竜のわたる夜
「文学フリマ短編小説賞」応募のため、昔書いたものを手直ししました。
読んで、評価していただけるとうれしいです。
つたない作品ではありますが、どうぞ、よろしくお願いいたします。
1
石畳の街路に舞いおりると体重がよみがえり、足を踏みはずすような錯覚に襲われた。
それは、いつまでも空を飛んでいるような不思議な感覚で、魔術師特有の幻覚だった。
ルーンの描かれた外套もいまだ空の上だと思っているのだろう。飛んでいるときと同じように裾をなびかせ、細い身体から少しずつ体温をうばっていった。
それは素足から伝わってくる石畳の冷えとは、またちがう冷たさで、正直、気持ちのよい冷たさだった。
だが、ずっと、こうしているわけにはいかない。
魔術師の国クルトディアは、夕刻になると急速に熱量が失われる。灯油が貴重なため、大半の人々が早々と家路につき、さっさと夕餉をすませ、眠りにつくからだ。だから、クルトディアの夜はとても静かで寒い。それは、夏でも用心が必要なほどだった。
ユーリティアは石の冷えから時刻を察し、予想よりも日暮れが近いことを知ると、買い漁った古文書と一羽の鶏をかかえ、急いで家へともどった。
「みんな、そろってる?」
うしろ手で扉をしめながら声をかけると、住人たちのほとんどが部屋の真ん中に集まって盛りあがっていた。どうやら、いつもの勝負がもう始まっているらしい。
チェスの精霊、モーニング・クラウンとナイト・クラウンの名勝負。昨日までの勝敗は99勝99敗。だから、盛り上がらないはずがない。
両クラウンの勝負は、いつになく競っているらしく、だれもユーリティアに気がつかなかった。
「おーい」
「あ、おかえり。ユーリィ」
人垣の近くで、ぴょんぴょん飛び跳ねていたマルネが、ようやくユーリティアのほうを見た。
「ねえ、ユーリィ、ボクを抱えてよ。クラウンたちの勝負がよく見えないんだ」
「どっちが優勢なの?」
「わかんない。でも、モーニングのほうが、グラシャール王家に伝わっていた秘儀〈兵糧攻め〉を二百年ぶりに披露していて、ナイトのほうが、シャオリィ地方の農民一揆戦術で攻めているんだって」
「へー。今日もまた、すごい勝負だね」
ユーリティアは抱えていた古文書と鶏を近くのガラクタのうえに置くと、外套を壁かけにかけた。素足についた砂を布でふき、それから、人垣の中心をちょっとだけのぞきこんだ。
「ねえ、見てないで、抱えてよ」
「やあ、そうだった。でも、マルネ。今はそれどころじゃないんだ。準備をしなきゃ、竜がここを通るんだ」
「またなの?」
マルネが頬をふくらませ、不機嫌そうにいった。いつも竜が通るときはいそがしくなるからだ。雨戸をしっかりと閉めて、吹き飛びそうなものは全部、家のなかにしまいこみ、井戸水を汲みあげ溜めておき、灯油を小さな壺のなかに取り分けておく必要がある。ほかにも、細々としたことをしなければいけないから、とても、名勝負を見ているひまなんてない。
「そんな顔しないでよ。みんなですればすぐに終わるよ?」
「でも……」
口を尖らせて、ごにょごにょ言うマルネの頭をユーリティアはやさしく撫でた。
「じゃあ、ちょっとだけだよ」
そういって、華奢な体を肩に乗せてやると、マルネはうれしそうに、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「あばれると、危ないから」
「うん。ごめん、ごめん」
夢中になって観戦するマルネが髪をつかみながら上体をなおした。そのせいで、ユーリティアの鳶色の髪がクシャクシャになる。ユーリティアは苦笑し、手櫛でなおしながら、たずねた。
「どっちが勝ちそう?」
「うーん……わかんない。白い駒のほうかな? いっぱい残ってる」
「それだけじゃあ、わかんないな。駒がどこにあるのか、教えてよ」
「えーと、王冠のとなりに、馬がいて、馬のとなりに、お城がたってて、あっ、いま、モーニングが兵隊の駒を前にだした」
「マルネ。……チェスの観戦は、もう少しルールを覚えてからでもいいかな?」
「……うん」
マルネは素直にうなずき、おとなしく肩からおりた。
「で、なにをすればいいの?」
「そうだな。まず、みんながそろってるかどうか、数えてくれる?」
