あの想いは。
「ユミナちゃーん、支度できた?」
階下から聞こえた声に、わたしはハッとして手元のものから顔を上げた。
「はーい! 今行きますっ」
大声で返事をして、読み返していた古い手紙を慌てて机の引き出しの奥に押し込んだ。
引き出しには似たような封筒がたくさん詰まっている。綴られた文字は幼いものから少し大人びたものまであるが、よく見ればそれらが全て同一の筆跡であることがわかる。
わたしは最後にそれらを一瞥してから、小さく溜息をついた。
荷物をまとめた大きめのカバンを掴んで階下に降りると、この仕立て屋の女主人であるミルイカさんが暫くお間店を閉めるための準備をしていた。
わたしもドアの近くに荷物を下ろして店の戸締りを手伝う。
「急がなくてもいいのよぉ。馬車の時間まではもうしばらくあるから」
「昼の便に乗るんでしたよね」
「ええ。今日は三つ先の町まで行ったら宿泊よ。主都につくのは五日後の夕方かしらねえ」
「やっぱり主都って遠いんですね」
すべての窓にしっかり鍵がかかっていることを確認し終え、最後に店のドアの外側に暫く閉店する旨を書いた紙を貼った。
そうしてもう一度店に入ったところで、小柄な人影に思い切り抱きつかれて思わずよろける。
「ユミナ、主都よ、主都! 楽しみね、向こうに着いたらたくさんお店を巡りましょうね!」
「ナーシャ! びっくりしたじゃない」
「あらごめん、つい興奮しちゃって」
そう言って小柄な女性がわたしから体を離した。悪びれもせず首をかしげた動作で二つに束ねた髪がふわふわと揺れた。
ナーシャはこの店専属の針子で、わたしの先輩だ。歳はひとつ上の十九歳。二年前、村から一番近いこの町に出稼ぎに来たわたしをミルイカさんが雇い入れてくれてから、まるで本当の妹のように可愛がってくれている。店に住み込みの従業員はわたしとナーシャだけなので、ミルイカさんと三人でほとんど家族みたいな感じだ。
ナーシャはうきうきとした様子で語りかけてくる。
「楽しみねえ。ユミナは主都に行ったことがある?」
「ううん。ナーシャはあるの?」
「一度だけね。ユミナがこの店に来る前に、今回みたいにミルイカさんの用事でくっついて行けたことがあるの。凄かったわよ。可愛いお店が山ほどあるし、人がいっぱいだし。夜なんか魔力灯が街中点っていて、満月の夜より明るいのよ」
「魔力灯ってあれでしょう、魔法使いが作るランプのことよね。蝋燭よりずっと明るいんでしょ。それが街中にあるの?」
「そうよ。この辺りには魔法を使える人なんて一人もいないけど、主都の方では珍しくないんだから。魔法を使う職業もたくさんあるし、騎士だってあんな体の大きい如何にも鍛えてますって感じの人ばっかりじゃなくて、魔法騎士だってたくさんいるのよ。まあでも、やっぱり私のあの人より素敵な人はいないけど!」
「結局ノロケじゃないの。ナーシャの恋人はまさにその『体の大きい如何にも鍛えてますって感じの騎士』だものね」
「ふふふ。ユミナの方はどうなのよ? 小物屋のレイルに言い寄られてるんでしょ。返事はしたの?」
「ううん、まだなの。……ちょっと、いろいろ考えちゃって」
「そうなの?」
歯切れの悪いわたしの言葉にナーシャは首を傾げたが、それ以上何も訊かずにぽんぽんとわたしの肩を叩く。
「まあ無理に聞き出したりはしないわよ。それよりほら、そろそろ乗り合い場に行かないと行けない時間じゃない?」
「ああ、そうね。馬車に遅れたら大変だわ」
そこでタイミングよくミルイカさんがわたしたちを呼ぶ声もした。
「あなたたち、そんな入口のところでずっと喋っていたの? そろそろ出発するわよお」
「はーい、ミルイカさん」
「さあユミナ、今から五日は馬車に揺られっぱなしよ! 何かクッションになるものがないと体がもたないわよー」
「長時間馬車に乗るのって初めてだわ。やっぱりキツイの?」
「うーん、御者の腕にもよるわね。でも全身凝ったり節々が痛くなるのは確実。覚悟しておくことね」
「うわあ。着替えの服を布袋に詰めてクッションぽくしておくわ」
すっかり気分を旅のものに切り替えて、わたしたちは顔を見合わせて笑った。
*
ガタゴトガタと鳴る乗合馬車の固い揺れは慣れたものではあるけれど、こんなに長時間乗ったのは初めてだ。数時間もすれば体が凝ってきて、肩と首を回すとポキポキといい音がした。お尻の下に敷いたクッションがわりの布袋がなかったら確かにナーシャの言うとおり一日もたなかったかもしれない。
