④
岬町の駅でモノレールからレンタルの自動車に乗り換え、海岸道路で市街地を出た。
朝から小雨が降っていて、海は灰色に沈んでいた。防風林を切り開いて造られた林道は極端に巾が広く取ってあるが、自生の植物が勢力を盛り返しアスファルトの両端が雑草に押し上げられて朽ち始めていた。
道路は磯に出て、うねうねと続く道の先、内陸の秋色の山々のラインが急勾配で海に差し込む狭い浜にクレーンのある船着き場とエリアを隔てるコンクリートの塀が見えた。塀の向こうには錆色の古びた倉庫や建造物が並んでいる。
開発区は現地の漁村が一部を使用している様で、正門の警備小屋に地元の人らしい老人が椅子に座っていた。ウェンは車を降りて、小屋の受付窓口から小型のテレビを見ている老人に声をかけた。ジェロが段取りをつけていて、ウェンが名乗ると老人は頷いた。
「聞いてるよ。鍵の貸し出しは記入帳に名前を書いてもらう事になってる。」
くたびれた紙のノートは一行ごとに名前と日付を記入する様になっていた。ウェンは一番最後の行に社名と名前を記入した。ウェンの前の記入者は数ヶ月前で、その幾つか前はもう昨年の日付でインクが滲んでいた。老人はテレビの上に置いてあったビニールのトレーをウェンに見せた。沢山の鈍く光る金具が無造作に放り込んである。
「この箱が12号館の鍵だ。12号館はあの山の裏側だ。」
空き地にぽつぽつと散開する倉庫の間を通り、海に張り出した小山を越えてゆく舗装道路を老人は指さした。
「どれが101号室の鍵ですか?」ウェンは金具をかき回し、老人に聞いた。
「さあ、それは俺にはわからんよ。俺は村が使っている倉庫の番をしているんだ。箱ごと持って行ってくれ。館の入り口は大きい鍵のやつだ。」
箱には色々な形の何十個もの鍵が入っている。
「どの建物もぼろぼろだ。中に入るなら気をつけて。」
ウェンは仕方なく箱を脇に抱えた。「分かりました。」
網の修理をしている男の横を通りコンクリートの空き地に車を走らせると、幾つかの倉庫には小型の漁船やロープの着いたブイが見えた。漁村の倉庫や作業場として一部が使われているが、殆どの建物は設備が撤去された廃屋となっている。工場や事務所も、建設半ばで鉄骨が剥き出しのまま放置された住居区域も、全て閉鎖され外壁は色あせていた。岸壁沿いに道が上りになり、坂を上りきると次の浜が見えた。工場とビルはまだ点々と岸沿いに続いていた。
「なんでこんな僻地を開発したんだ。」ウェンは一番手前に壁面に12と大きく塗装されたビルを見つけた。
「海岸は電力生産の条件がいいからだ。」
フォルトは斜め下に見える12号館の屋上へチラリとよそ見をした。
「あの建物には発電機がない。」
「太陽熱とか風力とかの事か?」
「複合型の発電機を外した跡があるな。」
12号館は岸壁に沿う様に建てられていて、屋上も地上も枯れ色の落ち葉が積もっていた。屋上に雨で黒く濡れた土台だけが残っていて、元は何かが乗せられていた様ではある。
「売却を繰り返したビルだ。閉鎖して誰かがどっかに持っていったんだろ。」
写真で見るよりも大きな4階建てのビルだった。防波堤を兼ねた広い駐車場に車を入れると、建物の地階の端に「小川ラボ」と書かれた入口が見えた。ガラス壁の内側にブラインドがあり、中は見えない。扉は風除けの2重扉になっていて、外側のガラスドアは大きく傾いた取っ手に錆びた鎖がぐるぐると巻きついていた。
「扉、壊れてる。」フォルトは車をラボの前に止めた。
「触ったら崩壊しそうだな。鍵は裏口だ。」
二人は車を降り、濡れた落ち葉をピシャピシャと踏みながら山側の通用口へ向かった。通用口の取っ手に鎖と錠前が掛かっている。老人から渡された鍵を差すと砂を噛む様な音を立てて開いた。
