10-7 ただひとり、喜びも悲しみも胸に抱きながら、
「ま、ハイキングみたいなもんだな」
歩けば目的地にたどり着くのなら、それはなんとたやすいことなのだろう、とイサギは思う。
どこへゆけばいいのか、なにをすればいいのか。そういったことが明確であり、目的地があり、コースが決まっているのだ。
ならばこんなものは――迷宮攻略など――ハイキングのようなものだろう。
口笛を吹くような調子で、イサギはひとりファンファーレを口ずさむ。
「てれってー、イサギはレベルアップー。なんて、な」
くるりと手の中でクラウソラスを回すイサギの背後には、おびただしいほどの土の塊が散らばっていた。どれもこれも、魂の残滓に取り憑かれたアンデッドのなれの果てだ。
百や二百は下らない。新たなる攻略者イサギがラタトスクに突入したのも、前回から二ヶ月ぶりというから、だいぶ熱烈な歓迎を受けてしまったようだ。
「今更あがるような経験値は、ねえか」
剣を振れば、拭くまでもなく付着した泥は放散され、掻き消える。晶剣の類は手入れも楽で助かるものだ。イサギはクラウソラスを鞘に収めた。
クリスタルパスの方向を確認し、曲がり角を抜け、再び次の広間に入ると。
「……なるほどね」
空洞のような目の奥に、ぽつりと点った紫の炎が揺らめいている。魂人たちが、やはりそこにも――数えるのも嫌になるほどの数が――ひしめいていた。その魂によって部屋の中がほのかに明るんでいるほどだ。
イサギは片手で器用に剣を抜くと、両手をだらりと前に伸ばしながら掴みかかってこようとするアンデッドたちに切っ先を向ける。
「同情はするし、なんとかしてやりたいとも思うけどな。そのためにはまず、俺が魔晶にたどり着かないといけないんでね」
腕を引き戻し、鋭い呼気とともに、イサギは神速の突きを放つ。煌気の込められたその刃は、イサギの行く手を阻んでいたアンデッドたちの腹に見事な風穴をこじ開けた。
バランスを崩して次々とドミノのように倒れてゆくアンデッドたちを踏み越え、海を割ったモーセのように、大群の中をイサギは駆け抜けた。
かろうじて反応できた数少ないアンデッドたちも、イサギの剣の結界に阻まれて腕を斬り飛ばされてゆく。
「良い反応だな。冒険者ギルドはこれからの礎となる若者たちを、いつでも募集しているぜ。お前らのような、B級、C級クラスの即戦力なら大歓迎だ」
告げて、イサギは広間を後にする。
また、その先にも山ほど亡者たちが群れをなしており、イサギは再び彼らを土塊へと戻す作業を行なう必要があるのだったが。
斬り、進み、斬り、進み。
迷宮の中にいると、時間の感覚が狂ってしまう。
昼も夜もない上に、魔世界では肉体の疲労を実感として感じることができないためである。空腹も眠気もぼんやりとして、すべてが曖昧模糊だ。
指先の感覚もあやふやであり、この体に血が通っていないのではないかと思う瞬間さえある。
迷宮攻略慣れした者ならば、それでも自らを見失わずにいられるのだろうけれど。
イサギにあるのは自制心だけだ。とりあえずそれがあれば、まあ事足りる。
斬り、進み、斬り、進み。
十戦を数えるたびに、イサギは意識的に休憩を取るようにした。
耳が痛くなるような無音の中、その場に腰を下ろし、通路の壁に寄りかかっては眠る。
この世界、アルバリススにやってきて一番上手になったのは、睡眠の取り方かもしれないとイサギは思う。
召喚された当初は暗殺者に付け狙われる恐怖に怯え、プレハがそばにいてくれるとき以外はロクに寝付けなかったというのに。
今ではほら、目を閉じれば強制的に意識をシャットダウンできる。
バリーズドに習った、戦場での傭兵の休息手段だ。闘気によって、己のコンディションをもコントロールすることができる。これができて、ようやく一人前の戦士だと言われたことがあった。
