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勇者イサギの魔王譚  作者: イサギの人
Episode:10 あなたの初恋の人、プレハ
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10-6 たとえ此の先、何を失おうとも、

 

 大森林ミストラルの中にひっそりと佇むのは、樹冠に覆われた宿場町ニーズヘッグ。

 物々しい名を付けられたこの町は、かつて堅牢な砦として、エルフ族を殲滅するための、冒険者達の拠点にと作られたものだ。

 ミストランド征服より10数年が経ち、砦としての機能を失われた後は、東と西を繋ぐ小さな中継地点として使われている。

 だが、ニーズヘッグが持つ本来の機能は、決して小さな宿場町としての存在だけではない。


 アルバリスス三大迷宮の一つ、地下迷宮『ラタトスク』。それを管理するためにニーズヘッグは存在し、冒険者ギルドによってその運営されているのだった。

 


 旅人自体は珍しくはない。だが、トッキュー馬車がこの町に停車するのは稀なことだった。

 降りてきた男は、黒い外套に身を包んだ、黒髪黒目、ようするに黒尽くめの冒険者である。

 年の頃はまだ若い。しかし男のまとう雰囲気は、古竜のように泰然としていた。

 布を巻いた杖を片手に、二本の剣を腰に帯びた姿は、物々しい。左目につけている眼帯はそれだけで威圧感を放っていたが、しかしそれよりも不穏なのは暗い光を宿す右目だ。

 彼の目は、殺意とも憤怒とも違う、変わった色を映し出していた。

 あえて言うのならば底知れぬ『妄執』か。

 まるで娘を獅子に喰われた餓狼のような目をしたその男は、ゆっくりと歩き出す。


 ともあれこの日、夕の刻。

 かつて勇者と呼ばれた少年――浅浦いさぎは、ニーズヘッグに到着した。



 日が落ちそうな大通りには、商店が立ち並んでいた。

 そろそろ本日到着の馬車便もすべて予定を終えたのか、店じまいを始め出した彼らの前を、ひとりの男が通りすぎてゆく。

 そんな黒尽くめの男は、ふとした店の軒先で立ち止まった。

 

「あ、いらっしゃい……ませー!」


 店番の娘は眼帯をつけた彼の姿を見て、一瞬だけ口ごもったものの、この日最後の客を逃してなるものかという貪欲な精神に突き動かされ、結局は元気よく声を上げた。

 

「お、おひとつ、いかがですかー?」

「……」

 

 彼女が並べている商品は、自作の工芸品や装飾品の数々であった。この町でギルド職員の両親に元に生まれ育った少女だが、その夢は大きく、将来は一流のアクセサリー職人になりたいと思っている。

 コツコツと作り続けている商品はそれなりにさばけているものの、しかし目玉であるはずのアクセサリーについては一度も売れたことがなく、それなのに気まぐれに作ったなんだかよくわからない木彫のトーテムポールのようなマスコットだけが買われてゆく。少女は複雑な気持ちで日々を過ごしていた。

 しかしこの目の前の男がそんなものに興味がありそうかと思えば、商売人の目としてそれはまるで脈はないが、けれど商売人としては声をかけずにはいられなかった。難儀なものである。

 

 男は――イサギは、やけに鋭い視線で品物を見定めているようだ。

 なぜかその緊張感が伝わってきて、娘は思わず身構えてしまう。これはもしかして、ひょっとして、だなんて期待したりなんかしたり。

 

 彼がじっと見つめているのは、工芸品のにーずへっぐちゃんではなく、どちらかというと、娘が特に力を入れているアクセサリーの数々である。

 お、おお? とかなんとか思い、娘は畳み掛けた。


「そ、それは有名デザイナーの手によって作られた逸品の数々ですよー。この町でも一番の人気を誇るアクセサリーなんですからー」

「……」

 

 嘘は言っていない。

 自分は将来的に有名デザイナーになる予定だし、この町でアクセサリーを販売している店は当店以外にはないのだから、一番人気で間違いないのだ。

 芸術的センスをなかなか認めてもらえず、商売人としての素養が完全に開花しつつある娘は、ほぼ完璧に近い営業スマイルを浮かべる。

 果たして男はなにを買ってくれるのか、この緊張の一瞬だ。


「……指輪、か」

「え?」

 