ミルイカさんは持ってきた小さめの本を読んでいて、わたしとナーシャは暇つぶしにずっとお喋りをした。だけど昨日は少し夜更しをしてしまったらしいナーシャはやがて壁に体を預けてうつらうつらし始めた。
わたしは小さな窓の外の景色に目をやって、白金の髪の幼馴染のことを思った。
手紙の遣り取りは別れて五年もしないうちにどちらからともなく途切れてしまった。もしかしたらもう主都にはいないかもしれないけれど、いるかもしれない。そう思うと昔の手紙を机の奥から掘り出さずにはいられなかった自分の今朝の行動を思い出してわたしは口元に苦笑を浮かべた。
記憶の中の彼は、八歳の時の姿のままだ。最後に会った、小さな子供だった頃のまま。
あの頃はわたしの方が少し高かった身長は、もう彼の方がずっと高くなっているだろう。声だって低くなっているだろう。もうあれから十年も経ったのだから、性格だって少なからず変わってしまっているに違いない。
そしてそれは、わたしの方だって同じこと。
十年という月日はとてつもなく長いわけではないけれど、人間の心を変えてしまうには十分な時間だ。
十年前、彼が村を出て行ってしまったとき。わたしはとても悲しかった。それはもうみっともなく泣き喚いてしまうぐらいに悲しかった。だけど良くも悪くもわたしは子供で、日々の新しい出来事に過去はどんどん流されていく。
あれから村の他の同年代の子供たちともそれなりに仲良くなれたし、この町で働き始めてからは更に繋がりが増えた。遠く離れた想い人より近くの友人や家族の方に意識は傾いていく。
彼の方だってそうだっただろう。はじめの頃は月に一度も空けずに届いていた手紙、それがどんどん間を開けていき、数年もしないうちにぱったりと途絶えてしまったのだから。つまり、そういうことなのだ。
初恋は、所詮初恋でしかなかった。
時の流れとともに確実に冷めていく気持ちに、そのことを思い知る。
それでもなんとなく幼い頃のあの約束は胸の奥で小さなしこりのように残っていて――今まで男の人とお付き合いをしたことはなかったけど。でもやっぱり、あの恋心はもう過去でしかないのだ。
*
五日間、馬車に揺られて。慣れない長旅にいい加減へとへとになってきた頃、ようやく主都に到着した。
その日は倒れこむようにして宿のベッドで眠り、次の日からナーシャと一緒に街を探検して回ることにした。ミルイカさんは主都に住んでいる親戚の家に用事があるらしいので宿には夕方しか帰ってこないらしい。
「ユミナ、なに見たい?」
「何があるかも知らないからさっぱり。ナーシャに任せるわ」
「私も来たのは結構前なんだからそんなに覚えてないわよ。じゃあ取り敢えずあっちの方から適当に回ってみる? この辺りは治安も良いらしいし」
「そうね。可愛いものとか美味しいお菓子とかあったらいいな」
活気のある大通りには、金や銀、色とりどりの髪の人々の群れ。人々の都会らしい洗練された服装に目を奪われた。活気のある店。可愛らしいお菓子や小物。数階建ての大きな建物。広場にある白磁の噴水。
何というか、育った村やあの小さな町と比べると別世界という言葉がしっくりくる。
まずはデザインの勉強を兼ねて既製品の服の店をたくさん見て回り、昼はパンに具をはさんだものを買って公園で食べた。それからまた疲れるまであちこち渡り歩く。ミルイカさんから特別にお小遣いをもらっていたのでいつもより少し贅沢な買い物も楽しめた。
首都に滞在するのは七日間。常とは違う都会での生活を目いっぱい楽しんで、それからまた行きと同じように馬車に揺られて町に帰るのだ。
*
いよいよ明日には主都ともお別れだという日の午後。この町並みもこれで見納めだということで、わたしたちは朝からあちこち歩き回った。初日と同じ露店で昼食を買って、噴水周りのベンチに座って食べた。周囲には他にも同じような人々がいる。
わたしはパンを齧りながら周りをぼうっと眺めていた。主都の人々はほとんどが金や銀の髪をしている。黒髪や茶髪もいないというわけではないけれど、やっぱり少ない。そして生活に普通に魔法が根付いている。夜の灯りもここの噴水も、そういう職業の魔法使いが管理しているらしい。
広場に集う人の主に頭を眺めていて、たとえば同じ金髪でもその色合いには結構な違いがあることに気がついた。黄味の強い金色や、夕日のような赤っぽい金色。少し黒っぽい、暗い感じの金色。
