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未満の月  作者: 粒子
2/10

 なみだ型の葉っぱが黄色くなって、ひらひらと地面に落ちて来るのは秋の自然現象だった。公園の林をすり抜ける乾いた風に辺りの枝がザワザワと揺れ、深い木立のざわめきと無限に重なり合う。緩やかな風は止む事がなく落ち葉と一緒に空から降りてくるかすかな葉音が、巨木の群れの頂の様子を伝えていた。人間は胎児の時に母親の胎内で聞こえていた音を覚えていて、ある種の響きに心を安らげるそうだ。胎児期の無い自分に木の葉の音が優しく聞こえるのは、過去の生活の中で培われた物なのか、複製遺伝子の記憶なのかは分からない。

 目の前には公園の境目を示す並木があり、その向うは広い道路をはさんで白い箱の様な建物が見えた。公園は大きく領土を広げている様だったが、自分ともう一人の男以外に人影は見当たらなかった。

 隣のベンチに跨って腰掛け、ずっと喋っていた若い男は急に静かになって、こっちを向いて観察している。高く、明るい声で話す、若いと言うより少年に近い男だった。若者は落ち葉を拾い、軸をつまんでくるくると回し、並木を見上げる。

「この木は何て言うのかな?こんなに成るのにどれくらいかかるんだろうね。」

 樹木について知りたい訳ではなく、こちらの反応を見ているようだった。ベンチに腰掛けたまま首を巡らすと並木は公園の敷地形状にそって戸建ての黒い屋根が並んだ住宅街まで続いていた。

「ポプラだ。成長が早い。20年程でこれぐらいになる。」

 若者は明るい顔になる。

「さすが保育園の先生は詳しいな。」

 若者の言葉のどこかに感情が起伏し、消えてしまう。ウェンはまず、若者に聞いた。

「君はプラスだろ?」

「そうだよ。ウェン先生と同じフタバ社製『ヒューマンプラス』だ。僕はフタバ本社ヒトロボット管理部のジェロだ。」

 企業の製造するヒトの複製が、人口の減少で綻び始めた日本経済を補っていた。工場で生産された複製人間は出荷時から成人で、ヒトがその成人過程で習得していく程度のささやかな知識教養と地域道徳、身体と感情の使い方を予め脳細胞に入力されている。ヒトと同じ市民権を持ち、メーカー企業の派遣社員として全般社会で就労して10年の満期で企業人からの独立権が与えられている。

 ウェンは管理部の人間が傍にいると言う事に、自分の状況がぼんやりと判った。

「ジェロ、俺達はここでなにをしているんだろう?」

 ジェロは驚いた顔をしてみせた。テレビで見る様な、最近の若者風のしぐさだった。背中を丸めて顔を突き出し、ウェンの目を見る。

「ウェン先生はやっと落ち着いたみたいだな。お昼すぎに君を起動してフタバからここに来たんだよ。今3時だ。君はあの日の事を覚えているのかな?」

 ウェンは自分の左手を見た。親指の付け根の皮膚に時刻を示した数字が青く浮かび上がる。現在の西暦年が自分の認識と違っているのに気付いた。

 1年近くが過ぎていた。はっきりした記憶はなかった。あの女に攻撃されたんだと思う。ユリエと言う女だ。ウェンは質問で返事をした。

「ユリエという女を知ってるかい?」

「逃げた。保育園の監視映像記録を見たよ。君を殴ってスタスタ歩いて階段を下りていった。幸いと言うと悪いけど、保育園は君と屋上の柵以外には被害は無い。」

 流行の折り目のあるスーツを着てオレンジ色の髪を軽快に整えたこの若者は、見かけよりも聡明なようだ。プラスは人間と外見上の違いは無いが、手首に金属のアクセサリーを着けているのは異性プラスの恋人がいる人達のファッションだ。

「ユリエは僕達と同じフタバのプラスだ。ベビーシッターとして佐々木勇気君の家に通っていたんだけど、契約年数が終了して次の仕事までの空白期間だった。あの事件は警察が捜査中のままだ。」

 ウェンの認識する時間の中で、それは数時間前の出来事だった。「彼女は勇気君を連れ去ろうとした。」

「悪意ある人間に彼女が利用された可能性をフタバは主張している。君はどう思う?」

「そうは見えなかった。」

「僕もそう思うよ。映像では彼女は自分の意思で行動していた様に見える。彼女は勇気君が生まれた時から世話をしていて、通常定められた年数を延長までしている。別離を受け入れられなくなってしまい、発作的に勇気君を連れ出そうとしたんだ。」