中に入ると建物の廊下は薄暗かった。潮にさらされて風化した外壁に比べ、内部の状態は悪くない。受付窓の付いた用度室があり、その先は玄関ホールだった。両開きのガラス扉から海が見える。サロン風のホールにはどこかの部屋から持ち出された大量のデスクや端末機器があちこちに積み重ねられたまま放置されていた。
「あれがニューマンだ。」海側の喫茶室を覗いたフォルトが言った。ウェンが見ると、バーカウンターの奥の部屋に半透明のケースがあり、中に見える影は座っている女性の様だった。
「店員か?」
「そうみたいだな。昔、ニューマンの定番だったお婆さん型だ。」
通用口からはラボは一番奥の位置になる。喫茶室の横から入った廊下は、片側に採光窓、向かいにドアが並んでいる。通り過ぎる幾つかのドアの開け放された空室に、ニューマンのケースが一機づつ置いてあるのが見える。不用品の詰まったダンボール箱が回収を待つゴミの様に廊下に寄せてあり、通路を塞いでいた。ウェンは腰位の高さのタイヤの付いた白い金属製の箱をゴロゴロと押して通路を空けた。埃をかぶった上面には「警備機」と書かれている。
一番奥のドアに101とプレートが貼ってある。二人で箱を引っ掻き回し、何度も試してようやく鍵は開いた。
ラボの中は海側のブラインドが閉められて暗かった。傾いた入口ドアの向こうに海と駐車場が見える。古びた工房だった。壁面にびっしり並ぶ時代遅れの機材が長年の仕事をこなしてきた風格を感じさせる。入口側の作業台を囲む棚には、計器や工具が綺麗に整理されていた。他の部屋にあったような半透明のケースが見当たらない。ウェンは目の前の毛布の掛かった塊に気付いた。
心構えをして毛布をそっとめくると、目を閉じたニューマンの顔が現れた。
白いスーツを着た中年男性だった。リクライニングの椅子が起動装置で、内部に機械が詰まっていそうな金属の箱になっている。
「ジェロが椅子にスイッチがあるって言ってたぞ。」ウェンは一歩下がった。
フォルトは椅子の反対側に回り、屈んでカチンとスイッチを入れた。
ニューマンに反応は無かった。
「電源が要る様だな。発電機が無かっただろ。この建物は電気が通っていない。」フォルトは部屋の隅の天井につけられた配電スイッチを調べた。
「一般電力は?自家発電だけじゃないだろ。」
「用度室に行けば入れられると思うけど、勝手にそんな事するのはどうかな。何年も電気が通ってなかったのなら漏電とか誤作動とかの心配がある。」
ウェンはふうん、と頷いた。電動のヒトロボットをまじまじと見る。遺伝子が外見を決めるプラスと違い、理性的な顔立ちと細身の造形はなんとなく人工的に感じる。
「起動したら後は蓄電で動くんだろ?」
「このニューマンに内蔵されているバッテリーはビルの閉鎖後は充電されてない。動くとすれば今の残量分だけだ。」
「こんなところまで来て停電じゃ帰れないぞ。やってみよう。」
見てくるよ、フォルトは言って部屋を出た。
フォルトは通用口まで戻り、用度室の鍵を箱から探した。一つだけ使い古されている鍵がカシャンと回った。用度室は狭い部屋にモニターや操作盤が壁面いっぱいに並んでいる。休憩用のソファの横に半透明ケースがあり、反対側の壁に大型の配電盤があった。配電盤の一番大きなレバーを回すと、遠くでモーター音が鳴る。大きな制御盤のあちこちで赤や緑のランプがぽつぽつと点灯した。フォルトはウェンの電話をコールした。
「どうだ?」ウェンに問いかける。
「ニューマンの椅子から何か音がしてる。動きだしたぞ。」
「いけそうだな。」フォルトは配電盤を見上げた。配電盤の横に並ぶモニターに警報という文字が赤く点滅している。
「警報がでてる。101号室、入口ドアの施錠に異常あり。」
「どういう意味だ。」
「表の扉が壊れていたからだろ。警備システムがあるようだな。どこかに繋がってたら面倒になる。」
「起動すれば電力は切ってもいい。もう少し待て。」
電気は通った様だが機械がブーンと唸るだけで、ラボの薄暗い室内は変化がなかった。照明も点かない。ウェンはガラス窓の際にあるコードを引っ張って、ブラインドを開けた。雨空と海の青白い光が部屋に入り込む。
