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ともさんが校舎へ戻っていった。放課後までまだ時間がある。やることもないので、他の人が見えないことをいいことに、色々とやってみようか。本当にこの時間には何の意味があるんだ。早く現世に帰りたい。まあ、帰ったところでやることなんてないか。考えれば考えるほど、今ここにいる意味が、生きている意味すらもわからなくなる。こうして独りになると、頭が不安でいっぱいになる。
気晴らしに、あの顧問の頭をぶっ叩きたい。いや、流石に人として良くはないからデコピンくらいで済ませておこう。と、思ったけど、木の下が涼しくて心地よかったからなのか、急に眠気が来た。人と話して疲れたのかもしれない。木の下は芝生のような短い草が絨毯のように生え揃っている。ここなら寝心地も良さそうだ。
僕はそのまま、この寝床で寝ることにした。風の音が心地よく、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる――
ここはどこだろうか――なんだか懐かしいような気がする。辺り一面、花が咲き誇っている。この花はなんていう名前の花だろうか。花弁は桜と同じ5つ、中心はチョークのように真っ白で、周りは深い海のような青。とても綺麗だ。僕の前には親子が歩いている。少女とその母親だろうか。少女は一面に咲き誇る花を見てはしゃいでいる。母親は花よりも子供の顔をずっと見ていた。
僕もその親子を見ていて、何とも言えない満足感というか、充実感というのか――なんと言えばいいのかわからないけど、心が満たされていくような、ぽかぽかするような、そんな感じがした。
突然、少女が振り返り、僕の方を見た。それに続いて、母親も僕の目をしっかりと見た。少女は何か言っているようだが、よく聞こえない。母親は僕を手招きしているように見える。後ろを見ても誰もいないからきっとそうなのだろう。あの親子とは何か関係があっただろうか。思い出せない。それにしても、本当に親子は楽しそうだ。
前から緩やかな風が吹くと、辺りの花は音も無く揺れ、微かに甘い香りを感じる。花畑の中にある獣道のような木製の道は、歩くごとに温かみのあるこもった音をたてた。この空間がずっと続けばいいとそう思った。
あたたかい――
今何時だ? 気づくと、先ほどよりも気温が上がっていて、体中から汗が噴き出していた。運動場の時計は、15時27分を指していた。2時間以上ここで寝ていたのか。
寝たはずなのに、むしろ少し疲れたというか、体が重い。あぁ、そうだ。あの顧問に一発お見舞いしないと。寝ぼけたまま、僕は校舎へと向かった。
改めて校舎に入ると、昼休みの時とは違い、とても静かだった。きっと、授業中なのだろう。職員室は2階だったな。僕は昇降口を出て、左に向かった。少し歩けば、階段に着く。
ともさんの為にもあいつをどうにかしないとな。2階への階段を一歩ずつ登っていく。足を上げて、力を入れるごとに足が重くなっていくのを感じる。その重さは身体的というよりは精神的なものの方が大きいように感じる。職員室――やっぱり嫌だな。でも、あいつの動向は見ておきたい。
階段を登り切り、少し行くと、右手に職員室がある。一度、深呼吸をして職員室に入った。中には数人の先生がいた。今は授業中だからか、人数は少ない。何だか、こうしてみると、とても侘しい場所だと思った。先生たちは黙々と作業をし、会話をすることはあまり無いようだ。この寂れた空間で、仕事をしているのか。今まで、職員室という場所について、深く考えることはなかったし、まじまじと見ることもなかった。だけど、いざ考えてみると、先生たちは仕事をしに学校に来ているのだ。姿を見られないことをいいことに、入ってすぐにいた若い男の先生が作業をしているのをじっと見ていた。こんな所で仕事をする先生たちもきっと大変な思いをしているのではないか。