 ウェンは並木の先の建物を見つめた。枯れたポプラの落ち葉は道路を越え、向こうの建物の敷地まで入り込んでいた。

 ウェンにはジェロの話がうまく飲み込めなかったが、それについて深く考えることは無かった。

 自分の日常生活にあった色々が、頭の中で一斉に目を覚ましていた。職場の先生や子供達の事、休日に集まるバスケットボールチームの仲間達。住んでいた園の近くのフタバ社寮。ちらちらと方向を変える思考はすべて一言に収まった。

「俺、園に帰っていいかな。」

 ジェロは少し、ためらったように見えた。

「残念だけど、君の居た職場にはもう後任が派遣されてるんだ。保育園の先生方は君の再生を希望されていたけど、フタバの状況判断で担当の交代になった。」

 ウェンは初めて自分の現状に気付いた。残念だけど、とジェロが繰り返したが、ウェンには聞こえてない。

「いずれ皆さんには連絡できるよ。」

「いずれって何だ?」

「ウェン、僕から話をしてもいいかい?君を再生したのは僕のプランなんだ。状況を説明するよ。君の再生の費用は労災保険で、特別な事情だから望むのであれば離職も可能だけど、君は現在もフタバの社員だ。停止されてる給料は今月からまた支給される。新しい仕事が君の希望に応じて提示されるまで今日からしばらくは僕と後一人と、三人でチームを組む事になってる。今時点の君の社内立場は僕の部下になる。」

 ウェンは無言でジェロを見据える。

「僕達はプラスの活動を管理する部署にいて、一つのトラブル処理の専属として短期間のチームを組む事になってるんだ。ユリエの件だ。ユリエは製造出生後10年の満期でフタバ社を辞めてる。佐々木家には個人契約で通っていたから、事件はフタバ社としては無関係というスタンスだ。だけど僕の考えではこの件は今、会社にとって最大の懸念事項だと思ってる。君はユリエが保育園に現れた時、自分と同型の彼女の異常を感じ取った。彼女はあの時冷静な状態じゃなかったはずだ。」

 ジェロはウェンの同意を待つ様に言葉を切ったが、ウェンは相槌も打たず、質問もしなかった。

 ジェロはじっと自分を見返すウェンと見つめ合い、瞬きを一つした。

「聞いてないな?」

「聞いてる。要点だけ話せ。」

 ジェロは納得しなかった。呆れた様に両手のひらを広げて、自分から話を元に戻した。

「君の処置の事は仕方なかった。保育園はすぐに人材補充が必要だったはずだし、あの時の君の損傷具合は死亡扱いに近かった。」

「わかった。俺の仕事は何だ。」

 ウェンの態度に気が変わったのか、ジェロは説明を省いた。

「僕はユリエを探している。手伝ってほしい。君が怒るべきなのは彼女だろ。」

「あいつを探してどうする?」

「報復はしないのかい?」ジェロは言い放つ。

「自分の事で精一杯だ。奴は警察が探すんだろ。」

「プラスの犯罪は大抵関係するヒト、人間の問題である場合が多い。もし、ユリエが人間に利用されていたのであれば、彼女は既に解体されている可能性が高い。警察機関が本気で捜査を続けているとすれば、探しているのはユリエを利用したヒトだ。」

 真顔で付け加える。

「ウェン、大切な話をしたいんだ。イライラせずに聞いて欲しい。」

「お互い様だ。」

「僕らプラスは標準の成人人間と同等の人格を持って工場から出生される。僕らの精神状態は通常そんなに脆い物じゃない。それは僕らがこの日本国の社会で市民権を維持し、人間として生活するための重要な条件だ。だけどもし、ユリエの保育園での行動がプラスの精神、品質の問題であるのなら、フタバも無関係では通せない。」