 娘は目を丸くして、思わず聞き返してしまう。彼は今、なんて。

 イサギはためらいながらも、頬をかき、たどたどしくつぶやく。


「……指輪が欲しいんだけど、でも、どういうのがいいのか、わからなくて」

「そっ……そうなんですか! じゃ、じゃあわたしにお任せください!」

 

 彼が身にまとっていた剣呑な雰囲気は霧散し、代わりに素顔らしきものが見え隠れしていた。

 それはなんというかまるで、初めて女性にプレゼントを贈る少年のようで。

 

 娘は張り切り、袖をまくりながら身を乗り出す。


「あの、あ、相手の人は、どんな人ですか? お、女の人、女の人ですよね?」

「あ、ああ」

 

 こんな小さな町だ。色恋の話題などほとんどない。

 娘は商売人半分、素半分で男に食いつく。彼はずいぶんと引いているようだが、逃げ出しはしなかった。

 

「どんな感じの人ですか? 落ち着いている方ですか? 雰囲気は? 年齢などは?」

「え、えっと……。

 そうだな、カッコいい女だよ。

 雰囲気はどちらかというと、元気で明るい感じの……。

 年齢は、俺よりずいぶんと年上だ」

「なるほどなるほど……」

 

 矢継ぎ早に尋ねられた問いにも、男は丁寧に返していった。

 ふんふんとうなずき、娘は自らの手がけたアクセサリーを吟味する。

 娘の作っている指輪はどの種族にも合うようにと、基本的にはフリーサイズを用意していた。この町に訪れるものたちは、実に様々だからだ。


「じゃあ外見などはどうですか? 髪の色だとか、肌とか、

 あ、それとも好きな色があれば、考慮させていただきますがー」

「金髪で、肌はとても白かった。

 好きな色……好きな色、か」

 

 男は顎に手を当てて、少し考え込む。

 なにかを思い出すように、首をひねり、それからつぶやいた。


「あいつは、黒が好きだと言っていた。

 黒髪黒目は、どちらかというと珍しいし……俺の色だから、って」


 恥ずかしそうにそんなことを言う男に、娘は「ひゃー!」と叫び出しそうになった。

 のろけだ。これがのろけである。しかも娘とそう歳も変わらない青年ののろけだ。聞いているこっちが照れて照れて仕方ない。今だけは完全に商売を忘れて、娘はひとりの恋する乙女と化していた。いや、恋はしてないが。


「じゃ、じゃあぜひともこれがいいよ! じゃなくて、こちらで!

 7等魔晶のブラッククリスタルをあしらった指輪なんですけど、まあ、その、魔力とかはまるでないんですが……で、でも、これが一番です!」

「ん……」

 

 摘んだ指輪を突き出すと、男は壊れ物に触れるように、大事そうにそれを受け取った。

 あるいは頭の中で、その指輪をつけた相手女性のことを想っているのかもしれない。そんなことを想像し、娘の頬が紅潮してゆく。

 ちなみに今渡したのは、さり気なくこの店でもっとも高いアクセサリーだったりするのだが、乙女心と商売心の最終的な着地点というならば、ふさわしいのだろう。


 結局のところ、イサギは押し切られたような形でうなずく。

 しかし最後に「……いいな、この指輪。綺麗で、たぶん、似合うだろうな」だなんて言ってくれたから、娘の興奮は最高潮に達した。

 本当はそれわたしが作ったんです!と叫びたい気持ちを必死に抑えて、娘はお勘定を頂戴しようとすると。

 男は親指で弾いた指輪を空中でキャッチし、それをしまい込むと、代わりに懐から中身の詰まった袋を取り出した。


「世話になったな。少ないが、取っておいてくれ」

「ふぇ」

 

 手のひらの上に小袋を乗せられて、娘は素っ頓狂な声をあげた。

 ずっしりとして、重い。首を傾げていると、男はすでにその場を離れようとしている。


「えっ、あ、あの、お代……」

 