スッ、と布のすれる音に振り返ると、ニューマンはもう起動していた。
椅子の上で上体を起こして、自分の肩の埃を手で掃っている。足元に掛かる毛布を見て、ウェンの方へ指を突き出した。
「鍵を壊して入ったな。君には不法侵入の疑いがある。そこを動かないでくれ。」
ニューマンは挨拶の言葉もなかった。ウェンはフォルトに言った。「起きた。話が出来そうだ、電話を切るぞ。」
ウェンがそばに寄ると、ニューマンは指をひっこめ、椅子に横座りしてウェンを見上げた。黒い瞳の輪郭がオレンジ色のリングになっている。ヒトと外見を区別するためのサインだ。
「表の扉は壊れていた。僕はフタバ社のウェンだ。亡くなられた小川さんのご家族に許可を貰って入ってる。」
ニューマンは目を瞑る。電子脳にある回線で外部と連絡を取っている様だが多分回線は契約切れだろう。
「回線にアクセス出来なくて、君の言ってる事を確認できない。警察に連絡する。」
額に手をあてて目を覆い、さらに脳回線を探った。
「回線が繋がってないなら警察も呼べないんじゃないか?」ウェンは話を合わせた。
ニューマンは瞬きをして、薄暗い自分のオフィスを見渡す。フォルトはもう電気を落としていた。
「停電してる。」
「この建物はもう使われていないんだ。」
「君の電話を貸して貰えないだろうか。」
「あいにく取り外しできない。なあ、君はここで小川さんの助手をしていたんだろ、僕は君に会いに来たんだ。」
「僕の稼動は課税の対象になる。3年経過している様だから、過去3年分の納税の義務がある。」
ウェンは瞼をピクリと動かした。器物の分類のロボットには所有者が有り、税金がかかるのは知っている。
「3年納税していなければ3年稼動していないって事か?」
「僕は3年間稼動していない。市からの納税証明と現所有者からの使用許可を回線経由で僕にインプットしないと僕は仕事は出来ない。」
3年の空白はフタバの回路の仮説に合致しない。
そんなもんだろうとウェンは思ったが、長時間かけてここに来ていた。結論には早すぎる。何をこの助手ロボットに聞くべきか考えた。
「動かなくていいよ。話は出来るんだろ。」
「停電で充電が出来ないけど、僕のバッテリーはまだ少し残ってる。簡単な運動テストも出来るけど?」
「せっかくだけど君を購入する予定はないんだ。君の話を聞きたいだけだ。」
助手は紳士的な笑顔を作った。
「ようこそ。所長の椅子にかけてくれ。お茶を切らしてて、おもてなしが出来ない。」
「僕はプラスだ。お茶は飲まない。」
ウェンは椅子の埃を掃って座った。
「このラボの話を聞いてもいいかい?」
「断る。僕は業務内容に関して外部の人と話はできない。」
「ここはニューマンやプラスの修理工場なんだろ?」
「そうだ。ここはもともとはニューマン社の開発区で、所長は誘致を受けてここでヒトロボットの修理工場として開業したんだ。」
助手の応答が掴めない。ヒトと変わらない話し方だがジェロやフォルトの話では、彼らは条件反射的な感情表現を設定されているだけだ。
手首の時計をちらりと見た。電気が止められていたのは予想外だ。
「バッテリーはあとどれ位もつ?」
「30分くらいかな。」
この相手に遠回しな話は無意味だとウェンは思った。
「ユリエと言う女性を知っているかい?」
「知ってる。僕の友人だ。」
即答だった。
フォルトの目前には男がいた。
部屋を出ようと振り返ると立っていた。フォルトと同じ身長があり、グレーのユニフォームを着て腰に警棒と銃が付いている。ビルの電源を入れただけで警備員は作動しない。
さっきの警報が連動していた様だ。
「ここは用度室です。あなたは当館関係の方でしょうか?」
警備員は高い響きの声を出した。瞳にブルーのリングがある、かなり古い型のニューマンだった。