「プラスは世界中で何万人だ?製品の不具合は製造メーカーには有る事で、ユリエの件でフタバが責任を認めても会社が潰れるほどの事ではないだろ。」

「それは分からないけど、確かに今の段階では取り返しのつかない状況までにはなってない。だけどそれはユリエの行動が現状に留まればの話だ。」

「フタバの心配は何だ?」

「彼女は子供を生むつもりなんだ。人間の子供をだ。」

 強い風がつむじを作り、公園の木々が一斉に騒いだ。舞い上がった落ち葉は渦になって二人の間を通過したが、二人は気づかなかった。

「赤ん坊の事か?そんなことが出来るのか?」

「人間女性の医療技術としての人工子宮は現在かなりの高性能になってる。プラスの体内に設置して胚移植をする技術理論は社内に以前からあるけど、実証は当然無い。生命を扱う上での安全性なんかは問題外だし、倫理の問題も発生する。いわゆるタブーとされる技術を使って、ユリエは自分の子供を望み、自分の意思で人間を作ろうとしている。彼女は人間の不可侵領域に入ろうとしているんだ。彼女の行為の成否にかかわらず、この事が公になれば人間社会は決してユリエを許さない。フタバと僕達プラスも間違いなく社会的制裁を受ける。僕らはユリエを止めなければならない。警察や、報道業者より先に彼女を見つけなければならないんだ。」

「まて、ジェロ。それは確実な話なのか?なんであの女の行動がわかる?」

「フタバの中央データ思考回路が事件当時、消息不明の彼女の行動について予想した数十通りのパターンの一つだ。」

「数学の理論じゃないんだ。子供には代替なんて無い。一人諦めて別の子供を、なんて考えは人間やプラスには無理だ。ましてやそんな不確実な実験にあの女の気持ちが移るとは思えない。」

「代替が効かないのは僕にも分かっている。でも彼女が埋め合わせの為なんかじゃなくても、新しい希望として出産を思いつく事はあり得ると思う。彼女が人間の遺伝子を入手している形跡がある。この仮説が正解である確率は高いと僕は思っている。」

「自分で自分を改造するのか?何の許可も取らずにプラスの改造をしたり、人間の遺伝子を扱うのは違法だろ。誰がそんな事に手を貸す?」

「彼女の計画に必要なのは彼女自身の体に人工子宮を造る事と、胚移植だ。プラスを改造出来る町工場や胚移植の出来る医者なんていくらでも居るよ。この事に関して明確な合法ラインはないし、違法行為であっても相手がヒトなら、彼女が代価を払えば不可能じゃない。」

 ウェンはいつの間にか自分の髪に引っかかっている枯葉を指で払った。ジェロにも枯葉は体中に引っかかっていたが、ジェロは全く気にしていない。ジェロの考えはその話のユリエと同じくらい暴走している様にウェンには思えた。ウェンは出生後、育児に関わる企業や保育園の仕事に従事し、長年の経験を積んでいた。新生児の時から一人の子供の世話をするプラスはこれまで何人も知っている。プラスの考え方や行動は同じ職業の人間、「ヒト」と変わらない。医療技術の知識のないプラスが妊娠出産を発想するという事自体、有り得ない。

 ユリエを自分が捜さなければならない理由はウェンには無く、これまでの自分の経験が生かせるような仕事でも無かった。

「その仕事は誰の指示だ?会社のバックアップがあるのか?」

 ジェロは正直に答えた。

「僕の提案で上層部から調査許可をもらったけど、みんな懐疑的だな。一応調べておけって感じだ。僕に与えられた権限は調査チームを組む事だけだ。他の社員の補助は無い。」

 その事は特に問題ではない、という様だった。ウェンは切り出した。

「ジェロ、俺はその話には賛成できない。」

 ジェロは背筋を伸ばした。自分の肩から落ちた黄色い葉っぱに目をやり、もう一度ウェンを見た。

「もしかして断わる気?」

「そうだ。」

「君の協力がいるんだ。」

「俺は保育士だ。俺の経歴を尊重してくれ。」

「保育園で君はユリエの不安定情緒をすぐに感じ取る事が出来た。君は職業上感情を観る感覚が備わっていたし、同型のプラスだから出来た事だ。ユリエは現在何処か、ヒトにまぎれて潜伏していると思う。彼女の顔は特徴が無くて、同期の女性はみんな似ている。彼女が何らかの外見を変えていたら、映像でしか彼女を知らない僕達には身体検査をしない限り区別がつかない。彼女は何年も前にフタバを辞めてるから、社員では君が最後に彼女と関わっているんだ。」