イサギが一人前の戦士になれたのは、旅に出てから半年以上経ってからだった。
様々なことを教えてくれた師であり、友であるバリーズドの顔を思い出しながら、イサギは一時的に脳を安めて――。
――目を開いたその次の瞬間、彼の前には一匹の亡者がいた。
目と目が合う。生者の命を羨むように揺らめく魂の火。しかしイサギの行動は極めて迅速でった。
「よ」
イサギは床に手をつき――こちらに向かって爪を振り下ろそうとしているそのアンデッドの頭部を、ブーツのつま先で蹴り砕きながら――ブレイクダンスをするように、跳ね起きる。
標的を破壊しつつ着地し、イサギは大きく伸びをした。
「んー」
寝起きのイサギは、首を鳴らして辺りの様子を見回す。
こちらを取り囲むアンデッドは、20ほど。哨戒中の小さな群れに、たまたま見つかってしまったということか。
通路の真ん中で眠りこけるイサギは、さぞかし不用心な獲物に見えたことだろう。イサギが過去の教訓からどれほどのアンテナを張り巡らせて、その安全を確保していたかも知らず。
「この感じだと……15分ぐらいかね?
迷宮内だから正確な数値がわからねえけど、まあ、よく眠れた方だな」
腕をねじり、軽い柔軟を行ないながら、イサギはアンデッドたちを眺め、そして拳を握った。
「んじゃあ、準備運動が終わったら、引き続きラタトスク攻略を進めるとするか」
この後、イサギは四回の休憩と睡眠を取り、その十倍のアンデッドの群れと遭遇し、そのさらに数十倍以上のアンデッドを始末して――見事、第一階層を突破するのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
<第二階層・枝の孔>
なだらかに下ってゆく坂を降りてゆくと、イサギがたどり着いたのは吹き抜けのようにぽっかりと空いた巨大な空間だった。
なるほど、愁から渡された迷宮ラタトスクの簡易地図――恐らくこれひとつで首都ダイナスシティに家が建つほどの価格だろう――を見やれば、ここから先が第二階層のようだ。
「まったく底が見えねえな」
吹き抜けの孔の中へとコインを投げてみるものの、暗闇の底からは静寂が返ってくるばかりである。まるで地獄へと続いているかのような錯覚さえ覚えてしまう。
淀んだ空気の漂う第二階層には、巨大な根のような枝のような植物めいた足場がいたるところに絡みついていた。恐らくはこの細い道を下って、地下へと降りてゆくのだろう。
「……とんだアスレチックだな」
その頼りない足場から一歩でも足を踏み外せば、一巻の終わりだ。
エルフ族のおびただしい血で産み出された魔晶迷宮は、まったくもって、底意地が悪い。
「しゃあねえ、下にいけばいいんだろ、下に」
意を決して足場に飛び移る、イサギはその意外にもしっかりとした枝を足裏で叩き、確かめながらゆっくりと下ってゆく。
中にはこぶし大ほどの幅ほどしかない道もあり、また、これが本当に正解ルートかどうかもわからず、イサギは顔をしかめた。
「そういえば、これも言ってたのはセルデルだっけかな。
『迷宮はいかに侵入者を効率的に殺すかを最優先に進化していく』ってさ」
修羅場をくぐり抜けたイサギの体幹とバランス感覚は、もはやロープの上に爪先立ちしたところで、決して揺らぐことはないけれど。
下を見れば、暗鬱とした気持ちになるのは、やはり元勇者も人間である証拠だ。
「まったくもって、効率が良いよな、落下死ってやつはさ。
高いところに細い道を配置すりゃ、勝手に死んでくれるんだからさ。
しかもこればっかりは鍛えることができない、人間の根源に関わる恐怖だ」
もし靴が滑れば、真っ逆さまにどこまでも落ちてゆく。闇の中、足場は見えず、だからこそ着地の態勢を取ることも難しいだろう。