 慌てて声をかければ、彼は振り向かずに手を挙げて「じゃあな」という挨拶を返してきた。もう用事は済んだと言わんばかりだ。

 もしかしてとんでもない人に関わってしまったのかもしれない、なんて今更に娘の背筋が青くなってゆく。冒険者の素性を見極めることは、商売人にとっては必須スキルのはずなのに。


 どうしようか、冒険者ギルドに通報しようか、などと思いながらとりあえず袋の中身を覗いて。


「ふぇっ!」


 娘は立ちくらみを起こし、思わずその場にへたり込んでしまった。

 そこに入っていたのは、娘の店の商品すべてを買い占めても、まだまだお釣りが出るだけの金額であった。




 最後の準備を済ませたイサギが向かった先は、ニーズヘッグの中央に位置する冒険者ギルドである。

 この町の宿を兼任している冒険者ギルドの雰囲気は穏やかであり、落ち着いていて、まるで大きなペンションのようだ。


 たったひとりの受付に立つのは、白髪交じりの男である。年の頃は初老に差し掛かったところであろうか、温和そうな雰囲気が、この冒険者ギルド支部の理念をそのまま体現しているかのようだった。

 

「やあどうも、本日は宿泊ですかな」

「……いや、そうじゃない」


 イサギは静かに首を振り、単刀直入に本題を切り出した。

 

「俺は『ラタトスク』に挑戦するために、ここに来た」

「……おやおや」

 

 初老の男はイサギを値踏みするように目を細める。その途端に彼の体からわずかな闘気が立ち上ってゆく。引退した元冒険者というところか。

 平然とした態度でその視線を見返すイサギに、男はある意味納得したようにうなずく。


「なるほど。

 しかし、ここ数年、冒険者の勝手な立ち入りは禁止されておりまして。

 中ではどんなことが起きているかわかりません。

 みすみす迷宮の餌にさせるわけには行きませんのでな」

「心配はいらない。本部の許可は取ってある」


 イサギが差し出したのは、ギルド本部の封蝋が施された手紙である。

 無論、ラタトスクへの挑戦を認めるという許可証であった。

 それを受け取った職員は、中をあらため、髭を撫でる。

 

「あ……本部の方でしたか。なるほど、了解しました。

 つい二ヶ月ほど前にも、本部の方々が挑戦したばかりでしたな。

 しかし此度は、お連れ様はまだ到着していないようですが」

「挑むのは俺ひとりだ」


 その言葉を聞いて、男は絶句しそうになった。

 

「……おひとりで、ラタトスクに?」

「ああ、そう書いてあるだろ」

「……」

 

 再び念入りに書面を読み直す男は、やはりうなりながら髭を撫でた。


「……確かに。しかし、これはよほど……ううむ……」

「問題はないはずだ」

「書類上は、確かに、そうですが……」

 

 自分の息子よりも若いイサギを見て、彼にも思うところはあるのだろうが。

 しかしイサギは取り合わない。

 そのような態度を貫き通せば、男は最終的には認めるより他ないのである。

『たったひとりで挑む』ということに意味があるのなら、それはパーティーを組むという実利を捨ててでも、守らなければならない矜持なのだろうから。


「……わかりました。それでは明日、ラタトスクへとご案内いたしましょう」

 

 ため息をつく彼に、しかしイサギはさらに無理を言う。


「今から向かいたいのだが」

 

 今度こそ男は言葉を失った。

 なにを急いでいるのかは知らないが……。


「今から、ですか……? 

 しかし、一晩ぐらいは休んだほうが。

 迷宮はきょう明日に攻略されるようなものではありませんし」

「構わない。疲れなどはないんだ。案内してくれ」

「……」

 

 友たちとの別れも済ませたイサギに、もはや拘泥することなどはないのだ。

 そんな風に意思を固めた彼に、職員の口からなだめるような言葉はもうなかった。

 

「……それでは、すぐに馬車を手配いたしましょう」


 男もまた、迷いが晴れたような表情で、そう告げてきたのだった。



 日の沈みかけた森の中の道。薄れかかった轍の上を車輪が回り、一台の馬車が駆けてゆく。

 二人乗りの小さな馬車だ。御者として座るのは、先ほどのギルド職員の男だった。


「……私は今まで多くの冒険者を、ラタトスクへと案内してきましてな。

 だからこそわかる、直感のようなものがありまして」

「……」

 