「ユリエを見つけたら呼べ。確認ならする。」

 切り捨てる口調でウェンは言った。目をそらし、正面を向いた。

 通りの向こうの建物は学校の様だった。下校時間の鐘が鳴り、小学生達が騒ぎ出しているのが聞こえてきた。ジェロは諦めなかった。

「ユリエの話が信じられない?」

「そう言っただろ。」

「時間は掛けられない。短期間の仕事だ。もし彼女が妊娠に成功し、その技術が悪用されれば、無限の非人道的行為が可能になる。人間母体以外の所で誰にも知られる事なく人間が作られる様な事態はあってはならないんだ。回路の警告が見当外れならそれを証明出来ればそれでいい。フタバにとって最悪の事態を回避するのが僕と君の仕事なんだ。」

「俺たちは脳細胞の隙間に一般知識や地域道徳のデータが刷り込まれている。プラスが自分一人でそんな大がかりな企てを考えるなんてありえない。俺の仕事は子供の育成だ。そんな調査を手伝う気にはなれない。」

 ウェンの強い意思表示にジェロは黙り込んだ。ウェンが厳しい表情で見つめる学校の正門から小学生達が賑やかに下校し始めた。校門から子供達の明るい色が花が開く様に広がっていく。子供達の帰る方向でグループに分けられ、グループ毎に大人が付き添っていた。グレーの運動着の男性が門扉の前に立ち、子供達を見守っている。

 無言のまま帰宅して行く子供達を眺めていた。ふいにジェロが言った。

「あの子だ。」

 ジェロは鉄棒のそばに居る子供たちの方を指差している。ウェンは意味が解らなかったが口を開く気にはなれず、黙ってジェロの指差す方を見た。

「赤の帽子をかぶってる。黒いランドセルの子だ。」

 塀沿いに居るグループの中に赤毛の髪に赤い帽子の少年を見つけた。ランドセルがまだ新しい。ブルーの瞳をくりくりと動かし、友達と大きな声で笑っていた。

 思わずウェンは立ち上がった。

 その子供に釘付けになった。少し身長が伸び、幼児は少年になっていた。その子の手を自分はさっきまで握っていた。

「勇気君」

 無意識に足が前にでて、踏まれた枯れ枝がパリッとなった。ジェロが近寄り、腕をつかんでウェンを制止した。

「運動着の男はフタバが派遣している警備員だ。子供達に近づくと止められる。」

 ウェンは勇気君から目が逸らせなかった。教師らしき女性が校舎から出てきて、勇気君のグループは繁華街の方へ歩き出した。勇気君は友達とくっついてじゃれあいながら歩いていく。帽子の見せ合いや小石を蹴る事に忙しく、ウェンとジェロには誰も目を向けなかった。ジェロに腕を掴まれたまま、二人は無言で子供達の後姿を見送った。一目で彼だと判ったが、止められなくてもあの子に声を掛けていたかどうか、分からない。自分の知っていた園児と目の前を通り過ぎた少年は別の子の様で、少年が自分の事を覚えているという自信はなかった。彼の為に自分がするべき事はもう何も無い。子供の少しだけの成長に、ウェンは失われた時間が絶対的である事を感じた。

「俺が頼んだのか。」ウェンは呟いた。「そうだな。」

「そうだよ。君は目が覚めると最初に勇気君の事を僕に聞いたんだ。会わせろって。心配、無いって。言ったんだけど、」

 ポプラの並木の方を向いたままポロリと涙がこぼれた。ウェンはクラスを持っていなかった分、園の子供達全員に接していた。子供達の卒業に自分は言葉も掛けてあげられなかった。

 ジェロがきょろきょろと辺りを見渡す。ウェンの涙に驚いた様だった。ジェロは警備員が自分達の方を見ているのに気付き、掌を上げて見せて何か合図をした。

「ウェン、帰ろう。」

 ウェンはすぐに頬を拭った。「どこに?」と、つぶやく。

「僕達は本社から来たんだ。」

 ジェロはちょっと構えていたが、ウェンは何も言わずに頷いた。

 学校から離れ、自転車を置いてきた公園の中央へ向かった。落ち葉は小道の地面に層を作り、足を滑らさない様に注意して歩いていると、二人は段々うつむき加減になった。ウェンは公園の林の中を、道も分からないはずなのに聞きもせず、ざくざくと音を立ててジェロの前を歩いて行った。