「りょーかい」
マルネが人垣を縫って数えはじめたので、ユーリティアは玄関の鶏を台所にかたづけ、近くにいたレンデルに水汲みをたのんだあと、角灯に火をいれ、灯をともした。そして、足早にすべての部屋の雨戸を閉めてまわり、屋上の洗濯物を急いでとりこんだ。
「マルネ、みんないる?」
二階の階段から顔をのぞかせてみると、マルネが首をふった。
「ウィルがいないよ、ユーリィ」
「どこにいったか、知ってる?」
「いつものトコだよ、アルコ寺院の屋上」
「ああ、そうか……そうだった」
ユーリティアは独り言のようにつぶやくと、急いで階段をおり、脱いだばかりの外套をつかんだ。
「マルネ、わるいけど、もう一度、戸締りの確認をしておいてくれるかい? ぼくは、ちょっとウィルを迎えにいってくるよ」
「わかった」
「それから、今日はもうだれも外出しないように、見張っておいてくれ」
「うん。でも、その心配はないよ。だれも、チェスから目を離さないから」
マルネは人垣に目をやると、ユーリティアに笑いかけた。
2
ユニコーン通りに出ると、空も飛べないほどの強い風が吹きはじめていた。夕闇が占めだした空の下には、弧を描いたような雲が風に添って速く流れている。こんなとき、巨大な寺院が立ちならぶ石畳の通りは危険でしょうがない。途中、谷風のような風になんども飛ばされそうになった。
ユニコーン通りは、王城から放射状に伸びた六本の目貫通りの一つで、寺院のたちならぶ通りだから、今日みたいな日はおろしのような風が吹き抜ける。
ユーリティアは外套が飛んでいかないように、襟元をしっかりと押さえ、這うような姿勢で、石畳をそのまま慎重に進み、アルコ寺院の門をくぐった。そして、灯のついている礼拝堂に顔をだした。
「こんばんは、司祭様」
風に負けないよう大きな声で挨拶をすると、アルコ寺院の司祭、ヴィ・デナルは編物の手を休め、にっこりとほほえんだ。今年で七十になる司祭のほほえみは、とてもチャーミングだった。
ヴィ・デナルは、いたずらっ子のような瞳をユーリティアにむけて言った。
「こんな日はドキドキするわね、ユーリティア。わたくしは寝つけそうもないから、ごらんのとおり、編物で気を紛らわせているのだけど、あなたはどう?」
「ええ、ぼくもドキドキしています」
ユーリティアが答えると、ヴィ・デナルは口に手をあて、ふふふ、と笑った。彼女は誰とでも気さくに話す。それは、信徒でないユーリティアに対しても同じだった。
ユーリティアはこの寛容な司祭に、何度感謝したことかわからない。
「ところで司祭様。ウィルがまた、お邪魔していると思うんですが……」
「ええ。来ていますよ。おそらく、まだ塔のてっぺんにいると思うけど……そうね、そろそろ、呼んだほうがいいかしらね?」
ヴィ・デナルは天井を見上げながら、流れる風の音に耳を傾けた。
すでに閉められた雨戸が、ガタガタと音を立てている。
「やれやれ、うちの雨戸も、わたくしと一緒で歳をとったわねぇ。まだ、竜が通ってもいないのに、ガタガタふるえて…よいしょ、と」
ヴィ・デナルが椅子から立ちあがるのを見て、ユーリティアはあわてて言った。
「あ、そのまま、座っていてください。ぼくが行きますから」
「ええ。ウィルくんは、呼んできてくれる? わたくしはお茶の用意をしておくわ。みんなで焼き菓子をいただきましょう。じつはね、とってもおいしい焼き菓子をいただいているの。せっかくだから、ぜひとも、わたくしの贅沢につきあってちょうだい」
「あ……は、はい」
角灯を手渡されたユーリティアは、勘違いで赤くなった顔を隠すため、さりげなく角灯を顔から遠ざけた。
3
暗い苔の生えた階段をしばらくのぼり、屋上に通じる鉄の扉をあけると、たちまち風が強い調子で押しよせ、ユーリティアをあわてさせた。
すばやく屋上に出て、扉を閉めると、今度は、バタン、と強い音がした。
「だれですか?」
驚いたようすで精霊ウィル・オー・ルプスが、ふりむいた。
手すりに身を乗りだし、金色の長い髪がなびいている。
「ただいま」
「ユリ兄ちゃん。おかえりなさい」
ウィルは手すりにしっかりとつかまっていたから、手のかわりに足をバタバタさせて、こたえた。
「今日も来たんだね。お母さんには会えた?」