 手綱を握る初老の男の隣で、イサギは深くフードを被り、沈黙を保っていた。

 彼の胸には、今、様々な思いが渦巻いている。

 ようやくここまで来たのだというその達成感と、ようやくスタート地点に立ったに過ぎないのだという焦燥感。そして、これから先になにが待ち受けているのかという、不安感だ。

 

 馬を操る男は、まるで親しき客人を迎えたように頬を緩める。


「ええ、御主人は恐らく、相当なところまで行きなさるでしょうな」

「……」

「これまでに迷宮に挑戦した冒険者とは、目というか、決意というか覚悟というか、そういったものがまるで違います。ハッキリとね」

「……」


 気休めのつもりか、あるいは彼もまた老いた身とは言え、男だ。

 職員の責務として説得を試みたものの徒労に終わり、そうしてもはや引き返す気はないのだと覚悟を決めているイサギを前に、久々に血が沸き立っているのかもしれない。

 難攻不落の地下迷宮を攻略するかもしれない男と話しているのだという思いが、きっと彼を饒舌にしているのだろう。


「現在、ラタトスクは第四階層まで踏破されていると言われております。

 幻の第五階層を見たものは誰もおりません。

 先日、S級冒険者の五人のパーティーが最下層まで辿り着いたとは言われておりますが、

 それも真偽はどうでしょうね。ですが……」


 男は満足そうにうなずく。


「御主人は物腰が違う。修羅場をくぐってきた数が桁違いのようだ」

「……わかるのか?」


 横目に問いかけるイサギに、彼は「ええ」と肯定の意を示した。


「ずいぶんと長い間、冒険者を見てきました。

 血気盛んなものはまず戻ってきませんね。

 御主人のような目をして迷宮に向かったのは……。

 そう、あれはかつてただひとりだけおりましたな。

 金色の髪をした女性。常に真っすぐと前を向き、曇りなきお方でした」

「……」

 

 イサギは肩の鞄を背負い直し、空を見上げた。

 妖雲のように赤く染まった雲の間から、まだ月はその顔を覗かせていない。

 

 初老の男は手綱を操りながら、わずかに声の調子を落とす。


「あるいは、と思っていたのですが、ね。

 しかしながら……彼の人も、戻ってきませんでした。

 魂を奪われたか、時の鎖に捉えられたか、はたまた永遠に眠り続けるのか。

 それ以降、ラタトスクは封鎖されたのです。

 そうか、あれはもう12年前にもなりますか……」

「……12年」

 

 イサギは口内で繰り返した。

 その年月の長さ、重み、深さを。

 今はまだ味わうことができないけれど。


「……プレハ」

「おや、ご存知でしたか」

 

 それほど長きに渡り、冒険者たちを見送ってきた初老の男はシワの刻まれた額に手を当てて、恥ずかしそうに笑う。


「ええ、『迷宮女王』プレハ。今となっては信じてくれる人も少なくなりましたがね。

 ここは彼女の終着地と言われている場所です。

 世界中に残るプレハ伝説の、まあ、そのひとつですがね」

「そうか」

「御主人には、生きて帰ってきてもらいたいものですな」

「……」

 

 会話はそこで途切れた。

 巨大な樹森の中を縫うように拓かれた道を走り、イサギはやがて目的の場所へと辿り着く。

 

 プレハ伝説の終着地のそのひとつ。

 地下迷宮、ラタトスク。


「こちらでございます」


 かつてエルフの里があった場所からそう遠くはない地点に、大樹に開いた深い穴があった。

 辺りには小さな見張り小屋がひとつだけある。彼らがこの迷宮を封鎖しているのだろう。


 瘴気が漂うほどに禍々しいというほどではない。そこはただの穴だが、底の見えぬ暗闇の洞は、まるで地獄への入り口のようだった。

 引きずり込まれれば、もう二度と帰ってこれないとでも言わんばかりの。


 地獄、地獄か。

 上等だ。

 馬車から降り、イサギは小さくつぶやく。


「……かつてイザナギも、たったひとりで、黄泉の国まで妻を迎えに行ったんだよな」

「イザナギ?」


 御者台から降りつつ問いかけてくる彼に、イサギは足元を確かめるようにして歩いてゆく。

 ラタトスクの入り口へと。


「まあ、なんだろうな。俺のいた国の、偉い神さまの名前だよ」

「ふむ……。なんでしょうな。

 その不思議な響きはどこかで聞いたことがあるような……。

 ああ、そういえば、かつてこの大陸を救った勇者に似ておりますな?」

 