「ウェン、」ジェロはウェンに話しかけるのに勇気が要ったのか、大声になっていた。

「君が保育園で培った物は、これまで僕が学ぶ事が出来なかった事の様だ。君の気持ちを理解しなかった事を謝る。」

 ウェンはふり返り、チラリとジェロを見て何か考えた。

「俺の採用を諦めるか。」

 ジェロは言葉をためて、返す。

「謝っただけだ。」

 行く手に立つ太い幹の向こうに開けた場所が見えた。もう少し先で枯葉の小道は終わっている様だった。ウェンは、率直に話をするジェロに答える気になった。

「俺はどんな仕事をすればいい?」

 ジェロは立ち止まり、ほっと笑う。

「外廻りの用件を頼みたい。色々と調べたり、人間と会うことになる。」

「期限を切ってくれ。」ウェンは言った。

「管理部所属としてひと月でいい。それから君が新しい職場を探すのを手伝うよ。」

 林を抜けると、街の音が聞こえてきた。

「もしユリエが見つからなくても、ひと月でいいのか?」

 ジェロは頷いた。

「数日で彼女は見つけられると思ってる。」

 ウェンはジェロの目を見て、ジェロの意思を確認する。

「解った。」

 公園の中央広場に設置された街灯の下に、ジェロは自転車を置いていた。公園の表門へ向かって陶素材を敷き詰めた幅の広い道がまっすぐにのびて、公園の外は高層ビルディング群とショピングモールに囲まれていた。正面には沢山の小さな商店やスーパーマーケットがひと繋がりになったアーケードが、夕方の買い物を急ぐ人々で賑わいを見せ始めている。高架を走るモノレールや地下に配備された車道から、ごうごうと大気を震わせる音が聞こえていた。夕日を受けて鈍いオレンジ色に発光する有機形状のビル群は、改造品種の苔植物で覆われた近代建築で、山脈の様な滑らかな稜線が街の中央部に向かってつながっていた。ウェンも知っているフタバの本社が入ったビルは見える範囲には無い。商店街のあちこちに書かれている地区名からすると結構遠くに来ている様だが、ジェロの空色の自転車は商店街の客が買い物に使っている物と同じ様な型だった。

「1台しかないな?」

「君は自転車もってないだろ?」

 ウェンは二人が公園までどうやって来たのか、全く記憶が無かった。

「二人乗りで来たのか?」

「フタバまでは結構あるからな、途中で交代だよ。」



 アーケードを抜けても夕方の通りは人々が皆慌しく見え、ここが街の中心部に近い場所であることを感じさせた。ジェロによるとウェンの居た保育園とは大して離れていないという事だった。オフィスビルやマンションや公共設備まで両側の路面は隙間なく建物が並び、この街にはあらゆる機能が詰め込まれている。巨大な透明金属の天蓋が付いた国道は往来の人々と自転車が幾つもの方向に流れを作り早足で、ちょっとでも立ち止まると誰かから注意を受けそうな気がする。ウェンはこれまで自分の住んでいた所を離れた事が余りなく、無限に代謝し続ける近代都市の有様を物珍しく眺めながら、返事をした仕事について考えた。

 フタバの本社には中央回路と呼ばれる電子頭脳があり、世界中のネットワークから情報を収集して社会情勢を見極める。外国の配偶子販売会社から国内に入った遺伝子の去年の履歴に、中国奥地の少数民族と北欧のある地域の民族の遺伝子が入国して、同じ場所に届けられているのをフタバの中央回路は発見し警告を出した。どちらもこの国では求められる事の少ない種類の遺伝子で、一年程前の事件で誘拐されそうになった子供の両親の民族的ルーツと一致していた。

 ジェロは息があがって、話を止めた。道は上り坂になっていた。ジェロの自転車には何の動力も付いていない。ウェンはかまわず質問を続けた。

「その履歴は去年のいつだ?」

「日付はわからない。フタバの回路はあらゆる社会情勢を常に監視分析しているけど、入ってくる情報のデータ量は天文学的数値だ。先週になってこの事を発見できたのも偶然に近い確率なんだ。」

 カーブを曲がり、高架道路沿いにビル郡の谷間を通る道に出ると、高架の橋桁に植えられた常緑樹の枝が外側に枝を伸ばし、間道に緑葉の屋根を作っている。さっきまでの国道よりも人通りは少なく、ジェロは落ち葉の少ない道の真ん中を走っていった。

「フタバの製造部の話ではプラスが人工臓器を体内に埋め込むと仮定すると、母体の改造に一年ほどの準備期間が要るそうだ。ユリエが佐々木家を出てすぐに体改造を計画しても、まだ準備段階を終えていない。高額になる費用の調達も必要になる。その遺伝子がユリエのオーダーした物であれば、まだ届けられたクリニックに冷凍保存してあるはずだ。君に明日、そのクリニックに行ってもらいたいんだ。まず外観や、出来れば中の様子を見て、クリニックがどんな所なのかを知りたい。」