「ちょっと電気が要ったんでつけてみた。もう切った。」
フォルトは短く答えた。彼ら海外製の防犯ロボットは実力行使を判断するのが早く、話をこじれさせたくない。
「外部ドアに故障が発生しました。館内部の方々に協力をお願いしております。」
「君の会社はもう存在しない。この建物は閉鎖されているんだ。」
警備員はフォルトの言葉に反応を返さず、自分の手のひらを上げて見せた。全てのヒトロボットは手のひらにIDが埋め込まれている。
「身分証明をお持ちでしょうか?」
フォルトは黙って左の掌を上げた。すぐに警備員はバッテリーが切れる。無理に騒がず待った方がいい。
他にも起動したロボットがいるのだろうか。
ウェンは言葉に詰まった。手帳にあるユリエの身分証明番号を見る。
「1212ユリエというプラスだ、知ってるのか?」
「知ってるよ。ここに勤めていた女性がつれてきたんだ。」
助手の目を正面からみた。その思考過程は全く読めない。
「ユリエを改造したか?」
裏口で物音がした。開け放したドアがガタンと動き、スッと白いものが入ってきた。
ウェンの前でピタリと止まったのは、さっきの「警備機」と書かれた箱だった。
「ドアの鍵が壊れています。あなたの識別人相は当館の登録に無く、不法侵入と見なされる恐れがあります。」箱のどこからか聞こえる声はウェンに言っている様だ。
「警備機だ。日本製と違って少々手荒だぞ。おとなしく従え。」
助手は立ち上がり、急に威圧的な口調になった。ウェンは箱の上から下まで眺めたが、つるりとした箱に目らしきものは見当たらない。
「どこに向かって話せばいいんだ。」
「警備機に受け答えの会話はできない。会話をしたいのならニューマンがお勧めだ。」
助手のお勧めを無視してウェンは警備機に言った。
「普通の外来者だ。この部屋のオーナーの許可を貰ってる。ちょっと時間がないんだ。」
くるりと助手へ向き直る。
「君は、ユリエを改造したのか。」
助手はペタンと椅子に座りなおした。
「僕はプラスの改造はできない。所長の作業のアシストが僕の仕事だ。」
「管理人が参ります。管理人がくるまで動かないで下さい。」
箱は警告を繰り返したがこのビルに人はいない事は分かっていた。
「従業員はルウという人だろ。ルウはユリエを何で連れて来たんだ。」
「プラスの患者には市民権があり、僕には患者に対しての守秘義務がある。君は僕の記憶にアクセスする権限はない。」
「なぜユリエの事が業務になる。友達じゃないのか?」
「いい人だ。ルウと小川所長と4人でお話をしたんだ。」
警備機がビィーと警報を鳴らしながらゴロゴロと前進し、ウェンの脇に付いた。無人の管理室とアクセスできず方針を変えた様だ。
「区の警備センターに御連れします。速やかに私に同行下さい。」
「警備におとなしくしたがえ。申し開きは係員にするんだ。」助手はまた立ち上がった。
係員はありえるとすればさっき鍵をくれた老人だ。
「テレビみてるよ。」
返事は無く、独り言になった。調子の外れたロボットを2体同時には相手できない。ウェンは立ち上がりつかつかと廊下へ歩いていった。警備機がゴロゴロと着いてくる。ドア側の壁に「警備機」と書かれた窪みがあり、上に小さな扉が付いている。警備機の収納庫だった。警備機を停止させられるだろう。ウェンは扉に手を掛けた。
「触れてはいけません!」
警備機のボディがしゅっと開き、中から関節のついた警棒がウェンに向かって飛び出した。
「おい!」
ウェンは警棒を両手で受け止めた。先端が炭素になっている。スタンガンの電撃はプラスには致死量だ。警棒は振り解こうとギイギイと関節を曲げる。ウェンは懸命に押さえつけ、警棒を掴まれた警備機はウェンに体当たりする。両手を警棒から離せず、ずるずると押されていった。
「あぶない、やめろ!」
向かい合うフォルトと警備員にウェンの叫び声が聞こえた。警備員は部屋から廊下を覗いた。すっとフォルトに顔を戻し、