さらに――。
「……鬱陶しいな」
杖で地面を叩いていたことが功を奏し、イサギは罠を見破ることが出来た。
それは枝であるはずが、枝ではない、虚空に浮かぶ魔力で作られた実体のない幻だ。
すなわち、入念な落とし穴のようなものである。
足場とひとつなぎになってそんなものが仕掛けられているのだから、ここで命を落とした冒険者は数知れないだろう。
「……」
なんだか、面倒になってきた。
こんな調子で第一階層と同じぐらいの長さの第二階層を突破するのか。
行く手を阻む敵を次々と斬り倒してゆくのなら、お手のものなのに。
立ち止まり、髪をかきむしるイサギ。
――その立っていた足場が唐突に消失したのは、次の瞬間だった。
「おいおい――」
気づいたときには――しがみつくこともかなわず――イサギはすでに落下してしまっていた。一瞬だけ手放した杖を空中で掴み、イサギがまず最初に行なったのは、闘気を練り上げることだった。
浮遊感にゾッとしながら、全身に煌気をまとう。これでとりあえず足場に激突しても致命傷は避けられるだろう。
もともと罠に引っかかることは、考慮のうちだ。自分は迷宮探索のスペシャリストでもなんでもないのだから、その心構えはしていたつもりだ。まさかこの空間にある枝の形をした足場のそのほとんどが魔力で作られていたとは思わなかったが。
問題はここからだ。大事なのは、リカバリーだ。
罠を踏むのは構わない。仕方のないことだ。だが、それで行動不能に陥ることは許されない。
イサギは一瞬、逡巡した。
この場を脱する手段はある。あるにはあるが……。
煌気翼翔は闘気と『術式』を組み合わせて発動するものだ。
ただでさえ魔世界を制御することが難しい迷宮内において、さらに落下中という悪条件下、難易度の高いあの技を使いこなせるか、それはもはや博打の領域であった。
「ったく、しゃらくせえな!」
しかし、イサギが迷ったのは、やはり一瞬だけである。
どのみち、ここから先、術式を使わなければ切り抜けられない場面が出てくるというのなら、同じことだ。
「煌気翼翔!」
イサギの背中から放散された金色の粒子は、翼の形を取る――が、それは陽炎のように揺らめき、固定されず、宙に拡散されてゆく。
落下速度はほんのわずかに軽減されたが、しかしイサギの体はなおも落ち続ける。彼の背中から漏れ出す金色の光は、そのすべてが膨大な魔力の塊だ。生命の輝きだ。
「――ッ!」
イサギは暴れ狂うコードを力づくで支配する。このままの勢いで煌気を放ち続けていたら、すぐに気を失ってしまうだろう。
龍の尾のように高くたなびくそのすべての煌気を包み込み、己のものとするコードを描く。いつもの数倍にも及ぶ質量を、取り込むのだ。だがそれはたやすくはない。すくった水が指の隙間から溢れてゆくように、闘気は失われてゆく。
イサギの判断はさらに早かった。完全なる形の煌気翼翔を顕現させるそのコストとリターンが見合わないと見るや、現状の術式をただちに破棄し、そのバージョンをランクダウンさせたものを描く。それは彼がもっとも初期に使った、浮遊落下するための翼。パラシュートのような煌気である。
自らの技の性能を十全に把握し、その時々によって応用し、さらに研究と改良を怠らず、進化し続けることをやめない勇者の飽くなき探究心が、彼を救う結果となった。
術式はすぐに発動し、イサギの落下速度は――急激に減速した。
「……」
イサギは思わず額の汗を拭い、ため息をついた。術式の詠出はかろうじて、うまくいった。まさか迷宮内での詠出が、ここまで難しいものだとは。
自らの背中から生えた、無骨な羽根のような出来損ないの光を見上げ、イサギは頭を振る。
「格好悪ぃ」