生徒たちの面倒を見ながらも、こうして作業し、時には他の先生から怒られ、反省し、考える。休みを取ることも難しいだろう。今見ている先生は頭を抱えながら授業の準備をしているようだった。ディスク周りを見れば、文字を書いた付箋が沢山貼ってあることに気が付いた。授業中、定期的に生徒に問いかける。丸付けの際は、どうして間違っているのかを明確に書く。など、普段、気を付けるべきことが書いてある。
仕事である以上、責任からは逃れられない。先生ならばなおさらだ。よくよく考えれば、部活の顧問や行事などもあって、休みが一切ないのかもしれない。昔も今も先生という職業は大変なのだと、少し思った。
おっと、つい考え込んでしまった。ここにきた目的を忘れてはいけない。僕は若い先生から目を離し、あたりを見渡した。他にいたのはコーヒーを飲みながらノートを見ている老年の男性教師、眉間に皺を寄せながら作業をする40代くらいの女性教師、そして、見た目の厳つい禿げた中年男性と野球部の顧問がいた。2人は話をしているようだ。それも口論をしている。
「水は飲ませるべきだ。下手をしたら生徒が脱水症状で死んでしまうかもしれない。水を飲ませないという教育方針は間違っていますよ。日下部先生」
あの野球部の顧問が真っ当な話をしている。
「そんなのは甘えだ。我慢こそが強くなる秘訣だ。現に、お前の野球部は甲子園で活躍できていないじゃないか。俺の剣道部は全国3位だぞ? 俺が正しくて、お前が間違ってるに決まってる。それに、世間では水は飲ませないのが当たり前だ」
禿げたおじさんが自信満々に言っている。まさか、野球部の顧問よりもクズがいたとは。
「だから、世間が間違っているんだ。確かに、日下部先生の受け持つ剣道部は強い。でも、体調不良者や倒れる生徒が後を絶たないじゃないですか。それでも、水を飲ませないのですか? 自分の間違いを認めましょうよ」
野球部の顧問は強い口調で言った。禿げた先生はそれが気に食わなかったのか、野球部の顧問の頬を平手打ちした。そして、話すことなく、禿げたクズは職員室をでていった。野球部の顧問は悔しそうな表情をしていた。唇を強く噛んで、手を震わせている。
その後、一時は立ち尽くしていたが、大人しく自分の席に戻り、仕事をしていた。その間、誰も話しかける人はいなかった。避けられているのだろうか。あの酷い奴だと思っていた顧問でさえ、独りで悩み、抱えているものがあるのかもしれない。野球部の顧問が何をしているか見に行くと、授業の進め方の手順を考えているようだった。紙にスラスラと注意点をまとめている。驚いた。あんなに乱暴な人間がこうも一生懸命に誰かのために行動するとは――
さらに、机の上には紙がしわしわになっている開きっぱなしのノートがあり、そこには野球部員と思われる生徒の名前と、その生徒の野球に関する課題や改善点、得意不得意などがびっしりと書かれていた。
僕はそれを見た後、何も言わずに職員室を出た。僕は何が正しくて、何が正義なのか分からなくなった。いくら生徒を想っての行動だからと言って暴力はしていいのか? やはり、この時代では普通のことなのか――あんなに嫌いだった野球の顧問を今はそんな風に見ることができない。
もしかしたら――
もしかしたら、あの顧問は本当に生徒想いの人間でわざと厳しく指導をしていたのかもしれない。それはあまりにもあの顧問にとって都合が良すぎる考えだろうか。
そういえば、昔、誰かに、これと似たようなことを言われたことがあるような気がする。誰だっけな――
あぁ、そうだ。たぶん、お母さんだ。僕が保育園にいた頃、同じ保育園の子供と喧嘩したときに、もしかしたらを考えなさい。と、言われた気がする。あれは何歳の時だっただろう。お母さんが死ぬ少し前だったかもしれない。もしかしたら、あの子はあなたと仲良くしたかっただけかもしれない。もしかしたら、わざとではなくて、何か事情があってやってしまったのかもしれない。そんな
ことを言われたと思う。
もしかしたら――その言葉一つで、誰かに対する考えや印象が大きく変わる。それによって救われるのはきっと、自分自身なのだろう。




