき雪を……」
と言いかけて、おりんは言葉を飲み込んだ。亀之助の額には、困ったときに降らせる雪の紙片が、まだ貼り付いていた。
「実は、ボン、頼みがあるんだ」
そら、来た、とトオルは思った。座長に呼ばれて良いことがあったためしはない。
「今しがた町長が怒鳴り込んで来てな、どうして雪之丞は出ないんだ、って。雪之丞っていうのは死んだ兄貴の芝居の名前でな、いまはボンが受け継いでいるんだ」
雪之丞夫婦が交通事故で死んだことはおりんも聞いていた。トオルに直接話すのが苦手なのか、亀之助はまるでおりんに説明するように話を続ける。そのひとつひとつをうなずきながら受け止める素直さがこの娘にはあった。
「その町長が、どこかの視察の時にボンの踊りを観たらしいんだ。いやぁボン、偶然でも帰ってきてくれて良かった。明日から舞台をやってほしいんだ。なに、踊りだけでいいからさ」
「えっ、ボンさん、踊れるんですか?」
子狸がびっくりするとこんな顔になるのか、とトオルは思った。
「ボンはな、小さい頃に兄貴にみっちり仕込まれて、高校に通う頃にはこの世界じゃ知らない者はいないほどの踊り手になっていたよ」
亀之助は自分のことのように自慢げに言う。手の平で鼻をグイと上げる芝居の仕草さだけは余計だとおりんは思った。
「初桐のおじさんの代役だから、去年の青森かな」
ようやく会話に参加したトオルを全く無視して、亀之助の話は続く。
「その時はまだ議員だったが、このあいだの選挙で町長になってしまってさ、その公約のひとつが文化都市宣言なんだとさ」
おりんがふたたび大きくうなずく。
「それでな、まずこの公会堂を満杯にすると言ってしまったらしいんだ」
またうなずくおりん。ツバを飲みこむほど大変なことではないのに、おりんの喉がゴクリと鳴った。座長といいコンビだとトオルは思った。
亀之助がしばらく間をおいた。話し方がいよいよ芝居がかってきた。
「それと、俺もな」
そう言いながら脇にあった自分の行李のふたを開け、中の桐の箱から、もったいぶった手つきで取り出したのは役者の幟だった。畳の上に手早く広げると何度もうなずきながら眺めて、
「『橘雪之丞』、どうだい立派じゃないか」
派手な色使いの仰々しい他の幟とそれとは明らかに違っていた。濃紺に近い紫に、うっすらと黄色味を帯びているものの、純白に限りなく近い糸で名前が刺繍されている。幟の下の部分には空を行く風とも岩に砕ける波頭ともとれる金粉が踊っている、重厚で品格に満ちた幟だ。
「ボン、頼む、これが風に翻るところが見たいんだ」
トオルはとうの昔に諦めていた。
町長が一座を招いたのは、高名なアーチストを招くだけの予算が町になかったためで、一方の亀之助はただ同然の会場使用料に目がくらんで引き受けたこと。今日乗ったスピーカー付きの元選挙カーは町長選で使った車で、おまけかオプションといったところか。勝手な想像は、しかしほとんど当たっていた。
自分に関しての話だとはわかっていたが、トオルは上の空だった。ただ、時々懐かしい名前が聞こえてくることから、どうやら昔の話をおりんに聞かせているらしい。
「それが大学に行くって言い出して、何が悲しくてバイ菌にエサをやっているのか。こいつも変わり者だよな」
どうやら話はトオルが大学でバイオの勉強をしていることについてらしい。
「どうだ、ボン、やってくれるか」
ようやく亀之助がトオルの方を向いた。
「はい、でも楽日までいられるかどうかはわかりませんよ」
「いいってことよ、それならそれで、病気になったことにでもするから」
トオルのこたえに一安心した表情を見せてから、亀之助はふたたび鏡に向って化粧を落とし始めた。額に張り付いた雪の紙片に気づき、手のひらに乗せて大きなため息をついた。がっくりと落ちたその両肩に目礼をして二人は楽屋をあとにした。