 ジェロはユリエが手のひらの一押しでウェンの体を吹っ飛ばしたと言った。一般の社会生活を目的とするプラスが出荷時からそんなパワーを備えている事はない。ユリエはあの時既に体改造をしていた。

 高架道路の上り口が前方に見える。道は再び緩やかな上りになった。ジェロは、息を漏らし、高架を支えるコンクリートの橋脚の横で自転車を止めた。

「疲れた。代わってくれ。」

 ウェンが足をついて自転車を支えると、ふらふらと立ち上がり、長い息を吐いた。

「来る時はどうしたんだ?」

「君がすっとぼけてたから全部僕だよ。」

「覚えてないな。」

 チューブ状の屋根の付いた高架道路がビルとビルの間を抜けていく。道は中央で上り下りに分けられ、沢山の自転車が走っていた。ウェンは端っこの並木に沿ってゆっくりと自転車を漕ぎ出した。透明金属のガード越しに外の景色が見えるがビルの谷間に隙間は無く、フタバの建物はまだ見えていない。

「そのクリニックにユリエがいたらどうなる?」

「そんなに簡単には行かないだろ。でも、想定はして置かないといけない。君同様にフタバの故障者倉庫からもう一人起動させてる。軍事用に体力を強化したプラスだ。君はその人と行動してもらう。ユリエと遭遇した時に彼女が騒動を起こしたとしても、彼ならユリエのパワーを抑えることが出来る。」

「軍兵?極端な準備だな。」

「映像じゃ彼女は一瞬で君を仕留めてるよ。」

「あの女がまだ存在しているなら法的な然るべき処置は必要だが、自分で復讐する気はないぞ。」

 ジェロは高架道路を囲むビル郡の左前方の隙間の向こうに開けた緑の空間を見た。

「ユリエを抹殺しようってんじゃない。ただ、ユリエが僕たちと向かい合った時にどう行動するかは解らないだろ。彼は外見は僕らと変わらないし、当然だけど武装もしない。軍は除隊して建設会社で働いていたそうだ。戦地経験もない。フォルトっていう名前だ。」

 フタバの区画が近くなっていることを路側の標識が掲示している。ウェンは自分の体の調子を診るようにガツガツとペダルをこぎ、自転車の速度を上げていった。

「回路の言う事が正解だったとしたら、ユリエが、妊娠に成功する確率は高いのか?」

 ジェロは返事を考えた。

「彼女の環境に寄るだろ。どんな奴らの手を借りているかだ。多分、今現在がギリギリの臨界点だ。彼女が改造手術を終えて、一つの生命に触れてしまう前に止めないと、取り返しのつかない事になる。」

 煙突型の白いビルを廻ると道路脇はいきなり森林になった。黒々と深い樹海の上を高架道路が縦横に横断している。幾つかのビルが森の木々の間から突き出ているのが見えた。この都市の中心企業である事を主張するフタバ社の本部地区だった。

 ジェロが森の奥に見えるコンクリート造のビルを指さした。

「あれが差し当りの君の住居だ。僕は仕事に戻るから君は故障者再生工場でドクターに診断してもらって退院だ。明日から宜しく頼む。」

 ジェロは高架道路から直接つながっている高層ビル内のガラス張りの部屋の前でウェンを自転車から降ろすと、本社ビルの自分の仕事に戻って行った。『プラスケア』と書かれたフタバの子会社らしき工場でウェンはドクターに退院の診断を貰い、同じビルの上階の割り当てられた部屋に入った。短期間者の宿泊設備でヒトと兼用になっている、ビジネスホテル式の部屋だった。入り口に無造作に置かれたプラスチックの箱に以前の寮から引き上げたウェンの私物が纏められ、一番上の封筒に園の先生達からの手紙が入っていた。

 日暮れになって、ウェンは部屋の映像電話で園長先生に電話をかけた。突然の連絡を園長先生は喜んで、帰っておいでと言ってくれたが人員が補填されている事は聞いている。しばらく本社で仕事する事になりました、今度あいさつに行きます、と返事をした。園長先生の顔を見てウェンは気持ちが落ち着いた。

 封筒に入れられていた半年前の写真の中から子供達の笑った顔を2枚選んで部屋のミラーの枠に貼ると、自分の新しい出発の準備が出来た気がした。


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