幼馴染の髪はどうだっただろう。
たしか白っぽくて、冬の朝日のようにキラキラした淡い金色だった。
そう確か、あそこで立ち話をしている若い騎士の男性みたいな色の――
「……あれ」
その顔を見て、思わず小さな声が漏れた。
隣でパンを食べ終わったナーシャが手巾で指を拭きながら訊ねる。
「どうかした?」
「知り合いに似ている人がいる」
ここからでは横顔しか見えないから、はっきりとは言えないけど。最後に見たのは十年も前で、記憶に自信もないけど。
強く瞬きをして、もう一度その男性を見つめた。
「本人じゃないの?」
「自信ないわ。最後に会ったのは十年前だし」
どの人かと問われ、ここからさほど遠くない場所で立ち話をしている騎士を指で示す。
視線を感じたのか、その人がふとこちらを向いた。そして大きく目を見開いた。
ナーシャが脇腹を肘でつついてくる。
「ちょっとユミナ、こっち見てるわよ。知り合いじゃないの?」
「え、やっぱりそうなの、かな?」
小声でこそこそ話している間に視線が外れて少しだけホッとする。しかし彼はそれまで話していた相手と別れ、あろうことか真っ直ぐこちらに向かって歩いてきた。
そして、わたしたちの正面で足を止めた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「あの、人違いでしたらすみませんが……もしかして――」
それはどこか懐かしいような、低い声。
見覚えのある白金の髪、ぼやけた記憶の面影のある顔。
「ジャックなの?」
薄い色の瞳を見つめながら、気が付けば遮るようにわたしはそう口に出していた。
彼はホッとしたような悲しそうな、複雑な色を浮かべた。
「ユミナ。――久し振り」
*
向こうの店を見てくるねと言ってナーシャが席を外した。多分気を使ってくれたらしい。だけどここで二人きりにされても、何を話せばいいのだろう。
わたしとジャックは一つのベンチに間を開けて座った。あの頃はぴったりとお互い寄り添うようにしていたのに、今はお互いの体温が届かない距離で座る。
「えっと、久し振りね」
主都に来たのだから会うかもしれないとは思っていたけれど――本当に会うなんて。
何を言えばいいかわからなくて、視線を合わせないままに取り敢えずそう口にする。
「元気に、してた?」
「うん。ユミナは?」
「わたしも、元気よ。大きな病気もしていないし」
お互い、声にぎこちなさが滲んでいる。
わたしたちの関係はこの十年で自然に消滅してしまっているけれど、決定的な別れの言葉があったわけではない。だからこそ今ここで何を話せばいいのかわからなかった。
ジャックがためらいがちに口を開く。
「……驚いた。主都にユミナがいるとは思わなかったから」
「働いている店のおかみさんが主都に用事があるらしくて、一緒に来たの。……すぐにわたしだって、わかった?」
「正直、自信はなかったよ。小さい頃とは顔も雰囲気も大分変わっているしな」
「十年も経ったものね。わたしもジャックに似てるとは思ったけど、自信なかったもの。でも、話しかけてくれたのね」
わたしからはきっと話しかけられなかっただろうから、よかった。悶々とした気持ちを抱えて主都を離れるようなことにならなくて。
隣を見ると、思ったよりもずいぶん高い場所に白金色の頭があった。昔はほとんど同じ高さだったのに、隣に座ってもこんなにも身長差ができてしまったのか。
「……ごめんな」
見つめた淡い色の瞳が微かに揺れる。
「どうして謝るの」
謝られるようなことなんて、ひとつもないのに。
「後先考えずにあんな、守れもしないような約束してさ」
「わたしだって待つと約束したのにやっぱり待てなかったのだから、おあいこよ。……十年は、やっぱり長かったもの」
――――帰ってくるよ、絶対。一人前になって、ユミナのところに帰ってくる。
確かにそう約束したのは彼だけど、待っていると約束したのはわたし。
約束したのに帰ってこなかったのは彼だけど、約束したのに待つことができなかったのはわたし。
だからこれは、どちらが悪かったというわけではないのだ。
確かなのは十年は長かったという、ただそれだけ。
小さな世界しか見えていなかったあの頃から体も中身も成長して、様々なものを見て、多くの人に出会ったから。遠く離れた恋よりも、近くにいる誰かに心を移してしまうのは、きっと自然なこと。
