3話
朝の光は、やわらかく畑を照らしていた。
濡れた葉に触れるたびに、水滴がはじけて、手のひらがひんやりとする。
私はしゃがみこんで、形はいびつだが真っ赤なトマトをひとつひとつ、慎重に摘み取っていった。
指先に伝わる張りと重み――
「……よし」
かごの中にいくつか並んだ実を見て、満足げに頷く。
そのとき、トントン、と規則正しく木を打つ音が聞こえてきた。
顔を上げると、小屋の屋根の上に立つシオルの姿が見えた。
無言で雨漏りしていた屋根を修理しているらしい。
(……ほんとに魔王がいる)
ちょっとだけ、昨日のは何かの間違いだったのではと思って、ふと遠い目をしてしまった。
指先についた土をぬぐいながら、小屋の方をちらりと見やった。
シオルは私に気づいているのかいないのか、手を止めることなく、黙々と作業を続けている。
(……何か、変な感じ)
元魔王が今は屋根の修理をしている。
元勇者の私は畑でトマトを収穫している。
信じられないような気持ちで。
肩の力が抜けるような、そんな穏やかな朝だった。
ゆっくりと立ち上がって、かごを片手に小屋へ向かう。
朝日の光に照らされて、トマトが鮮やかに輝いていた。
小屋の脇の水場で手を洗い、トマトに水をかけると、冷たい雫が指先をすべり落ちていく。
いつの間にか屋根の修理を終えたシオルが、背後に音もなく立っていた。
「シオルは普段何を食べるの?」
「人間と同じものだな。魔族もそうだ」
「じゃあ、トマト食べる?うちの朝食はトマトサラダとトマトスープとパンだけど」
「食べる」
速攻で返ってきた返事に、私は思わず目を瞬かせた。
「じゃあ、手を洗って中に入ってきて。まだシオルの家では食事できないでしょ?」
「わかった」
そう言って、丁寧に手を洗い始めた。
その姿を見ながら、思いついたように声をかける。
「シオル、苦手な食べ物とかあるの?」
何気なく尋ねた問いに、シオルは手を止めることなく答えた。
「特にないが……五百年以上、外での食事はしていないから今の食べ物はよくわからない」
「……あ。そっか」
言われてみれば当然のことなのに、思わず間の抜けた返事をしてしまう。
「ナギは苦手な食べ物があるのか?」
「私こそ異世界から来て、こっちの食べ物は全然わからなかったよ。今は食べられる物だけ育てたりして食べてる」
そう答えながら、手にしたトマトを見つめる。
この赤くて小さな実が、少しずつこの村での生活に馴染んできた証のような気がしていた。
召喚された当初は、本当に困った。
食べ物は見たことのないものが多く、名前もわからない。見た目と味が一致しないことも多かった。
リンゴのようなものを食べたら、まさかのドリアンの匂いがして、異世界に来たことを心の底から後悔した。
それから徐々に、皆が食べるものを真似して食べるようになり……今ではトマトを育てられるまでになった。他の野菜はまだ怪しいが。
異世界チートものだと「鑑定スキル」などがあったりするけれど……私にはなかった。
(神様は意地悪だ……)
「さて、トマトサラダでも作ろうかな」
まな板代わりの木の板にトマトを置き、ナイフを手に取った。
刃を入れた瞬間、ナイフが板に深くめり込む。
「……」
ナイフを引き抜き、木の板を見つめる。深々とついた傷に、少しだけ肩をすくめた。
その時、背後から声がした。
「何か手伝おうか?」
振り返ると、シオルが興味深そうにこちらを見ていた。
「ありがとう。でも、ちょっと時間かかるから座って待ってて」
苦笑いしながら、ザクザクとトマトを適当な大きさに切っていく。
本当は薄切りにしたかったが、自分の“チート能力”のせいで細かい作業は苦手だった。
「屋根の修理が終わったなら、次は家具とか日用品をそろえないとね」
「城から運ぶか?」
「え?ここまで?魔王城から?」
切ったトマトをざっくりと皿に並べ、近所の村人からもらったオリーブオイルもどきをさらっとかける。
「大変じゃない?」
続いてパンにナイフを入れる。今度は力を加減しながら、慎重に切った。
「転移してくれば良い」
「あ〜〜〜なるほど。物も運べるの?」
「持てる程度ならな。何度か往復するかもしれないが、魔力で持ち上げて一緒に転移すれば……」
「転移できるのかぁ。いいなぁ」
「ナギも、何もない所から物を出していたではないか」
「あれは、あらかじめしまっておいた物を出してるだけだよ」
「物質を転送しているわけではないのか」
「違うみたい。転送は時間にも干渉する魔法なんでしょ?」
「そうだな。場合にもよるが」
「私のは空間に干渉するだけ」
「ほう。では、一緒に魔王城に行って、家具をナギの空間に入れ、それを転移で持ち帰れば良いではないか」
「!!!!!