「動かないで下さい。」と言った。
だっと廊下へ走り出た警備員をフォルトはすぐに追いかける。警備員は全力疾走で駆けた。ゴミの山を突き飛ばし、腰から警棒をぬいて、警備員は白い箱ともみ合うウェンに突進した。
ウェンにめがけて振り上げたうでにフォルトが横から飛びつき、警棒が箱の開口部へ突き刺さる。腕を交えた二人はそのままウェンと箱に激突し、パリ、と箱が鳴った。ウェンとフォルトはゴツンと壁に突き当たり、警備員はゴロゴロと廊下の先へ転がった。箱がくるくると回り横倒しにたおれる。ウェンがおいっ、と叫んだ。警備員が転がりながら銃を抜いていた。
銃口がパチンと光る。
乾いた音に弾かれた様に床に倒れたのはフォルトだった。
大柄の身体がドスンと廊下を揺らす。フォルトは仰向けで目を大きく見開いていた。腰に蜘蛛型のチップが貼り付いている。電撃弾だ。
「貴様、」
振り返ろうとする暇もなく、跳びついてきた警備員にウェンは押し潰された。巨体の下敷きになり、がっ、と声を漏らして必死にもがく。警備員の顎を頭で突き上げ、身体を回してなんとかうつ伏せの姿勢を取った。
警備員の反応が無い。
警備員は跳びかかった姿勢でバッテリー切れだった。
巨体から這い出し、フォルトに手をのばすとバシッと撃たれたような痛みを受ける。くそっ、とウェンは警備員が握っている銃を足で蹴り、銃ははじけて転がった。すぐに思い直して銃を拾い、手に取ってみるが電撃を止める様な仕組みは無い。
ラボに入って助手を探した。
「助けてくれ、弾が刺さってる。」
助手は表の扉をガタガタ揺さぶっていた。取り込み中だ、と言う助手の腕を掴み、廊下に引っ張った。
「誰?」
「プラスだ!撃たれた。」
フォルトは声もだせない。チップがパ、パ、と秒針の様にスパークしていた。
「脳が破壊される、ラボに運ぼう。」助手がフォルトの両足を掴んだ。ウェンはがっと腕を持つ。
「うっ。」自分の腕が硬直した。
「プラスは電気に弱いな。手袋をしなくちゃ感電するよ。」
聞いてる余裕は無かった。小刻みな衝撃が腕にかかり、弾かれる指を気力で固定する。
「この人重いよ。」助手は非力だった。
「引っ張れ、」ウェンは中腰でバックした。感覚が分からなかったがフォルトの腕はついてきた。
フォルトの体は本当に重たい。折り曲げた腰まで痙攣しそうになり姿勢を変えられない。フォルトの呼吸が止まってるように見え、ウェンは焦った。大きな身体を斜めにずるずる引きずる。
なんとかラボの床に入れると、ウェンはがくがく膝が揺れる。助手はケーブルのついたペンチを取り出し、チップを摘んだ。パチンと音がして、フォルトの体からチップが抜ける。ぐ、と声が出た。
「フォルト、」息が上がり、ウェンの声はかすれている。
助手がフォルトの胸に手を当て、少し押した。フォルトは額に汗をうかべ、はっと息を吐いた。
「大丈夫かな?」助手は顔色を見る。
はあはあとフォルトは床に寝たまま瞬きをした。
「うん。」フォルトは仰向けで答えた。
ウェンはガクンと両膝を着いた。べっとり手に汗をかいていた。ジンジンと腕がしびれ、熱く火照っていた。手足をふらつかせて這って行き、廊下に顔を出す。警備機共が動きだす気配は無かった。入口の壁に背をもたれて、ガックリと座り込み、はあ、と息を漏らした。
助手は作業台にコロンとチップを置いた。ペンチを元の場所に置いて、扉の所へ戻って行った。フォルトを床に転がしたまま処置は終わりの様だ。
ウェンはしばらく声を出せずにいた。課税がどうとか言っていたが、彼は手際よくフォルトを診てくれた。彼の法令の解釈は多分ウェンには分からない。
助手は工具で鍵の部分を分解してしまった。
「そこは壊れていた。俺達じゃない。」
ぐったりと、扉の鍵の事を言った。
「そうだな。ルウがラボに来たみたいだ。データケースがなくなってる。」
ウェンはもう何も言えなかった。