それがなによりも大事なことであるかのように、イサギはひとりごちる。
不幸中の幸いか、一度発動さえしてしまえば、辺りは魔力の満ちた魔世界だ。その維持は、むしろ地上にいた頃よりもずっと容易だった。
「まあ、災い転じてなんとやら、か」
枝の上で待ち構えるアンデッド――第一階層よりもずっと手強そうである――を横目に、イサギは緩やかに下降してゆく。
それにしても、厄介な階層だ。枝から枝へと飛び移って下を目指そうとしても、着地した床が見えている通りに『存在しているか』どうかがわからない。
今立っている足場すらも消失するのなら、立ち止まることは許されず、だからこそ休息を取ることもできない。
パーティーを組み、それぞれのメンバーを命綱で繋ぎながら少しずつ進んでゆくのが、さしずめ本来の攻略法といったところか。それにしたってお互いの命を預けられるほどに信頼した仲間を揃えるのは、なかなかに難易度が高いだろう。
深い深い地の底に落ちてゆく。ここが地球なら、マグマにぶち当たってしまいそうな深度だが、迷宮内は時空が歪む奇妙な世界である。どれだけ落ちたところで、肉世界の常識に囚われることはない。
途中何度か、不定形の雲の姿をした、魂を求めて魔力を放つモンスター『フォッグ』とすれ違うこともあったが、イサギはことごとく彼らを無視した。
あれもアンデッドの仲間だが、物理攻撃が効かず、魔力をぶつけて霧散させなければいけない相手など、相手にするだけ時間の無駄だ。
非常に有効的なショートカットを行ない、イサギはこうして一度も亡者と交戦することなく。
大量の魔力と引き換えに、第二階層を攻略したのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
<第三階層・輝砂海>
第二階層『枝の孔』の最深部まで降り立ったイサギは、そこでとても不思議な光景を目にした。
迷宮の地下にあったのは、広大な砂浜であったのだ。
それは真っ白に輝き、目が痛くなるほどの光を放ちながらイサギを出迎えた。
不格好な闘気を消して白浜に着地すると、わずかに砂が舞い上がり、懐かしい感触とともにイサギのブーツが軽く埋もれた。ここが砂漠ならばその輝きから猛烈な熱砂であるはずなのだが、伝わるのはひんやりとした冷気であり、それはあたかもイサギを積もったばかりの新雪の上に足を踏み入れたような気分にさせた。
「……ま、これはこれで足を取られるから、厄介ではあるな」
地平線の先まで広がる輝く浜辺は、闇よりもなおその大きさを把握しづらかった。
斜面と砂山、風紋の織りなす自然――に酷似した迷宮の様子――を前に、イサギは覚悟し、一歩を踏み出す。
アルバリススにも砂漠は存在する。ばたらに生えた灌木や突如として出現する渓谷。ひどく巨大な涸川。そして日々その色を変え、形を変え、旅人を惑わせる砂漠だ。かつてイサギも挑んだことがあるシャハラ首長国連合周辺の景色だが、その当時はたったひとりだったわけではない。
「落下死の次は、遭難ってか?」
ここでは見上げても、月や北極星を確認することはできない。クリスタルパスを逐一確認しながら、進路を間違わないようにしなければ。
こういった砂の世界において、コンパスが狂うのはお約束といったところだが。冒険者ギルドの特注品はそこまでやわではないようだ。
「……しっかし、すごい光景だ」
第二階層から砂時計のように落ちてくる砂は、まるで滝のようだ。
本物か幻かはわからないが、遠くには緑黄色の海が広がっている。緑と光で照らしだされた景色は、まるで教会の色彩豊かなステンドグラスの中に入り込んでしまったかのような錯覚をイサギに与えた。
イサギはとりあえずコンパスの指し示す方角へと、歩いてゆく。