 彼は怪訝そうに相槌を打つ。

 イサギは止まらず、腕を掲げる。


「なんでも、その勇者の名の由来らしいぜ。息子に神の名をつける親も、大概なもんだけどな」

「ほほう、そうでしたか。

 なるほど、かの勇者は神の名を……」

「その勇者もきっと今は、神より女神にご執心さ」

「……そうであれば、良いことですがな」

 

 背負い鞄を持ち直し、死者の眠る地の底へと足を進めるイサギ。

 懐の中に入れた指輪を確かめ、よし、と小さく決意した。


 振り向かない彼の背を見つめる男は深々と頭を下げ、ただ一言とともに見送る。

 

「それでは、ご武運を」

「サンキュ」


 時空の歪んだ世界から戻ってきたとき、あらゆる景色が変わってしまっていたとしても、男はそれを覚えておこうとは思わなかった。

 今はただ、他にはなにもいらないから。


 これより、地下迷宮『ラタトスク』攻略が始まる。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



<第一階層・幹の闇>



 入ってすぐの第一階層は、洞穴である。

 狭い通路によって広間と広間が繋がっており、実に迷宮らしい迷宮となっていた。


 三次元の立体的な構造は複雑で、初めて挑んだ者たちはここで相当な時間の足止めを食うであろうことは容易に想像できる。

 だが、すでに踏破されているこの辺りには地図がある。イサギは先人たちの知恵を借りながら、誘われるように闇の中に足を踏み入れた。


 迷宮は無音の世界だ。

 耳に痛いほどの静寂に抗うように、イサギは独り言を漏らす。


「さて、こっからだな」

 

 生物の気配は、まるでしない。

 この辺りはもうすでに、魔世界化が始まっているのだろう。


 懐かしい。

 この匂い、この香り。イサギがさまよい続けた魔世界と似ている。

 迷宮自体は一度しか攻略したことがないイサギだが、魔世界については誰よりも知っている。

 己の魔力の牢獄。イサギはそこで破術を習得したのだから。


「まずは魔晶光だな」

 

 夜目の効くイサギは、わずかな光源さえあれば足を進めることができる。

 手首にくくりつけた魔晶を鳴らせば、それはぼんやりと輝き出す。数年単位で光を放つ魔具『魔晶光』だ。

 左右にひとつずつ装着する。それなりの重さだが、動きを制限されるというほどではない。

 近くよりも遠くを照らすという特殊な性質を持つため、なんら支障はなかった。


「んで、クリスタルパスか」


 ポケットから取り出した手のひら大のジャイロコンパスは、下方向を指し示している。迷宮攻略の際に、その土地に眠っている魔晶反応をキャッチし、その行く先を導いてくれる必須道具だ。

 他にも、帰りや分かれ道の際に目印になるように、特殊な光に反応して輝く晶水を撒く魔具『マカリブ』などもある。水筒のようなこれには残量メーターがあり、おおよそ50回程度のマーキングが可能だが、イサギは念のために10本用意をした。

 

 武装は神剣クラウソラス、バリーズドの晶剣カラドボルグ。そして極術を放つことができる女神の聖杖ミストルテイン。念の為にリヴァイブストーンも多少。これだけあれば準備不足ということはないだろう。


「あとは、破術だけは厳禁、か」


 魔世界化した迷宮において、その魔世界に影響を及ぼす破術は、なにが起きるかわからないほどに危険な術だ。

 迷宮の一部が消失し、肉世界とも魔世界ともつかない虚無の空間が生まれ、そこに引きずり込まれてしまう可能性すらある。

 自分自身による自爆で迷宮攻略が失敗してしまうなど、さすがに間抜けすぎる。イサギは左目の眼帯を強く抑えた。


 同様に、迷宮の中では『魔術』もまた、過敏だ。通常時よりも大きな威力を放つことができる代わりに、ひとたびその制御に失敗すれば、魔世界に満ちたエネルギーはたやすく術者自身へと跳ね返ってくる。

