其の壱
肉屋と魚屋が隣り合わせにあるのはお客にとっては便利だけれども、夕飯の食卓で陣取り合戦を繰り広げる店主同士は、当然のように仲が悪い。通りに面した巻き上げ式のテントの下の一画は、その日の店の目玉商品の陳列場所で、言ってみればオセロ盤の隅のような場所なのだが、客たちもその事はよくわかっていて、買い物かごをぶら下げた奥さん連中の買い物は、まずこのコーナーを覗いてから始まる。
水車のイラストが入った藍色の暖簾が風にひらめく手打ち蕎麦屋は、ラーメンのほうがうまい、と、もっぱらの評判だ。
時計屋の古い大時計と、その前で居眠りをしている爺さんのどちらが先に止まるかは、近所のひそかな賭けの対象になっている。
一年中ヒマワリ柄のTシャツを売っている洋品店や、牛皮底の雪駄の横に、トイレ用の木のサンダルを何の疑いも持たずに並べている履物屋がある。
吹く風も商店も買い物客も、全てが昭和を感じさせる商店街が狭い通りを挟んで南北に百メートルほどあって、その先には一面の田園風景が広がっている。わざわざ残したわけではない。突然襲った一発波のような再開発の波に乗り遅れただけだ。
ボンとウマは商店街を何度も行ったり来たりしていた。ふたりの乗る軽ワゴン車の四隅には『鶴田亀之助一座』と書かれた幟がガムテープで雑に張り付けてある。
ハンドルを握る『ウマ』は、四十がらみのガッシリとした体躯に短髪がよく似合っている。くわえ煙草の煙が目にしみて顔をしかめると、凹凸に欠けた四角い顔は怒っているようにも見える。
その口元にマイクを突き出している『ボン』は、長身で長い髪を後ろでまとめ、黒ぶちの丸メガネをしている。
本名は橘徹というが、父の興した旅芝居一座の跡取りだったことで坊ちゃんの意味を含んで、ボンと呼ばれている。
彫りはさほど深くはないのだが、目や鼻や口が、それぞれに存在を主張しているようなしっかりとした輪郭を持って、面長な顔の中に納まっている。
どこか日本的な顔立ちは母親から、そして、痩せて見えるが無駄な肉のない俊敏そうな身体は、間違いなく父親から受け継いだものだった。
トオルの父である橘雪之丞が興した一座は、父の死後、母の弟が継いで鶴田亀之助一座となっている。
スピーカーから昼下がりに雑音交じりの男の濁声が絶え間なく流れてくるのだから、商店主たちもいい加減うんざりしていた。
人は良いのだが気の弱い酒屋の主人が、思い出したように車道で配達用の三輪バイクの掃除を始めたのは、トオルたちの車の通行を邪魔するための精一杯の抵抗だった。本屋の主人は雑誌の棚にハタキを掛ける手を止め、睨みつけるようにしている。トオルは気付いていたが、ウマは気にする素振りさえ見せず、
「ボン、ほら」
と、無精ひげの目立った顎でしゃくるようにして、トオルにマイクを要求した。
「ウマさん、もうよそうよ。ここばっかり走っているんだよ。絶対みんな怒っているって」
「仕方ないだろう、ここにしか人がいないんだから、この町は。カエルやバッタは木戸銭払ってくれないぞ。それに、これが今日の俺たちの仕事なんだ」
ウマは「俺たちの仕事だ」と言ったが、トオルはそれには少なからず不満があった。
「仕事って、僕は関係ないじゃないか」
「そう言うな、駅で会ったのも何かの縁だ」
「そんなあ、ウマさんは売店で競馬新聞を買っていただけでしょ」
「そうか、じゃあ、お馬さまのご利益ってことだ」
「なにがさ、いつも二本足で立って走った方が早い馬ばかり買っているくせに」
「おや言うねえ。まったく大学ってところはろくなことを教えないな」
「そんな、もう。学校が休みだから遊びに来ただけなんだよ」
近くで興行をすることになった叔父の一座に、大学の研究室の休みを利用して陣中見舞いのつもりでやってきたのに、駅前で早々とウマに見つかり、半ば拉致されるように車に押し込められたのだ。
朝から何も口にしていなかった。腹がすくと人間は不機嫌になるというが、そのレベルはとうに超えていて、怒る気力もなくなっていた。
「人間休んじゃ駄目だ。働け。ほら、マイク」
トオルがしぶしぶ突き出したマイクで、またウマがガイドを始めた。
「皆さま、お騒がせしております。鶴田亀之助一座でございます。本日が初日でございます。町の公会堂をお借りして、鶴田亀之助一座渾身(こんしんの舞台でございます。芝居あり、踊りあり、笑いあり、涙ありの華やかな舞台に、どうぞ皆さまお誘い合わせでお出かけください。本日午後三時ちょうどの開演にございます。アッ、ありがとうございます」
ウマが窓から手を振って雑な笑顔を作った。トオルが振り返っても誰もいない。
「ねえ、ウマさん、誰に挨拶したの?」
「ネコがいたんだよ。赤ん坊はもちろん、イヌでもネコでも目があったら手を振るのが選挙の常道だ」
選挙って何?関係ないはずなのに、妙な説得力がある。またウマが手を振る。
「ウマさん、今度は何がいたの?」
「クコッ~」
「ああ、ニワトリね」
「ハトだ。この車はこの間まで町長が使っていた選挙カーだったんだそうだ」
言われて初めて、後部座席にあるピースサインともとれる形を残して脱ぎ捨てられた片方だけの白い手袋の意味がわかった。しかし、トオルの頭の中のウグイス嬢がなぜかぽっちゃりしてうまそうなイメージなのは、きっと腹がすいているからなのだろう。
商店街を吹き抜けた一陣の砂交じりの風が、芝居がかった語りのようになったウマの口上を乗せて、青くなり始めた若稲の上を流れていった。
ウマは一座での渾名である。本名は新井孝信といい、十年ほど前まで大手新聞社の記者だった男だ。敏腕というより剛腕として知られ、その過激な取材方法がたたって、社会部から学芸部に配置換えになったが、本人は所属など気にもとめず、自分の感性に反応した事件ばかり追い続けていてろくに出社しなかったが、会社もそれを暗黙のうちに認めていた。トオルの父親である先代橘雪之丞との出会いが芝居の世界に入るきっかけとなったのだった。
「ウマさん、これからどうするの?」
「俺は今日フリーだよ」
「フリーって、馬の脚が出ない演目なんだ」
「まあな。俺が出るほどの芝居じゃないのさ。じゃあな」
「じゃあなって、公会堂ってどこなの?」
「でかいから、すぐわかるさ」
車を公園の駐車場に止めて、ウマは競馬新聞を片手に噴水の方へと行ってしまった。
女神を表現したのだろう、丈の長いローブの肩に乗せた壺から水が出ている。その隣の女神は丸い時計を天空にかかげている。座りこんだ女神は新体操を思わせるような開脚ポーズだ。現代美術は受け入れない役人主導で造った、銅像制作会社のカタログに載っていそうな噴水だ。
ウマは開脚した女神の股間に柏手を打ってから一礼した。神社を参拝する時の作法が彼女たちの心を動かすかどうかは不明だが、ウマの買った馬券が当たるはずなどないのだから、作法などどうでもよいことだ。