これだけ広い場所にたったひとりだと、第一階層や第二階層よりもずっと、孤独感が浮き彫りになる。
無言の行軍に、精神がすり減ってゆくようだ。あるいはそれが迷宮の狙いなのかもしれないが。
東西南北も判別がつかない砂漠。頼れるものは小さなクリスタルパスひとつ。これがもしおかしくなっていたのなら、自分はここをいつまでもさまようのかもしれないという不安。胸が締め付けられるようだ。
行けども行けども、果ては見えず。
永遠に続くかのような光の中、孤独に砂をこそぎ、歩く。
「……」
いつしかイサギは海辺を歩いていた。
まさしくこれは、冥府の川のほとりのようである。
生者の存在しない、なにもない、誰もいない、音も匂いもない、渡し守もいない、虚無の光の中、歩く。
つけた足跡の数を数えながら、イサギは進む。
杖をつき、長い旅路を歩んできた老人のように。
イサギは歩き続ける。
見果てぬ道の先を見つめながら、一歩一歩確実に。
気が狂わぬよう、己を見失わぬよう、一歩一歩を唱えながら。
10万歩を越えた辺りだった。
イサギは、ふと声を聞いた。
幻聴かと思ったが。
だとしても、イサギはその声を無視することはできなかった。
やけに耳の奥に入り込んでくるそれは。
若い女の笑い声だった。
近くの水辺から、泡がぽこりと立ち上ったと思えば。
次の瞬間、そこからひとりの少女が顔を覗かせた。
『――アラ、おひとりカシラ?』
彼女は、金色の髪をしていた。
なにも身につけていない、半人半魚の娘。言うなれば、人魚だ。
白浜の輝きに照らされた彼女は、この世のものとは思えないほどに美しいかった。
人魚は優雅に浅瀬を泳ぎながら、こちらへとやってくる。
『スコシ、疲れたデショウ? ここで、休んでイキマセンカ?』
耳朶を舐められるかのような甘い囁きだ。
無音の世界をただひとり歩き続けてきたイサギは、まるで血管に打ち込まれたアルコールさながらの酩酊感を覚えてしまう。
白魚のような指で手招きされ、イサギはふらふらとそちらに近づいてゆく。
彼は今、夢を見ているかのような顔つきをしていた。
『サア、こちらへ。ドウゾ、ゆっくりと。こちらへ、トワに……』
まるで手繰り寄せられるように。
ふたりの距離は縮まってゆく。
やがてイサギは、砂浜に寝そべる人魚に触れられるほどの位置までやってきて、ひざまずく。
微笑を浮かべる人魚の顔は、記憶の中の誰かに酷似していた。
柔らかな金色の髪は濡れているはずなのにふわふわで、つり目がちの蒼い瞳はイサギの心根を鷲掴みにして離さない。
『――ねえ、ほら、疲れたでしょ?
だから、もういいじゃない。
キミはがんばったよ。こんなところまで来てくれて、さ』
人魚の声は流暢さを得て、さらに甘く、蜂蜜のようにイサギの脳を満たしてゆく。
近くで水しぶきがあがった。そこには同じ顔をした美少女が犬のように水飛ばしをし、やはり精巧な模造品のように微笑んでいた。
人魚たちは次々と増え、まったく同じ声で、イサギを水遊びに誘っている。
『おつかれさま、イサギ。
ねえ、一緒にホラ、遊びましょう?』
『あたしたちと、ずっと、ずっと、ね?』
『もう、いいじゃない。
辛いことも、苦しいことも、ぜんぶ、忘れて、さ』
イサギの手を、足を、外套の裾を引き、海へと引きずり込もうとする彼女らを見下ろす少年の目は、暗く、濁っている。
孤独に苛まれた無音の第三階層にて、ようやく差し伸べられた手は、今も愛する少女のものとまったく同じ。小さくて、滑らかで、そして傷だらけの手のひらだ。
「それができたら、ま、どんなに良いことかな」
イサギは人魚の手を引く。海辺から引きずり出された人魚は一瞬だけ驚きの表情を見せたものの、受け入れられたのかと思い、すぐに艶やかな笑みを浮かべた。
『イサギ、あたしと一緒に――』