「停電で手動のカギがかかってたのを壊して入ったんだ。困った人だ。」
助手は鍵のねじれた部材をかみ合わせていたが、すぐに諦めて屑入れに放り込んだ。
「いつの話をしてるんだ?」
「さあ、僕の寝ている間だ。僕にカバーをかけたのは君じゃないだろ?」
ここに来た時に助手には毛布が掛っていた。ウェンはちがう、と言った。
「多分ルウだ。僕が埃を被ってたからカバーをかけたんだ。そんな事をするのは先生とルウだけだ。」
自分を気遣ってくれる人がいることが、少し誇らしげに感じているように思えた。
助手は箒を棚から取り出した。
「君たちはしばらく休まないといけないな。裏口の鍵はかけておいてくれ。」
扉の取っ手に箒の柄を差し込んで、かんぬきの代わりにする。
「時間切れか?」
「余り話も出来なくて残念だ。」
ウェンは床に手を着いてふらふらと立ち上がった。まともに話もしていないが、また電気を入れたりしたら今度は何が来るか分からない。
「君がユリエと会ったのはいつごろだ。」
「何年も前だよ。」
「友達だろ、何年会ってないんだ?」
「友達だよ。7年会ってない。彼女はしばらくここに通っていた。ルウと顔が似てて、ルウの目はブラウンで、ユリエは黒だ。」
助手は起動装置の椅子に腰掛けて足をのせ、足首の裏側のプレートを椅子の部材に接合した。ウェンは助手の椅子に両手をついて、考えていた事を言った。
「7年前にユリエを小川所長が改造したんだな。」
「眠たくなった。鍵をかけるのを忘れないでくれよ。」
「待ってくれ、何の話なら出来る?」
助手は天井を向いて、何も言わずに椅子に身体を横たえた。ウェンは質問を重ねた。
「その時にユリエは子供を産んだのか?」
助手はその質問に答えないだろうが、彼は知っているはずだった。ウェンの中で答えは出ていた。自分自身に問いかける様に、呟いた。
「俺は彼女の産んだ子供を知ってる。」
「男の子だろ。もう、大きくなっただろうな。」
助手の瞼が揺らめきだす。ウェンは右手を助手の腕に置き、時間を引き延ばそうとした。ウェンにとって助手の言葉は衝撃的だったが、今の問題は違う所にあった。
「まだ話が有る。」
助手の瞳のリングが消えていく。
「彼女はまた、子供を産もうとしているそうだ。そんな事出来るのか?」
「無理だよ。体改造が維持できない。」
「それでもやろうとしてるんだ。彼女は自分の為に子供を生もうとしている。」
腕を掴んだ。声が届いているのか分からない。瞼が閉じられ、身体が硬直して行った。
助手の名前を聞いてなかった。
ウェンは君、と声をかけた。
「それは、」
助手の最後の言葉はどこか、遠くから聞こえて来る声の様に霞んでいた。
「とても素敵な事だね。」
いつの間にか外の雨が本降りになり、窓のガラスを水滴が伝っている。深く沈んだ色の海の防波堤に、打ち付ける雨の水しぶきがコンクリートの形に添ってラインを作り、ざあざあと落ち葉を叩く雨音がラボの薄暗い部屋の中まで聞こえていた。ウェンは硬化してしまった助手の腕をしばらく掴んでいた。彼の電源が再び入れられる事は恐らく無いだろう。
フォルトの事を思い出し、大丈夫か、と声をかけた。
「眠ったのか?」
フォルトは横になったまま助手の事を聞いた。
「彼は寝た。お前は動けるのか?」
ゆっくりと身体をねじり、フォルトは上半身だけ起き上がった。
「礼を言い損ねた。」
「気にしないだろ。面倒だが割といい奴だった。」
ウェンはフォルトに手を差し出したが、フォルトは大丈夫、と言って自分でソファーに座った。
「警備が銃を使うとは思わなかった。」
大きな背中を丸めて、フォルトはどしゃ降りの雨を見つめた。撃たれた事をフォルトは自分の失敗だと思っているようだった。
「奴は廊下に転がってるよ。」
ウェンはフォルトに倣って横のソファに座った。
お前は頼りになる、と言ってフォルトの肩をたたいた。
今のウェンには精一杯の言葉だった。




