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オリヴィアは、靄の中にいた。ここはどこ。誰かいないの。まわりを見回しても、深い霧のせいで、なにも見えない。
不安に怯えるオリヴィアの手を、誰かが握った。驚きはしたが、どうしてか、恐怖はなく。
見上げれば、泣きたくなるような顔が、そこにはあった。
ずっとずっと恋しくて、会いたくて、でももう、どこにもいなくなってしまった人。
「……お母様」
──ああ、これは夢だわ。
オリヴィアは、瞬時に理解した。いわゆる、明晰夢と呼ばれるものだろう。
母親の夢を見たのは、これがはじめてではない。でも、夢だとはっきり理解したうえで、母親と夢で会うのは、これがはじめてだった。
言葉に詰まるオリヴィアに、ナタリアは「オリヴィア。大きくなったわね」と、懐かしい声色で、綺麗に微笑んだ。オリヴィアの瞳に、涙が滲む。
「……ね、お母様。わたし、女官の試験に受かったんです。すごいでしょう?」
「ええ、本当に。とても頑張ったのね」
「頑張りました。でも、たくさんの人が助けてくれたおかげです」
「そうね。でも、そんなあなただから、みんな支えたいと思ってくれたのよ」
「だと、嬉しいです」
子どものようにはにかみながら、オリヴィアは、これまで起こった出来事を、母親に語ってみせた。でも、その会話の中に、元家族とデイルの名前が出ることはなかった。
忘れたわけではない。ただ母親には、楽しい思い出だけを、聞いてほしかったのだ。
わたしはいま幸せですと、安心させたかったのかもしれない。
何時間経ったのだろう。気付けば、まわりから、霧が晴れかかっていて。なんとく、霧が完全になくなれば、この夢は覚めてしまうだろうと、オリヴィアは直感した。
だから最後に、どうしても聞きたかったことを、口にした。
「……あのね。わたし、とても嫌な悪夢を見てから、現実と向き合う勇気がもてたんです」
「そうなの」
それは、なんの根拠もないことだった。でもずっと、オリヴィアの頭の片隅にあった、希望のようなもの。
たとえばあの悪夢を見ていなかったとして、いまのオリヴィアは、どうなっていたのか。想像だけで、ぞっとした。
「──あの夢を見せてくれたのは、お母様ですか?」
ナタリアはそれにはなにも答えず、ただ、慈しむように、静かに笑う。
否定も肯定もしない。オリヴィアはそれだけで、もう満足だった。
♢♢♢
コンコン。コンコン。
ノック音で目を覚ましたオリヴィアは、ゆっくり上体を起こすと、どうぞ、と掠れた声を出した。
扉が開く。部屋に入ってきたマドリンが、おはようございますと声をかけてから、オリヴィアの頬に幾筋の涙の跡があることに気付いた。
「まあ、どうされたのですか? なにか怖い夢でも」
心配するマドリンに、その反対よ、とオリヴィアは頬を緩めた。マドリンに早く聞いてもらいたくて、目覚めたばかりだというのに、オリヴィアは興奮気味に、口を開いた。
「久しぶりにね、お母様の夢を見たの。女官になれたって、報告したのよ。そしたら、頑張ったのねって褒めてくれて」
嬉しそうに、オリヴィアが報告する。所詮は、ただの夢。あるいはなんの意味もないそれを、マドリンが嗤うことはなかった。
「それは、なんて素敵なことでしょう。卒業というこの良き日に、奥様と出会えたのですね」
「ええ」
そう。今日は、王立学園の卒業式の日。これまで母親の夢を見たことはあったが、今回のように、会えた、という実感が持てたのは、はじめてのことだった。
「さあさあ、オリヴィアお嬢様。奥様のこと、もっとたくさんお聞きしたいところですが、身支度を整えませんと。今日は、制服ではなく、ドレスを着ていかなくてはいけませんから。じきに、フィルが迎えに来ますからね」
オリヴィアが、はい、と笑う。
「あら、ふふ。オリヴィアお嬢様がいずれ親戚になるのかと思うと、とても不思議ですが、楽しみですね」
「け、結婚は、まだしないから。お互い、仕事に慣れて、それから……」
「二人とも、本当にしっかりしていて。私の自慢ですわ」
「……マドリン、は」
「はい?」
「わたしとフィル様が恋人になって、本当に良かった?」
見覚えのある不安そうな、年相応な顔に、マドリンが、まったく、と母親の顔で笑う。
「誰より私が祝福したこと、もうお忘れですか? 娘のようなオリヴィアお嬢様と、私が辛いとき、寄り添ってくれた大事な甥っ子が一緒になるのです。これ以上の幸せがありましょうか」
オリヴィアが、ほっとしたような、照れくさそうな、そんな顔で、良かった、と表情を緩めた。
グレースが最後にこの屋敷を訪れてきてから、一年と数ヶ月が経った。あれきり、グレースからも、デイルからも、なんの音沙汰もない。
卒業の日に迎えにくると息巻いていたデイルは、きっと来ないだろう。たとえ来たとしても、追い返すだけだが、屋敷の人に余計な労力をかけたくないので、大人しくしていてほしいというのが、本音だ。
今ごろはきっと、なんだかんだで、二人で仲良く暮らしているのだろう。かつて父親と義母だったあの人たちの末路はあまりに衝撃で、それを一部始終目撃してしまったグレースを憐れに思う心はあるので、自分の知らないところで勝手に幸せに暮らしているのなら、それが一番良いと、オリヴィアは心から思っていた。
それはきっと、自分がいま、満たされているから思えるのだろう。
「──お母様、どうですか? 似合っていますでしょうか」
ドレスアップしたオリヴィアが、母親の肖像画に、微笑みかける。
「……不思議ですね。なんだか、いつもより、奥様が笑っているように見えます」
マドリンの言葉に、オリヴィアが「わたしもそう思っていたところよ」と、嬉しそうに同意する。
「あら。でしたら、間違いありませんね。オリヴィアお嬢様の成長に、晴れ姿に、奥様は感激されているのでしょう」
オリヴィアは、ふふ、と目を細めた。いまなら、はっきりと言える。わたしは幸せだから、大丈夫だよと。
「それでは。お母様、行ってまいりますね」
ぱたん。
部屋の扉が閉められる。
静寂が訪れたオリヴィアの自室。窓から入る光に照らされた母親の肖像画は、眩く、キラキラと綺麗に光っていた。
─おわり─