 この迷宮世界は、地上とは『(ことわり)』が違うのだ。イサギはそれを肝に銘じる。


「できる限り、魔術も使わないでいたいものだな」


 イサギは以前よりは魔術の扱いが上手になったとはいえ、それも自身の持つ膨大な魔力に任せての大雑把なものだ。まだまだ得意とは言えない。

 だからこの先、危機があったところで、剣だけで切り抜けられたらいいのだが。


 ふと、イサギは気配を感じて足を止めた。

 

 原則的に――アルバリススに『モンスター』と呼ばれるものは存在しない。

 人語を解する獣と言えば、四大禁術『獣術』によって変化したドラゴン族のみだ。

 魔族と神族を生み出した創造神は、獣たちに知恵を与えることはなかった。よって、魔術を操る動物や植物などは、この世界にはいない。

 それはあくまでも、この『肉世界』には、の話だが。


 迷宮の中、すなわち魔世界化した地には、この世ならざるモノが棲まう。

 

 ひたりひたり、という足音が聞こえてくる。

 それは爛れた皮、腐り落ちた手足、吐き気をもよおすような異臭をまき散らしながら、腐肉を引きずるようにしてこちらに迫る亡者の群れだ。


 ゆっくりと、明かりの中に現れた醜悪な怪物たち。

 彼らをアルバリススの住人はこう呼ぶ。

魂人アンデッド』と。

 

「魂世界から漏れ出た生命の残滓が、なんだっけかな。

 かつてのニンゲンとしての記憶を再現しようとして、土に宿るんだけど、

 でも、それがうまくいかず、鮮烈な死の記憶に引きずられて、

 あんな形になるんだとか……、セルデルが言ってたかな」


 石遇兵(ゴーレム)のように土で作られた彼らなのに、なぜ腐臭をまき散らすかは、わかっていないらしい。

 ある学者が言うには『我々の魂こそが、もともとそういう臭いを発しているのだ』だとか、夢も希望もない話だ。


「ま、なんだっていいさ。

 大事なのは、魂のよりどころである迷宮の魔晶核を強奪しようとするものを、あいつらが全力で邪魔しに来るってことだけだからな」


 魂で形作られた彼らを、完全消滅させる術は――通常手段では――ない。

 だからイサギもその土の肉体を引き裂き、とりあえず再び魂が別の土に憑依する前に、進行ルートを確保するのみだ。


「プリーストの法術で一発浄化! ってわけにはいかないからな、この世界のアンデッドは」

 

 本来の意味での不死人たちが、蠢きながらこちらに這い寄ってくる。

 その数は無数。もはや男とも女ともつかない形相で、イサギの肌に爪を立てようと迫り来る。通路いっぱいに広がる彼らの姿は、グロテスクの一言である。

 しかし、その程度のことでイサギが戦意を失うことは、ありえない。


 イサギは腰の剣に手をかけ、どちらを抜くかと一瞬だけ躊躇し、そうして引き抜く。

 白銀の剣。イサギがかつてこの世界に召喚された理由のひとつ。愁の手によって復元されて、そうしてようやく戻ってきた神器だ。


 暗闇の中をほうき星のようにきらめく白い光は、美しき刀身の輝きだ。

 それを見下ろすイサギはふと気づく。クラウソラスがいつもよりも一回りも二回りも、光に満ちているような気がしたのだ。

 それを単なる錯覚だと断定するのはたやすい。

 けれどイサギは、そうはしなかった。


「……そうか、お前もわかっているんだな。

 この前にプレハがいることが」


 24年前、イサギとプレハはともにダイナスシティから旅に出たけれど。

 そうだ、たったふたりきりの出発ではなかった。傍らにはいつだって、この剣があった。


 きっとこの剣も、覚えていてくれているのだ。

 ……なんてことを考えるのは、剣士としての感傷だろうか。


 イサギはクラウソラスを突き出し、口の端を吊り上げた。

 この黄泉路、邪魔立てするものは、死者とて容赦はしない。


 蹴散らし、道を斬り拓くのだ。


「んじゃ、行くか。――相棒」

 

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