「ああ、そうだな。
魔王に挑む前夜、そうすることができていたら、どれだけ良かったことか。
お前を20年、ひとりにすることもなかったんだ」
もしやり直せるとしたら。
イサギはそうしていただろうか。
今一度あの日、あのときに戻れるなら、プレハとふたりで逃げて、彼女の言ったように暗黒大陸の奥地に家を建てて、畑を耕し、獣を捕るような、穏やかでなにもない暮らしを選んでいただろうか。
たったふたりで、ずっとふたりで、世界も見捨てて、人間も見放して、戦争も見ないふりをして、結婚し、子どもを作り、老いて、そうして、真綿のような幸せの中、死んでゆくことができただろうか。
イサギは思わず頬を緩める。
人魚の抱擁を突き放して、それからすぐに――邪悪な顔で、口元を釣り上げた。
「ま、やらねえよな。
そんなことをしたって辛いだけだ。
逃げ出したんじゃ、置いてきたやつらのことが頭に浮かんで、苦しいってな。
言ったのはお前さ。そして、ふたりで決めたことなんだ。
世界を救おうって。そこから俺たちの旅は始まったんだ」
イサギは抜いたクラウソラスを、逆手に振り上げ――。
ためらいなく――人魚の顔面を真っ二つに斬り裂いた。
『アアアアアアアアアアアアアアアア!』
絶叫をあげながら土の塊となり、その場に崩れ落ちてゆく魂人を蹴り飛ばし、イサギはクラウソラスを手の中で回す。
プレハの形をしていた人魚たちは皆、本来の姿――眼窩の窪んだアンデッドへと変貌している。その数、13体。
「は、偽物が何匹集まったところで、俺の行く手を阻むことができると思うなよ。
人様の頭から、勝手に思い出を再現させやがって、気持ち悪ぃ」
アンデッドの動きは見違えていた。
水辺から跳躍した彼らはすでに空中で体勢を立て直し、こちらに向かって爪を突き立てようと迫り来る。
それは熟練した冒険者の動きと称しても過言なく、地下深く――すなわち、魔晶に近づけば近づくほどに魂の残滓は色濃く、高い強度を持つモノへと変わってゆくことを如実に示していたのだが。
「ま、それでも……そう、悪くはない時間だったがね」
これは彼女たちへ贈る、ちょっとした『礼』だ。
イサギは渾身の技をもって――プレハに自らが到達した境地を示すかのように――応える。
右手にクラウソラス、そして左手にカラドボルグを引き抜き、イサギは双剣を逆手に構えた。
腰を低く落とし、その体内に爆発的な煌気を発生させ、吠える。
「――エクスカリバー・エクストリーム!」
二本の刃から放出されたのは、イサギを中心とした剣撃の嵐。
共鳴し合う雷剣カラドボルグと神剣クラウソラスの魔力を煌気によって増幅し、拡散して放つ刃の竜巻は、一瞬にして全方位を斬り刻んだ。
たった一度の闘技により、13体の人魚たちは一撃で破壊される。巻き上げられたアンデッドの憑依した土塊は、白浜の上にバラバラになって散らばってゆく。
周囲を無差別に蹂躙するこの技は、無論パーティーを組んでいる最中には使用できないが、こうしただだっ広いなにもない空間において、並外れた制圧力を誇った。
「言っただろ、こんなのハイキングと変わらねえ、ってさ」
初めて実戦に投入した一撃の出来栄えに満足し、イサギは双剣をしまう。
「ま、術式の代わりにはなるかな」
想い人の顔をした残骸を踏み越え、イサギは浜辺を越えてゆく。
今はただ、なにもいらず。
たったひとりの道を、喜びも悲しみも胸に抱きながら、
「こう見えても、元勇者なんでね。
偽物ごときに惑わされねえよ。
それでもよけりゃ、どっからでもかかってこい、ってな」
その後、六度の襲来を跳ね返し、イサギは第三階層の終わりへと辿り着く。
第四階層『根の国』は――まさしく『死地』と呼ぶのに相応しき場所であった。