「あのね――わたしね、好きな人ができたのよ」
ジャックにはこのことを話しておきたいと思って、それを言う。
「町の小物屋の息子さんでね。この間、お付き合いを申し込まれたの。主都から戻ったら返事をするの」
彼は目を丸くしてわたしを見つめた。
それからふっと口元を緩めると、そっか、と言って微笑した。再会してから初めて見る自然な柔らかい笑顔だった。
「俺も同じ魔法騎士の好きな人がいるよ。――こっちはまだ片思いだけど」
その言葉に、ジャックと同じ制服を纏って彼と立ち話をしていた女性を思い出して尋ねる。
「もしかして、さっき一緒にいた人とか?」
「当たり」
「あらいいの、こんなところでわたしと二人でいて。誤解されない?」
少しおどけてそう言ってみせると、苦笑が返って来た。
「誤解されるも何も、彼女は俺のことなんて何とも思ってないよ。――でも明日からはちょっと本気出して口説いてみようかな」
「そっか、頑張って。わたしも帰ったらちゃんと気持ちを伝えないと。かなり返事を待たせてしまってるし」
「両思いなんだろ、羨ましい」
「ジャックも気合入れてその人口説き落としなさいよ。――そう言えば今日、仕事は? 今着てるそれって制服でしょ」
「ああ、今日は早番だったんだ。買い物をしてから寮に帰ろうと思っていた」
そう言う彼はこの街に馴染んですっかり主都の人に見える。彼はもう故郷には帰って来ないだろう。もっと心地よい居場所をここで見つけたのだから。
だからここで別れた後は、もう二度とわたしたちが会うことはないだろう。
「本当に魔法騎士になったのね。今更だけどおめでとう、ジャック」
「ありがとう」
胸の奥で凝っていた小さなしこりが、祝いの言葉と一緒に溶け出していく。
何の含みもなく、ただ素直に幼馴染の道を祝福できたことに心がじわりと温まった。
*
主都での最後の夕日を背に、宿への帰り道を歩く。
わたしはナーシャに白金の髪の幼馴染のことを話した。ナーシャはわたしの長話にいつものような茶々も入れず、短い相槌だけでそれを聞いてくれた。
最後まで聞いてくれた後に、そうだったの、と呟いた。
「不思議に思ってたのよ。だってユミナとレイルってどう見ても両想いなのに、どうしてそんなに返事を渋ってるんだろうって」
「今になってみると、小さい頃のただの口約束だって思えるけど……やっぱりあの時は本気だったもの。ずっと心に引っかかっていたのよ。だから、今日は偶然でもジャックと会えてよかった」
ちゃんとしたお別れができて、よかった。これでやっと今の好きな人ときちんと向き合うことができる。
「彼とは、もう会わないの?」
「うん。主都なんてそうそう来るようなところでもないし」
「いいの?」
「いいのよ」
でも、とナーシャが口ごもる。ナーシャはいつもはきはきとしているのに珍しい。
「でも、なに?」
何だろう。なんだか、さっきから視界が霞んでいるような気がする。
「でも、ユミナ―――あなた、泣いているじゃないの」
ぱたり、と雫が一つ地面に落ちた。
「……え?」
目元を手でこすると、そこは何故だかぬるいもので濡れていて。
それが涙だと理解するのに数拍の間を必要とした。
「……何これ。変なの」
泣いているつもりなんてないのに。どうしてこんなに溢れてくるのだろう。
――どうして、悲しくなんてないのに、どうしてこんなに。
ミーシャがハンカチーフを差し出してくれた。わたしはそれを受け取って目元に押し当てた。
「……わたしね、」
布の下から漏れた小さな呟きが、主都の喧騒に溶けていく。
「わたし、本当に好きだったのよ。ジャックのこと」
「そう」
「好きだったのよ」
好きだったの。わたしも彼も、お互いのことが間違いなく好きだった。
それは友情の延長のような、ただの愛着のような、幼い恋だったかもしれないけれど。それでも好きという気持ちに嘘はなくて。
「確かに好きだったのに。いつから、そうじゃなくなってしまったんだろうね」
胸の奥で、小さな女の子が泣いている。幼いわたしの顔をした女の子が、悲しそうに苦しそうに泣いている。
――あの想いは、どこにいってしまったの。
小さな手を取り合い、幼いながらも未来の誓いまで交わしたのに。
この涙は、幼いわたしが流した涙。
消えてしまった恋を悲しんで、小さなわたしが流す、決別の涙。