「うん、会えたよ。風がビュウビュウで、雲もいっぱいだったけど、むこうのほうだけちょっと晴れたから……ほら、見て、お母さんが見えるよ」
ウィルはうれしそうに地平線を指さした。
そこには金色と茜色の混じった太陽があった。重苦しい、どんよりとした藍色の雲の隙間を縫い、まさに沈もうとしている瞬間だった。
目を細め、しばらく太陽を眺めたあと、ユーリティアは手すりのところまで行き、ウィルの肩に手を置いた。風のせいで、肩はずいぶんと冷たくなっていた。
「ずっと、ここで見ていたの?」
「うん」
ウィルが素直にうなずいた。ユーリティアはウィルの体を抱きかかえ、さらにたずねた。
「寒くなかった?」
「うん」
「でも、体が冷たくなってるよ?」
「うん……本当はちょっと、さむかった」
そういうと、ウィルは器用に外套のなかにもぐりこみ、えへへ、と笑いながら、意味もなくユーリティアの顔を見た。ユーリティアもなぜだかつられて笑いだした。
「じゃあ、下におりよう。司祭様、お茶をごちそうしてくださるってさ」
「本当? ……じゃあ、お母さんと最後のご挨拶するね」
ウィルはユーリティアの腕からすり抜け、沈みかけた太陽にひざまずくと、手をあわせた。そして、小さな声で祈りをささげた。光の精霊すべてが、こうしたことをするのかどうかはしらないが、すくなくともウィルは太陽を母親だと信じ、日没に別れの挨拶をした。
不思議だったのは、その日の太陽は、その日にしか存在しない、とウィルが思っていることだった。だから、光の精霊は太陽に必ず別れの挨拶をする。そして、二度と会えないお母さんのことを忘れないようにしていた。
その日も、ウィルは沈みこむ夕陽に「さよなら」と言った。
「ねえ、ユリ兄ちゃん?」
もう一度、外套のなかにもぐりこんでから、ウィルがたずねた。
「うん?」
「どうして、今日はこんなに風がビュウビュウいってるの? 雲もいつもの雲とちがうみたいだよ?」
真剣なまなざしで見つめられたユーリティアは、やさしくほほえみかえした。
「竜が通るんだよ」
「り…う?」
ウィルが不思議そうに首をかしげる。
「あれ? ウィルは竜を知らないんだっけ?」
「しらない」
「本当に? えーと、そっか。ウィルはまだ生まれて、半年しかたっていないんだったね。なるほど。じゃあ、竜は知らないんだ」
ひとりでうんうんとうなずき、ウィルの頭を撫でる。
「じゃあ、ちょっとだけ、見てみようか?」
「見れるの?」
「うん。でも、これ以上風が強くなるといけないから、ちょっとだけだよ」
「わかった」
ユーリティアはウィルの足を手すりにのせ、半分抱きかかえながら、北の空を指さした。
空のむこう、指さす先に小さな影が浮かんでいた。
影は身を大きくひねり、身体から伸び出した無数のヒゲを振り回し、雲を切り裂き、大地を強く鞭打っていた。
遠くから見るそれは、ちょうど空と大地を喰らうゴーゴンの生首のようだった。
「あれが、りうなの?」
「そうだよ。年に一度、暖かい南の国へと引っ越すために、ここを通るんだ」
「大丈夫なの? おうちとか、こわれないの?」
「大丈夫さ。クルトディアは、そのために頑丈な石で作られているからね。でも、ぼくたちはちゃんと、避難しないといけないよ」
ユーリティアが肩をすくめると、ウィルは腕にしがみつきながら言った。
「うーん。なんだか、こわいヒゲモジャモジャだね」
「霊獣だけど……おっかないよね」
いいながら、ユーリティアは手すりからウィルを下ろし、自分の外套を着せると、むきだしになった白い腕で、飛ばされないようウィルの腕を強くつかんだ。それから、風に押さえつけられた鉄扉を、もう片方の手でなんとか引き開けた。
塔のなかは日が暮れたためにいっそう真っ暗で、角灯があっても前に進むのが怖いくらいだった。だが、ここで一夜を明かすわけにはいかない。ユーリティアは、戸口に置いておいた角灯を持ちあげ、もと来た階段を、ウィルと一緒に、ゆっくりおりはじめた。
4
「それにしても、今年は何頭お通りになるのかしら?」
ヴィ・デナルはレモンの浮かんだ紅茶に口をつけ、なにげなく言った。
テーブルにならべられていた焼き菓子はすでに半分ほど片づき、ちょうど人心地ついたところだった。ウィルもユーリティアも菓子皿にのばす手を休め、ちょっと間延びした時間を味わっていた。