……そうだね!」
「では後で魔王城に行くか。ついでに何か必要そうな物はないか?」
「えっと…今の所ないかな?」
「城で欲しかった物などもなかったのか?」
「いやいや、必死に魔王を倒しに行って、死にかけながら帰ったんだよ。見る暇なんてなかったよ」
「そうか。それなら今度時間をかけて見るか?」
「え……でも魔族とかいるでしょ?」
「いないぞ?」
「え…?」
思わずスープ用にとっておいたトマトを握ってしまった。
グシャリとつぶれたトマトを見て、ちょっと考える。
「……スープ用だし、まぁいっか」
そのまま手早く鍋に入れる。
続けて、残りのトマトもひとつずつ手に取り、手のひらで軽く圧をかけて潰していく。
シオルはその様子を少し離れた椅子から眺めていたが、ふと柔らかく笑った。
「ナギは、相変わらず力強いな」
「褒めてる?けなしてる?」
「もちろん褒めている。実物を生で見られて感動している」
「……そう」
手を止めない。
赤い果汁が指の隙間から滴り落ちるたびに、スープの準備が進んでいく。
「それで、本当に行くの?魔王城まで」
「そうだな。必要な物があるのだろう?ついでに案内もできる」
「魔族は誰もいない?」
「好戦的な魔族の多くはナギたちによって討たれていたからな。”魔王”が倒された後は、残っていた魔族もほとんどが、魔王領の外れにある山岳地帯へと移っていった。」
「山岳って……あの、ゴツゴツした岩がいっぱいあったとこ?」
「うむ。あそこは火山だ。暖かいし、地下には湯も湧いている」
「地下の湯?温泉?……いいなぁ。そこも行きたいな。じゃあ魔王城には本当に誰もいないんだ?」
「おかげで、今ならじっくり家具を選べるぞ」
「はぁ~……まさか元魔王と一緒に、家具の持ち出しに行くとは思わなかったよ……」
そう言いながら、最後のトマトを潰し終え、赤い手を洗いに立ち上がった。
あとは火にかけるだけだ。
「1年ぶりの魔王城かぁ」
ぽつりと漏らした言葉には、懐かしさと少しの緊張が混じっていた。
もう二度と行くことはないと思っていた場所。
でも今は、ちょっとした買い出しのついでくらいの距離感になっている。
「あんなに必死に行ったのに。転移ってやっぱりいいなぁ」
そのチート欲しかった。もう一度思った。
(神様は意地悪だ……)
皿に盛ったザク切りのトマトサラダに軽く塩をふりかけた。
厚切りにしたパンを二人分、皿に盛りつける。隣の鍋から湯気の立つトマトスープをお玉ですくい、器に注いだ。
二人は静かに食卓を囲み、時折パンを浸しながら、ゆるやかに朝の時間を過ごした。
食事を終えると、皿を片付けて流しで軽く洗い、布巾で拭き上げる。
シオルも勝手がわからないながらも、丁寧に食器を片付けた。
やがて私は自室に向かい、壁際に立てかけてあった剣の前に立った。
ややためらった後、柄をしっかり握る。
冷たい金属の感触が手のひらに伝わり、かつて幾度も戦ったときの緊張が、胸の奥にじんわりと戻ってくる。
「念のため」——と心の中で呟き、剣を腰のベルトにさした。
シオルは静かに立ち上がり、掌を空にかざした。
柔らかな青白い光が彼の指先から溢れ出し、まるで生きているかのように、ゆらゆらと空間を漂う。
その光は部屋を淡く照らし、静かな波紋のように空気を震わせた。
やがて光は、シオルと私を中心に円を描きながら、静かに渦を巻き始める。
次第に光は激しく発光し、つんざくような風の音が時折部屋に響き渡った。しばらくすると、足元に巨大な魔方陣が浮かび上がる。
鮮やかな閃光に包まれ、視界が一瞬白く染まり…
二人は、魔王城の石造りの荘厳な門前に立っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。 これからもゆるりとお付き合いいただけると嬉しいです。