ほこほこと温まっているらしく、ウィルの頬は真っ赤だ。
ユーリティアはミルクティーに口をつけ、それから、ヴィ・デナルの問いかけに答えた。
「うーん、どのくらいでしょうね。王立天文台の話では、少なくとも24頭は通るって言ってましたけど……」
「そんなに? 今年は随分、お通りになるのね」
ヴィ・デナルは、おもしろそうに唯一、雨戸のない小さな見張り窓から外を眺めた。風はますます激しくなり、庭の高木は大きくうねり、乱舞している。
「そろそろ、先頭の竜が通りますね」
ユーリティアが言うと、ちょうど教会の壁になにかがぶつかる音がした。投石器で攻められているような音だった。音は間延びした間隔から、だんだんと、忙しく、激しくなってきた。
「ユリ兄ちゃん、この音なに?」
聞き慣れない音にびくびくしながら、ウィルがユーリティアの腕にしがみつく。
「大丈夫。さっきの竜だよ」
「りう? あのヒゲモジャモジャ?」
「うん。あのヒゲモジャモジャ……さっき見たとき、体をクルクルと回していただろう? あのヒゲが家にぶつかって音を鳴らしているんだ」
「ふーん。あ、また、鳴った!」
ウィルは金色の瞳をユーリティアにむけたまま、うれしそうに報告した。
ユーリティアが小さくうなずく。
「あのね、ウィル。クルトディアでは、昔からヒゲモジャモジャに百回ノックされた家は、幸せがおとずれるっていわれているんだよ」
竜のヒゲは、先端に丸くて堅い石のようなものがついていたから、聞きようによっては、いたるところをノックしているように聞こえなくもない。
ノックの回数は、だんだんと増えていった。
「……23、24、…25……百回ノックされればいいんだよね?」
「そうだよ」
少しぬるくなったミルクティーを一口飲み、ユーリティアはヴィ・デナルが笑っているのに気がついた。
「どうかしましたか?」
「だって、あなたまで竜のことヒゲモジャモジャだなんて言い出すものだから、おかしくて、おかしくて。ごめんなさい」
「でも、本当に、ヒゲモジャモジャですから……」
「まあ、たしかにそうね」
ヴィ・デナルは笑いながらうなずき、そして、話を続けた。
「ところで、いつも思うのだけど、竜はどうして、いつもああグルグル回りながら、お通りになるのかしら?」
「うーん。なぜでしょうね? ぼくもよくわかりません。うちの兄さんたちは、研究しているみたいですけど、年に一度しか通ってくれませんから、あまり詳しいことはわかっていないみたいです」
「そうね、年に一度ですものね。でも……」
ヴィ・デナルは、話の途中でまた笑いだした。
「あれ? ぼく、またヒゲモジャモジャって、いいましたか?」
たずねると、ヴィ・デナルは笑ったまま、首をふって、ウィルを指さした。
「ごらんなさい」
「え?」
ユーリティアが言われたとおりふりむくと、ウィルがこっくり、こっくりと舟をこぎながら、数をかぞえていた。
「62…………63……スー……64…」
ときどき寝息をたてながら、ノックの音を聞き逃しながら、それでもウィルは数えていた。
「ウィル、寝ちゃダメだよ。ほら、起きなきゃ……」
「まあ、いいじゃないの。そのままにしてあげましょう。どうせ、今日はこれからが、ひどいのだし、泊まっていけばいいでしょう?」
「でも」
「遠慮することはありませんよ。それとも、こんな風のなか、本当に帰るつもりだったの?」
先頭の竜が、塔のすぐ上を通過し、風が轟轟と鳴っていた。
ユーリティアは天井を眺め、しばらく考えてから、申し訳なさそうに頭をかいた。
「……それじゃ、お言葉に甘えていいですか?」
「ええ、どうぞ」
ヴィ・デナルは、にっこりとほほえんだ。
「76……77……………スー」
会話が終わりかけたちょうどそのとき、見計らったかのようにウィルが深い眠りに落ちた。そのあまりのタイミングのよさに、ふたりは思わず顔を見あわせ、起こさないよう小さな声で笑いあった。そして、それから再び焼き菓子をかじり、紅茶を飲みながら、ウィルのかわりにふたりでノックを百まで数えた。
百回目のノックを数え終えると、不思議なことに竜の群れはしばらく途切れ、雲間からとても美しい三日月が姿をあらわした。
〈了〉